2008年10月11日土曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (後編-2)

諸問題の解決を妨げる国家エゴイズム
 現在まで世界のほとんどの国で、国の全体のあり方・行き先をコントロールし、リードしているのが国家のエゴイズムです。
 また、例えば、環境問題に関する世界的な会議が度々行われています。しかしながら、それぞれの国が国家エゴイズムに基づいて、いかに自国に有利に持っていくかということに主眼を置いています。そのため各国家間の対立や、駆け引きにより、本当に望ましい成果は上っていません。

 ヨーロッパは比較的環境問題に積極的に取り組んでいます。問題なのは経済大国であるアメリカと日本です。両国とも態度が消極的で、出来るだけ経済的な利益を優先するという姿勢を未だに崩していません。また、中国やインドは、自分たちはまだ発展途上国にすぎないのだから、まずは先進国がきちんとやって欲しいと、これも後ろ向きの姿勢をとっています。 
 結局は各国間の対立と駆け引きです。それはどこから出てくるのかと言えば、自分の国さえ良ければいいという国家のエゴイズムを基本の政策としているからなのです。

 それぞれの国は表面的には国際協調が大切だと言っています。ある部分では、そうあるべきだとは思っているのかもしれません。しかし、本音の部分では、つまり、行動の規範、そして、行動の事実としては、世界の主要な国々の政策は国家エゴイズムに置かれているのです。この点が私の本「国の理想と憲法」でもっとも強調しているところです。

国家エゴイズムが個々のエゴイズムを増幅する
 それに加えて、国家エゴイズムによって、個人や企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても物質的欲望が増大し、企業間の競争が激しくなります。それとともに、科学技術文明が急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、逆に科学技術を進歩させます。こうしたことの総合的な結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているということなのです。

「国の理想と憲法」の要旨
 すでに読まれた方もいらっしゃると思いますが、あらためて「国の理想と憲法」の要旨を述べてみたいと思います。

集団エゴイズムから国家エゴイズムへ
 人類は誕生の初期の段階から、安全と自衛のために集団を形成し、それを行動の単位としてその中で生きてきました。そして歴史のある段階から、自分の属する集団の繁栄のために一生懸命働き、自分の属する集団が危急存亡にあるときには、集団の生き残りのために命を賭けて戦ってきました。

 最初は安全と自衛のためだったのでしょうが、より確かな安全と自衛を求めて、他の集団を征服・支配するようになっていきます。その結果、集団の規模は小グループから大グループ、小部族から大部族、小国家から国家へと集団の規模が大きくなっていきます。そして、現在の国際社会では国家を行動の単位としています。

自国の繁栄と生き残り

 この長い歴史の間、集団の根本方針は、一貫して、まずは自分の属する集団さえよければという集団エゴイズム、つまり、自分の属する集団の「繁栄と生き残り」というところに置かれていました。その結果、現在の国際社会でも、それぞれの国の根本方針は、まずは、自分の国さえよければ、つまり、「自国の繁栄と生き残り」というところに置かれています。この「自国の繁栄と生き残り」という根本方針は長い人類の歴史の中で一貫して変わらないものであり、ほとんどの人々にとって、いわば、公理として疑いの余地のない自明のこととされてきました。

行き詰まりの根本原因
 しかしながら、現代の行き詰まりの根本原因を徹底的に探っていくと、その原因はこのいわば公理とされてきた「自国の繁栄と生き残り」、つまり、国家エゴイズムに基づく各国間の対立にあると言えるのです。歴史的に見ると、国家エゴイズムに基づく各国間の対立によって、戦争の規模がどんどん大きくなり、それに伴い、科学技術が発展し、より強力な兵器が開発されてきました。同時に、生産活動や経済活動などが促進され、それらの規模がどんどん大きくなっていきました。 
 
 それでも、それらの規模がそれほど大きくないときには、もちろん、いろいろな問題が生じましたが、問題の深刻さや大きさはまだ余裕がありました。しかしながら、今日では、生産活動や経済活動の増大、核兵器を初めとする大量破壊兵器の開発、あるいは、科学技術の進歩など、によるいろいろな弊害が地球規模にまで膨らんでしまい、そのもたらす問題の深刻さや大きさは、すでに地球や人類の耐えうる限界を超えてしまったのです。あるいは、少なくとも、限界を超えようとしている、と言ってよいでしょう。

行き詰まりを根本的に解消するためには
 この人類社会の決定的な行き詰まりは小手先の手段や方法では絶対解消できないでしょう。行き詰まりを根本的に解消するためには、
 人類社会の進歩(と言ってよいのかわかりませんが)、進んでいる方向を変えるしかありません。今日までの人類社会を進めてき、リードしてきたものは国家エゴイズムに他なりません。国家エゴイズムが原動力となって、今日まで人類社会は進んできたのですから、この人類社会の決定的な行き詰まりを解消するためには、すべての国がその原動力である国家エゴイズムを放棄する以外にはありません。

どうすれば国家エゴイズムの対立をなくせるか
 しかしながら、すべての国が国家エゴイズムを放棄するといっても、みんなで話し合って一斉に放棄するということは不可能です。それこそ、各国のエゴイズムによる疑心によって駆け引きだけに終わるということは、これまでの軍縮会議や世界的な環境会議、国連の会議などの有様を見ればあきらかです。
 すべての国が国家エゴイズムを放棄して、新しい世界を創るためには、どうしても、まずある一つの国が自発的に率先して国家エゴイズムを放棄することから始めなければなりません。

 その国の新しい姿を見ることによって、他の国々でも国の本来あるべき姿に気がつく人々が増えていくでしょう。そうして、それぞれの国で国家エゴイズム放棄への気運が高まっていくと思います。 そのうちに、最初の国に続いて、国家エゴイズムを自発的に放棄する国が出てくるかもしれません。
 そうしているうちに、国家エゴイズム放棄への気運が世界各国でどんどん高まり、ついには各国一斉に国家エゴイズムを放棄しようということにもなるでしょう。

どこの国が最初に国家エゴイズムを放棄するか
 問題は、ではどこの国が最初に国家エゴイズムを放棄すればいいのか、また、国家エゴイズムを放棄するということは具体的にどういうことなのか、ということです。
 私は、最初に国家エゴイズムの放棄を率先して放棄する国は日本であるべきだと考えます。その理由は、そもそも国家エゴイズムの放棄は他国に要求するものではないからです。他国にそれを要求すること自体がエゴイズムに他なりません。したがって、この考えが発生した私たちの国・日本がまず率先して国家エゴイズムを放棄するのが筋であり、正道だと思うのです。

平和憲法は「脱国家エゴイズム」憲法
 それに加えて、日本には世界各国に先駆けて国家エゴイズムを放棄するのに都合のよいくつかの条件に恵まれています。その中でもっとも大きな条件は、日本に世界唯一の「国家エゴイズムを放棄した憲法」があるということです。
ご承知の通り、第9条により現行日本国憲法は平和憲法と呼ばれています。読んでみましょう。

[日本国憲法 第九条]
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊は明らかな憲法違反
 このように、第9条は「戦争の放棄と戦力の不所持」を宣言しています。ちなみに、自衛隊は明らかな憲法違反です。しかし、当時の政府は、自衛権は国際法でも認められている当然の権利であるので、自衛のための戦争とそのための戦力の保持は認められるとして自衛隊を認めさせました。

 もちろん、日本に自衛権は当然あります。しかし、自衛権と自衛のための武力による戦争とはそのままイコールではありません。自衛には武力や戦争によらない自衛の仕方、例えば、積極的な外交政策などによる自衛の仕方もあるからです。

 自衛ということについて言えば、第9条は「自衛権は当然あるが、日本はあえて武力による自衛のための戦争を放棄する」と言っているのです。もし自衛のための戦争や戦力の所持をみとめるのであれば、当然、第9条には「自衛のためには、さにあらず、武力を持って戦う。」というような文言が付け加えられているはずです。つまり、第9条は「日本は自衛のための戦争を含め、一切の戦争をしない。したがって、一切武力は持たない。」と言っているのです。

前文に国家エゴイズムの放棄が書かれている
 この第9条は人類史上においても本当に素晴らしい画期的な宣言です。ただ、これだけであれば、「戦争はしたくないので、一切戦争はしない。だから武力も持たない」と言っているだけです。これだけでは、完全な国家エゴイズム放棄の宣言とは言えません。

 国家エゴイズムの放棄は前文に書かれています。憲法の前文は単に美辞麗句を並べただけのお飾りではありません。憲法の根本的姿勢を述べているのですから、とても重要なのです。では、前文を読んで見ましょう。

[日本国憲法 前文]
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

前文の意味は
 この前文は意味があいまいだという方もいますが、決してそうではありません。素直に読めば意味は大変明瞭です。
最初の部分は「国民主権」の宣言です。これはとても大切なことです。終戦までの「国家主権」を根本的に否定するものです。国民主権という意味は、国家が国民に命令したり、押し付けるのではなく、国民が国家を主導する権利を有するということです。同時に、これは、二度と国家によって、国民が無理やり戦争に引きずり込まれないようにすることが一つの大きなネライです。

  その後の部分を少し整理・解説してみると、次のようになります。
  「日本国民は恒久の平和、つまり一時的でなく、本当の平和を念願する。そのために、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意した。そしてまた、われわれは、永遠の世界の平和と人類の幸福を実現しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。そのために、平和的な手段によって、世界の様々な深刻な問題の根本的解決に貢献する。本来、すべての国は自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないのである。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」

前文と第9条をまとめると
 この前文と第9条をまとめると、次のようになります。
 「私たちは恒久の世界の平和と人類の幸福を念願します。そのために、自分の国さえよければいい、という国家エゴイズムを放棄し、世界の諸国民の飢餓や貧困などの解決とその繁栄のために、国家をあげて全力で努力し、世界の国々にとって、なくてはならない存在になります。そのことによって私たちは、国の平和と存立を図ります。また、平和的な手段によって、世界の平和と繁栄に国をあげて貢献することによって、国を守ります。したがって、一切の武力を持たず、自衛のための戦争を含めて一切の戦争を行いません。」

 これは人類史上初めて、そして唯一の画期的な躍動感あふれる国家エゴイズム放棄宣言です。これはとても大切なことです。現行日本国憲法の平和宣言は、第9条で「戦争の放棄と戦力の不所持」を言っているだけではないのです。前文ではさらに踏み込んで、われわれは、自国のことのみに専念しないで、世界の平和と人類の幸福を実現するために、全力で平和的手段によって国際貢献する。そして同時に、そのことによって、国の安全を確保する、と宣言しているのです。

 しかし、一般的に、前文の意味を充分には理解されていない方が多いように思います。もしそうであれば、ぜひ、前文と第9条を繰り返し読んで、理解を深めていただきたいと思います。

日本が脱国家エゴイズム憲法を持っている意味
 憲法は国の根本法規であり、根本政策です。日本がこの脱国家エゴイズム平和憲法を持っているという事実は、世界の国々のなかで、日本が実際に、国家エゴイズムを放棄できる条件にもっとも恵まれているということです。

 しかしながら、日本は憲法発布の後、国も国民もこの脱国家エゴイズムの憲法の精神に沿って具体的な努力をしてきませんでした。前文はただのお飾りになり、また、第9条の真意を無視して、現在では世界有数の軍隊を所持している始末です。もっとも、現在まで第9条が集団的自衛権の行使への歯止めになっていることは評価できます。しかし、それも現在では徐々に崩されかけています。

平和憲法は積極的に活かさなければならない
 平和憲法を守ることは、もちろん、とても大切です。しかし、それだけではダメだと思います。守ろうとするだけでは受身であり、いずれ徐々にすべてが崩されてしまいます。私は平和憲法は積極的に活かさなければならないと思うのです。それで初めて本当の平和憲法になるのだと思います。

 では、平和憲法を積極的に活かすということはどういうことでしょうか?それは、前文と第9条の精神に基づいて、国も国民も共に具体的に政策その他を全力をあげて実行するということでなければなりません。

具体的政策として全力で実行する
 今日、私たちは地球的規模の環境破壊、発展途上国の貧困と飢餓、そして、戦争や紛争の危機など多くの深刻な問題に直面しています。そのために、日本がいちばん世界に貢献すべき領域の一つは地球環境問題であり、もう一つは途上国の貧困対策など国際的な福祉問題だと思います。戦争や紛争に関しては、日本は決して武力を持って直接介入すべきではありません。日本は他国の紛争や戦争に絶対巻き込まれないようにしなければなりません。そして、戦争や紛争の早期停止のために、国連や各国と連携して努力することです。

 そして、日本がもっとも力を入れなければならないのは、紛争や戦争の根本原因である、国家間の対立関係それ自体の解消を図ることです。日本が従来の国家エゴイズムを放棄し、国力を挙げて世界に貢献する道を選択すれば、国家間の対立関係を緩和する大きなきっかけとなるでしょう。

まったく異なった流れを創る
 繰り返しになりますが、人類社会はいろいろな深刻な問題で、文字通り、行き詰っています。この人類未曾有の危機は、これまでの人類社会の進みの方向性や流れのなかで、いろいろと工夫しても、部分的な解決は望めるかもしれませんが、根本的な解決は不可能だと思います。

 根本的に解決しようとすれば、どうしても、これまでの方向性のなかでなく、まったく異なった方向性、あるいは、流れを具体的な実行によって創っていかなければならないと思います。それが、まず日本が国家エゴイズムを放棄するということです。

「国際環境平和国家」を目指す
 具体的には、まず日本が、平和憲法の前文と第9条の真意を積極的に活かし、地球環境問題や途上国の貧困対策など国際的な福祉問題のために国力をあげて貢献するということです。簡単に言えば、日本は、私の呼び方ではありますが、「国際環境平和国家」を目指すべきだと思うのです。

 それは「飽くなき繁栄と生き残り」を根本政策とする、自分さえよければという「エゴイズム国家」から、「他の苦しみを自分の苦しみとして」、その解決に全力を尽くす「脱エゴイズム国家」への転換です。

国に「脱国家エゴイズム」の理想を掲げる
 平和憲法を持っているだけではダメなのです。それを実行する国になることが大切なのです。そういう意味で、日本は、あらためて「脱国家エゴイズム」という理想を国に掲げるべきだと思います。具体的には「国際環境平和国家を目指そう」という理想を国に掲げましょう、ということです。

 日本において、この考えに賛同する方々が増え、この輝かしい理想を掲げる国を目指そうという気運が盛り上がるにしたがって、世界中の平和を愛好する人々は必ず、この人間の真心に根ざした日本の新しい動きを背伸びして見つめるでしょう。そして、これこそが、我(われ)他人(ひと)と共に繁栄する道であることを理解するでしょう。

 そして、それぞれの国においても、脱エゴイズム国家への気運が盛り上がり、それにしたがって、現在までの、国家エゴイズムの対立による国際社会のがんじがらめの緊張体制、あるいは、恐怖体制は急速に緩和してくるに違いありません。
 そうするなかで、世界の深刻な諸問題についても、各国がそれぞれの国家エゴイズムを超えて、真の協力体制の下に根本解決を図ろうという動きが活発になってくると予想されます。
このようにして、人類はこの未曾有の危機をついに脱して、愛と共生をもとにした新しい国際社会・文明を築くことになるでしょう。

本当の生きがい・充実感はあるのか
 国に脱国家エゴイズムの理想を掲げることによって、もたらされる効果は対外的な変化だけではありません。国内においても大きな変化がもたらされます。従来、福祉関係、医療関係、あるいは、教育関係などの分野では自分の仕事や勉強といった個人の努力が、努力の対象となる人の喜びに繋がり、それが努力する本人の喜び・生きがいとなるということはあるとは思います。

 しかしながら、その他の一般の仕事や勉強においては、世の中の進歩のためと思い、どんなに一生懸命努力したとしても、その努力の対象となる人もはっきりとしないばかりでなく、その努力そのものも、この世の中のどこかに吸い込まれていってしまうような感覚をほとんどの方が抱いているのではないでしょうか。

 自分の日常の仕事や勉強、あるいは、生活が自分のため、あるいは、家族のために役に立っているというささやかな充実感はあっても、世の中全体の進歩に確実に繋がっているという実感と充実感、それに伴う人生の真の喜びや生きがいを持っている人はごく一部の方を除いてほとんどいないというのが現実ではないでしょうか。

個人の努力―国家の理想―人類の願い
 それは端的に言えば、日本という国に要となる「私たちが納得のいく理想」が掲げられていないからです。その理想とは、私たちの日常生活での努力が、国内の諸問題の解決に直結し、なおかつ、全人類の危機の回避という人類の願いに繋がるものでなくてはなりません。つまり、必須条件となるのは、「個人の努力―国家の理想―人類の願い」という三つが矛盾せず、繋がり合っているということです。

 私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活がそのまま国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結するような国を創るために、「国際環境平和国家を目指そう」という理想が日本に掲げられれば、私たちの意識は一変するに違いありません。
 この輝かしい国の理想のもとに、私たちはどんなにか生きがいと喜びを感じながら日々の生活を送ることでしょう。そのとき初めて、私たちは日本に生まれた真の喜びと誇りを感じることができるのではないでしょうか。
 以上が私の本「国の理想と憲法」の要旨です。

人間は一体何のために生まれてきたのか
 これはただ私だけの理想論、あるいは、夢物語なのでしょうか。そのように言われる方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、私は、お一人、お一人が「人間は一体何のために生まれてきたのか」ということに静かに、そして、深く思いを寄せていただければ、この考え方は、決して理想論でも夢物語でもなく、世界中の多くの方々に共感していただけるはずだと確信しているのです。

 と言いますのは、この考え方は、本来、私たち人間が持っている、みんなと共に幸せになりたいという真心(まごころ)、すなわち、利他の精神・共生の本能に深く根ざしたものであり、それを社会的な問題に具体的に適用したものだからです。いずれにしても、まず、あなたがこの考え方に賛同していただければ、そこからすべてが始まるのです。(続く)

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2008年10月8日水曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (後編-1)

人類の進化の方向 
ここまで私の生き方や体験についてお話してきましたが、次はこの本「国の理想と憲法」の背景となる人類の歴史などについて、一緒に考えていただければと思います。

地球に生命が誕生して、すでに何十億年か経ちます。最初はウィルスのようなもの、あるいは、単細胞生物が生まれ、そして多細胞生物に進化したようです。その後進化の過程を経て哺乳類が誕生し、最終的に数百万年前に最初の人類が誕生したと言われています。そして今・現在があるわけです。

人類は何を願って生きてきたか
問題はこの長い年月の間、人類は何を願い、また、人類社会はどのような方向に進化してきたのかということです。結論的に言えば、まず安全、便利、快適、高能率などを求めて人類の歴史が刻まれてきたのではないかと思います。それに付随して物質的な豊かさを求めてきたのではないでしょうか。これは安全、あるいは、生存の確保にも繋がります。

その一番の原動力は大脳の発達だと思います。大脳の発達こそが人類の先祖といわれている類人猿、あるいは、その他の動物と決定的に異なっているところだと思うのです。

科学技術への確信
とくに、有史時代、つまり、1万年か8千年前から今日まで、便利、快適、高能率を求めていく努力が段々報われてきました。要するに、科学的な合理性に対する確信のようなものが、地球上にはまだそこまで発達していない人たちもいますが、人類全体に広がってきました。

とくに、18世紀後半からの産業革命から、個人でも国家でも企業でも、便利、快適、高能率を求め、科学技術が優先され、急速に発達してきました。そういう意味で、科学的な合理性に対する確信と科学技術の急速な発達がこれまでの人類社会の一つの大きな特徴だと思います。これは人間と動物と何が違っているのかというときに、どなたも納得される人間の一大特徴ではないでしょうか。

瞬間的に人間が絶滅する可能性
私は便利、快適、安全、高能率の象徴が核兵器だと思います。最近では、タバコなど吸わないというのが、とくにアメリカでは流行していますけれども、タバコを吸いながらボタンをポンと押せば、10分後30分後に何百万・何千万の人間を殺すことが出来るという風刺画が少し前にありました。タバコを吸いながら指1本で何百人を殺しながら、自分は安全なところにいられるわけです。便利快適を求め、そのあげくに、もっとも高能率で、しかも自分は安全でいられる。こういう兵器を人類は開発してしまったわけです。

米ソ間の冷戦状態がもっとも激しかった頃には、地球上の人類全体を何十回と繰り返して殺せるだけの核爆弾が存在し、また、それを敵国に30分以内で打ち込めるミサイルが何千機も米ソ双方にありました。気ちがい沙汰です。科学技術文明の一つの象徴的な事実はそういうことです。これは、瞬間的に人間が絶滅する可能性があるということです。

慢性的に人類全体が滅びる可能性
また一方で、慢性的に人類全体が行き詰まり、滅びる可能性があると思われるのが、皆さんもご存知の、地球規模の環境破壊、人口爆発、食糧、エネルギー危機、原発問題などです。
六ヶ所村の再処理工場がフル稼働しているときに、もし大きな事故が起これば、どの程度の被害が出るだろうかという試算があります。その報告をみて愕然としたのですが、地球上の半分の地域の生物がことごとく死滅するであろうと言われています。六ヶ所だけではなく、フランスの施設でも、ヨーロッパ全体が吹っ飛んでしまうような事故がやっとのところで未然に防げたということがありました。

あまり強調されていませんが、チェルノブイリにしてもスリーマイルにしても、ほんのちょっとしたことから偶然が偶然を呼んで大事故になっています。つまり、どんなに事故防止に努めていても、思わぬことで大きな事故が起こりうるし、事実起こっているということです。そして、いったん事故になったら、とてつもなく大きな犠牲と被害がもたらされます。便利、快適、高能率を求めてきた科学技術文明が結局こういうものを生み出してしまったということです。

さらに教育の問題があります。日本だけでなくて世界全体で教育環境が破壊されています。その結果青少年が大きな精神的被害を被っています。人間的に力がない。若い人には気の毒な言い方ですが、心が歪んでしまった若者たちや子供たちが増えていることが、いろいろな調査で明らかになっています。

このままの方向では
核兵器の問題や環境問題など社会的なのことだけでなく、人間のこころ自体が蝕まれて来ている。このままの方向で、人類社会の進路・方向性を変えない限り、人類社会は本当に行き詰まってしまいます。現在は決定的な行き詰まりの寸前に来ているのではないかと思います。

ではこの行き詰まりを超える道はないのか、これが最も大切なことだと思います。私は偏った科学技術文明の合理性を変えない限りは、この行き詰まり・滅びへの方向は変わらないと思うのです。この考え方を変えないで、こうしたら、ああしたらということでは根本的に何も変わらないと思います。人類は根本的に間違った方向へ進んで来てしまったということです。その結果があらゆる面での行き詰まりとして現れているのだと思うのです。

存在の真実を自覚する
ところが、一方では、すでに2,500年前、あるいは2,000年も前から、釈迦やキリストをはじめ多くの賢人・聖人が、自分が生きることの意味に疑問を持ってさんざん苦しんだ挙句に、「自分とは何か」ということをはっきり自覚した方々がいらっしゃいます。その方たちは自覚を得た後、人間社会・人類の行き詰まりを見通して、それを超える道を自ら歩みながら、同時に人にも説いてきたと思うのです。

「自分とは何か、この世界とは何か」という自覚を体得した人たちが共通して言っていることは、人間社会は決してバラバラの他人の寄せ集めではない。人間だけでなく、全ての生物・無生物も含めて全宇宙が不可分の一体であるということです。人間の五官を通して大脳で判断すると、バラバラに見えるかもしれないけれど、その存在の真実の姿、実相は不可分一体であると言っています。

太陽光線とプリズム
常識的には、バラバラに見えているものが、本来はすべて一つのものであるということは理解しにくいのですが、それは五官を通して見ているからなのです。自覚を得た人たちはその五官を超えたところで観ています。その関係を考えてみますと、太陽光線は無色ですが、そこにプリズムを置くとそれが七色に分かれて見える。七色のそれぞれの色の間にはまたいろいろな色があるのだと思いますが、無数の色に分かれている。
 存在のあり方を私たちの五官というプリズムを通して大脳でとらえれば、バラバラに分かれて見えるけれども、存在のあり方の本当の姿・実相はこの太陽光線が無色であるように、すべてが一つなのだと、このような表現形式になるかと思います。

人間の特徴は大脳の発達
猿ともっとも異なる人間の特徴は、異常とも言える大脳の発達です。大脳は五官を通して認識・判断をします。この大脳が発達しているがゆえに、人間はなかなか本来の実相を捉えることが出来ないということになります。

少なくとも100年くらい前までは、人類の歴史の中で人類が破滅するとか、何千万もの人が死んでしまうというような大規模な戦争はありませんでした。したがって、まだ全体としてゆとりがあったために、多くの優れた賢者、聖人、自覚した人たちの言われることに多くの人々は耳を貸さなかったのだと思います。

これまでの宗教
もちろん、そうではない方々もいらっしゃいました。それらの方々が仏教やキリスト教などの真髄をずっと今日まで繋いで、伝える努力をしてきたということはとても尊いことです。しかし、社会全体としては人々はそれらの声に真剣に耳を傾けてこなかったと思います。せいぜい自分や家族のために健康や家内安全、家族の繁栄を神仏に祈るというような現世利益的なレベルで宗教というものを捉えてきたのだと思います。決してその全部が悪いことだとは思いませんが、仏教の信者、キリスト教、その他の宗教の信者であるという人でも、全体的にはそういうことだったと思います。

宗教の本質に戻る
しかしながら、この人類の行き詰まりを超えるためには、あらためて自覚を得た先人の声、真実の声を聞いて、存在の真実に目を開くしかないのだと思うのです。私たちはそういう時代に生きているのだと思います。この認識がとても大切だと思います。

もう一点は、人類社会の行き詰まりは社会全体の問題であると同時に、一人一人の生き方そのものにも関わっているということです。したがって、自分自身の本当の生き方を明らかにする、つまり、自覚することがとても重要だと思います。

人間観の転換、世界観の転換
そこで必要なことは知識でなくて智恵です。知識というのは大脳による、物事を知って細かく分析するところから出てきます。一方、智恵というのは、物事を総合的に、全体像として真実の姿をとらえることから出てきます。この智恵に基づいて考えること、具体的に言えば、人間観の転換、世界観の転換が今もっとも重要なことだと思います。それは本当のこと、存在の真実の姿を自覚するということです。

要するに、これまでのすべてはバラバラであるという見方に基づく科学的人間観から、すべては一つ、自他不可分一体と観る、いわば、宗教的人間観への転換が必要だと思います。

バラバラ観から生じるエゴイズム
バラバラ観を基にした科学的人間観では、お互いの存在は利害を異にする存在ということになります。そこから必然的にエゴイズムが生まれます。自分さえ良ければ、自分の家族さえ、自分の勤めている会社さえ、自分の国さえ良ければ、ということです。

そして、そこからいろいろな不幸なこと・不都合なことが起きてきます。孤独感、優越感、劣等感などの個人的な悩みやモノやカネ、そして、地位や名誉、あるいは権力などに執着する生き方、個人の間のいざこざ、憎しみ、恨み、奪い合い、企業間の熾烈な競争などが起こります。その結果、環境問題、人口爆発、南北問題、搾取、差別や不平等な所有形態などさまざまな問題が生じます。

国と国との間では、国家のエゴイズムの対立となります。そして、お互いの駆け引きが破れたときには戦争になります。そして、一旦戦争となった場合には、人々は自分の属する国家の生き残りのためという名の下に、命をかけて戦ってきました。少なくとも何十年間か前までは、多くの人々が戦争は仕方がないのだ、人間というのはそういうものなのだというような、諦めの中で生きてきました。

国家のエゴイズムが元凶
いろいろなエゴイズムをもっとも助長・増幅しているのが国家のエゴイズムです。国際社会は国家が単位となっています。エゴイズムの基づく国の基本的な方針は、飽くなき自国の繁栄と、危急存亡の時には自国の生き残りです。この二つを国の基本的な政策として、対外政策だけでなく、国内の教育、産業などの政策が進められているといういうのがほとんどの国家の現実の姿なのです。

自分の属している国自体の方向性がエゴイズムの方向にいっているのですから、国の対外政策はもちろん、その中に生きる個人や企業や産業、教育のあり方なども、当然、国の基本方針、つまり、エゴイズムに大きな影響を受けるということになります。

例えて言えば、京都から東京に向かっている新幹線のどの客席も、一号車も二号車も全部東京に向かっているということです。その中でどんなに自分が大阪に行きたい、京都に戻りたいと思っても、その思いを乗せた新幹線自体がまるごと東京に向かっているということです。逆に言えば、大阪に行きたい、京都に戻りたいと思うのであれば、途中の駅で下車して、大阪や京都方面に行く新幹線に乗り換えなければならない、乗り換えればよいということになります。(続く)

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