2010年12月20日月曜日

まごころを丸出しにして生きようーーーある講演会の記録から

まごころを丸出しにして生きよう

はじめに

 今回私がここでお話をさせていただくことになりましたのは、一昨年に出版しました『国の理想と憲法』という拙著がきっかけです。後でこの本の内容にも少し触れたいと思いますが、おかげさまで、聖路加国際病院の日野原重明先生をはじめ、多くの方々から大変好意的なお言葉をいただいております。数名の著名な方々からは「この本は現代のバイブルである」などと過分なお言葉も頂戴いたしました。この本のご縁で、いろいろな方々とご縁ができ、今日ここでお話をさせていただくことになったわけです。改めて、皆様にこころより御礼申し上げます。

どこに心を据えて生きるか

 さて、お釈迦様は菩提樹の下で明けの明星をご覧になり、大悟徹底されました。これから私の話をお聞きになられて、お釈迦様の悟られた内容を、体得はともかくとして、少なくとも、知的になるほどそうだなあと納得される方がかなり出てくるかもしれません。そういうことを狙って、今日はお話させていただきます。それは要するに、私たちはどの辺に心を据えて生きていけば、安心して幸せな人生を送れるのか、ということです。これから私の体験と思索を通して得たものをお話しさせていただきたいと思います。その結論が、今回のお話のタイトルである「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということです。

 「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということは、簡単と言えば、簡単な生き方だと思います。と、同時に、あぶなっかしい生き方だなと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私がそのように生きようとはっきりこころが決まったのは26歳の時でした。それ以来今日まで40年間一度も迷わずにこの道を歩いてきましたが、今でもこれで正解だったと思っています。私は、仏教的生き方のエッセンスは「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということではないかと考えています。しかし、この単純なところに私の腰が据わる26歳の時までには、長い苦しみと葛藤がありました。まず、その辺りの経緯をお話ししてみたいと思います。

生への目覚め

 私は体力もなく、他に何も頼るものもないということから、中学、高校時代はとにかく学校の成績を上げて、将来は安定した会社にでも就職できればと考えていました。幸いにも大学にも進学でき、このまま行けば、卒業後それなりの仕事には就くことができそうだということで、大学生活をエンジョイしていました。

 ところが、20歳のある日、突然「長い宇宙の歴史の中で、この自分の人生は一回きりなのだ」ということに、気がつきました。これは本当に衝撃でした。そして、「自分の人生は一回きり」ということならば、「その人生を最高の人生、こころから納得の行く人生にしたい、しなければ」と思ったのです。振り返ってみると、それまで自分が考えていた将来の生き方は、お店のショ-ウインドーのなかのいくつかの品物の中から、どれがよいかと選んでいるようなもので、既製品の生き方でしかない。自分の中から、どうしてもこう生きたいというという生き方ではなかった。それでは本当には「自分が生きている」とは言えないということに気が付いて、愕然としました。

 その時以来、では、自分はどのように生きたいのか、どのように生きれば、こころから納得がいくのか、ということが私にとって大問題となりました。いろいろな本を読んだりしては、懸命に考えるのですが、結局分かりません。勉強の方も以前ほどは熱心にしなくなりました。そうこうしているうちに4年生になり、就職活動の時期がきました。それでも、自分のこころが定まりません。自分が本当に望んでいるものが分からない状態で、就職を決めてしまうことに大きな抵抗があったのです。結局、もっと考える時間がほしいという思いだけで、東京の大学院に進学することにしました。

自由に生きることの恐怖

 しかし、大学院で勉強も一応はやってはいるのですが、身が入りません。自分はどう生きればいいのか、ということばかり考えていました。人生論、宗教関係の本も読みました。それでもなかなか分かりません。最高の人生を生きたいと思いながら、それだけに内心とても苦しい日々でした。それでも、そうこうしているうちに、自分が本当に望んでいる生き方が次第にはっきりしてきました。それは「世間の何物にも捉われずに、自由に生きたい」ということです。

 こうして、自分が本当に望む生き方がはっきりすると、今度はとても怖くなってしまいました。というのは、「何物にも捉われずに生きる」ということは、「世間的なレールに捉われずに生きる」ということだからです。「レールから外れててでも自由に生きたい」と思えば思うほど、いざとなると、怖くて、怖くて仕方がないのです。これまでの人生で、この時ほど苦しかったことはありません。前に進むに進めない、後ろに退くに退けない、という状態で、本当に切羽詰まってしまいました。

 そうこうしているうちに、眼が充血し、ものすごく痛むようになりました。体力も急激に落ちてきて、このままでは死んでしまうのではないかと思うような状態でした。眼はますますひどい状態になっていきました。医学関係の本で調べると、症状が緑内障にそっくりです。当時は大学院の博士課程に在学中でしたが、本当に緑内障のようなひどい眼病だったら、これまでの長年の努力はすべて無駄になってしまう、と思うと、たまらない気持ちでした。とうとう意を決して、大学病院で診察を受けました。診察後診断結果の説明までかなり待たされましたが、その時は、もう本当にパニック状態でした。

 そうして、やっと先生に呼ばれました。先生の前に行くまで、怖くて怖くて胸がドキドキしていました。そして、先生がいきなり「かなり進行した緑内障です。半年ぐらいで失明するでしょう」と言われました。不安がまさに100%的中したわけです。ところが、不思議なことに、その時、私は非常に冷静に先生の説明を聞いている自分に気がつきました。別に虚脱状態ではありませんでした。ただ、「やはりそうか」と思っただけです。ただ淡々と先生の説明を聞いている自分がとても不思議でした。

自分は変わらない

 その後、病院の玄関を出て、何気なく空を見上げたのです。その時、私の人生最大の奇跡が起きました。「そうか、眼が見えても、見えなくても、自分の人生の意味は何も変わらない。本当の自分というものは変わらないのだ。」ということに気が付いたのです。その瞬間、何かすっきりした感じがして、そのまま、家に帰りました。

 なぜ、そのようなことが自分に起こったのか、後で考えてみました。先生が診断の説明をされている時は、多分、ほとんど自分の思考が停止していたのではないかと思います。考えに考えて、死をも予感するように切羽詰って、前にも進むに進めず、後ろに退くにも退けないと状況が極限に達した時に、自分の大脳が破壊寸前の危機を感知し、大脳自体の安全確保のために、緊急措置として、思考という活動を自動的に停止したのだろうと思うのです。そして、思考が停止することによって、かえって、五感を超えて、それまで見えなかった真実がはっきり見えたのではないかと思います。

 そういう意味では、この気づきは決して誰かに自慢できるようなことではありません。業の深い私を何かの力が救ってくれたのだと思います。業の深い自分はこのようなことでしか、救われなかったのだと思います。

まごころ丸出しで生きる

 その後、1週間ほどの間にいろいろな気づきが次々に起こりました。その時の自分のこころは非常に透明になっていました。そして、はっきりと思ったのは「この透明なこころで生きればいい。安心してまごころ丸出しで生きればいいのだ。それだけでいいのだ。この生き方で、将来、たとえ乞食になり、野垂れ死にすることがあっても、何の悔いもない。もう一つはっきりとこころが決まったことは「事実をただ、そのままそっくり受け止めればよいのだ」ということです。

 仏教では心というのはいろいろな意味で使われているようですが、私の言う「まごころ丸出しで」という場合の「まごころ」というのは、通常の思考や感情などの通常の心を超えたところに、元々存在する自分の本体から湧き出てきているのだと思います。

 当時は、この気づきは、それまでの私にとっては人生最大の出来事でした。すべてが180度変わり、生きることが俄然楽しくなりました。本来、自分は何一つ欠けるところのない存在である。状況がどんなに変わっても、自分は変わらない。事実は事実として、そのまま受けいれればよい。恐れるものも心配するものも、何もない。当時は、生死の問題そのものを突き詰めたわけではありませんでしたが、死さえもまったく怖くないという心境になりました。「生は生、死は死」という事実があるだけで、よけいな感情は一切入る余地はないと思いました。

 こういうことがあって、その後、毎日が光り輝いて、楽しくてしょうがないという日々を送っていました。緑内障のこともまったく気にならなくなっていました。そして、何もしていないのにもかかわらず、半年ぐらいして、気が付いてみたら、緑内障が治っていたのです。体の状態も回復していきました。人間の体とこころの関係は実に不思議なものです。このことがあり、人間の体には、本来自分の体を整え、異常を調整する偉大な力が備わっているのだ、ということをはっきりと知ることができました。それはその直後に野口整体に出会い、その実習を通して絶対の確信となりました。

 私は自分の問題は片がついた、後はその心境を日々の生活の中で深めていけばよいと考えました。そして、これからは、真心丸出しで、世のため人のために生きようと思いました。私は博士課程修了とともに、何のためらいもなく、希望に燃えて、中学校の教師となりました。自分がやっと気が付いたことを若い人たちに伝えたい。そのために教育者になろうと思ったのです。その後、人間のための教育を主眼として、私塾を開き、一貫して教育の道を歩んで来ました。

自分とは何か

 26歳の時は、体や心を超えたところに、自分が存在する、ということに気が付いたわけです。しかし、なぜか、その「自分とは何か」という疑問は自分の中から出てこなかったので、それ以上追求しようとも思いませんでした。それだけで、迷うこともなく生きてきました。しかし30歳の時に、26歳の時の気づきは確かなものではあるけれども、ほんの一部の気づきであり、まったく不十分であったことに深く思い至りました。考えてみると、自分というものは、多くの存在と様々に関係しながら、存在しているわけですから、自分、そして諸々の存在の真実を知らなければならないということに、やっと気づいたのです。

 そんなことを考えている時に、たまたま「自分とは何か、この世界とは何か」ということを、1週間と期間を限定して、徹底的に極めようという機会に恵まれました。毎日朝早くから夜遅くまで食事の時間も惜しんで取り組みました。考えに考え続けました。どんどん自分が追い込まれていきました。その中で、ハッとするような気づきがいくつかありました。しかし、それらは断片的なもので、何か一番大切なことがはっきりしてないという感じで、結局もやもやした感じで1週間が終わってしまいました。ところが、その直後に、突然、何だか自分の体と心の底が抜けるような体感を伴って、存在するものの真実の姿「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」ということが直感的に閃いたのです。「いのち」というのは「この宇宙全体を成り立たせ、そのすべてに働いている力」です。

不可分一体の世界

 「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」ということをイメージ的に掴みにくいかもしれませんが、坐禅一筋に生きた名僧・内山興正老師がご著書の中で次のような解説をされています。少し長くなりますが、それをご紹介いたしましょう。

 江戸時代の話です。あるお寺の裏にカボチャ畑があり、カボチャが沢山なっていました。ところが、ある時何が原因かわかりませんが、カボチャの仲間で喧嘩が始まり、あちこちで、ののしり合いの大騒ぎとなりました。お寺の和尚さんは何事が起こったのかと裏の畑に行ってみると、カボチャたちが大喧嘩をしています。和尚さんは大声でカボチャたちを叱りつけました。「こらっ、おまえたちはとんでもない奴だ。カボチャのくせに喧嘩するなんて。みんな坐禅をしなさい」。

 そして和尚さんはカボチャたちに「こうして足を組んで、腰を立て、背骨と首筋をぐっとのばすのじゃ」と坐禅の仕方を教えました。カボチャたちは和尚さんに教えられたとおりに坐禅をしているうちに、だんだんアタマの興奮がしずまり、気持ちが落ち着いてきました。

 しばらくして和尚さんが静かに言いました。「さあ、みんな、自分のアタマのてっぺんへ手をやってごらん」。カボチャたちはみんな、言われたとおりに自分のアタマの先っぽを手でさわってみると、何かヘンなものがついています。「あれっ。ヘンなものがついているぞ。一体、何んだろう」と言いながら、その先をずっとたどってみました。すると、元の蔓にみんな繋がっていたではありませんか。

 「そうだったのか。本当はみんな繋がっていたんだ。みんなたった一つの生命を生きているんだ。それなのに喧嘩するなんて大問違いだった。」と言って、それからはみんな仲好くしたということです。

 たしかにふだん私たちは、この自分と言っている小さな個体を生きていることは事実です。そのために、私たちはこの小さな個体を自分だと思っています。しかし、本来の自己は、決してこの単なる個体ではありません。個体以上のものなのです。

 例えば、自分の体において心臓がうごき、血液が全身に流れ、一分間にいくつの割で呼吸している力などは、すべて自分自身がそうしようと思い、自分自身が働かせている力ではありません。まったく「自分の思い以上のところで働いている力」によるものです。けれども「自分の思い以上の力」であるからといって、この力は自分ではないのかというと、事実自分において働いているかぎりは、これこそ自己の生命そのものであります。

 このような体の働きだけでなく、自分のアタマにいろいろな思いが浮かんだり、考えたりするのも、なるほどその思いや、考えの内容についていえば、いかにも自分の思い、自分の考えであるように思えるかもしれませんが、その思いや考えを働かせる力そのものは、自分の思いをはるかに超えた力なのです。

 しかし、たとえ、それが自分の思いをはるかに超えた力だといっても、事実自分において働いているかぎりは、やはり自己の生命そのものであることは間違いありません。つまり、自己の生命の実物とは、小さな個体的な自分の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的自分に働いている力なのです。

 これは、私においても、あなたにおいても同じです。思いや考えの内容というものは、おのおの別であるわけですが、しかし、おのおのの個体に働いて、いろいろと考えさせている生命の力というものは、いずれも「小さな自分の思い以上の力」であり、ぶっつづいているわけです。簡単に言えば、同じ一つの生命力なのです。このように、生きとし生けるもの、在りてあるものは、すべてぶっつづきの一つの大きな生命の力を生きているのです。それを私は「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」と表現しています。

 仏教的に表現すれば、尽一切不二、すべての存在は二つに分かれる以前のぶっつづきの生命を生きているということです。禅の世界では、本来の自己のことを尽十法界自己、尽一切自己などと言っております。お釈迦さまが悟りを開かれたときに「我大地有情とともに成道す。山川草木ことごとく皆成仏す」という言葉も、まさしくこの尽一切自己を悟られた言葉だということができましょう。自分がそう思っても、思わなくても、事実は、その思いを超えたところで、「天地一杯の我がいのち」なのです。

 以上の解説を「なるほどな」と心から納得されたならば、皆さんもお釈迦様と同じことを、少なくとも知的に理解・納得されたということだと思います。もちろん、お釈迦様のように体得するに越したことはないのですが、私は、この存在の真実を少なくとも、知的にでも理解することはとても大切だと思うのです。その上で、そういうことだと、心を定める、つまり、決定(けつじょう)して、あるいは、信じて、日々こころがけて生きれば、そのうち、いつの間にか体得されている自分を見出されることでしょう。

いのちの世界

 この辺のところをもう少し、説明してみたいと思います。この宇宙は140億年ほど前に、何もないところから、突然ビッグバンによって始まったと言われています。一番最初に素粒子ができ、それからいろいろな原子、分子ができていきます。そして、長い長い時を経て、無数の星や星雲ができ、今日の宇宙になったと言われてれています。その中に太陽系があり、その惑星の中の一つが地球です。

 地球の誕生は40億年以上前と言われていますが、10億年ほど前に最初の生命が誕生し、最初の単細胞生物から進化によって少しずつ複雑な生物が生まれました。そして、長い年月を経て、現在のこの大自然、その中に、動物や植物たち、そして、私がいて、あなたが、そして、すべての人々が存在しているというわけです。

 このように宇宙は変化しています。それもでたらめに変化しているのではありません。そういう意味で、宇宙は生きていると言うこともできるでしょう。この宇宙が始まるまで、もともと何もなかった、と言っても、まったくの空っぽということではなく、眼には見えない無限のエネルギーがもともとあり、それが何かで突然現象化して、この宇宙ができた、ということです。であれば、現在も変化し続けているこの宇宙に存在するものは、無生物であろうと、生物であろうと、すべてこの一つの無限のエネルギーの表れであり、働きである、と言えるのではないでしょうか。

 この宇宙を創り、宇宙にはたらいている無限の力、あるいは、この宇宙自身の無限の力は、無数の星を創り、大地や山や川、海など大自然を創り、大自然にはたらいている力、すべての動植物、そして、私たち一人ひとりを生み出し、生かしている力です。それを私は「いのち」と呼んでいます。ということで、私がここで言う「いのち」とは、生物的いのちだけを言うのではありません。

もともと一つのいのち

 一人一人の人間の生命は1個の受精卵から始まります。その1個の受精卵が細胞分裂して2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、何回も細胞分裂を繰り返し、結局60兆以上の細胞、各種の機能を持つ組織、器官が生み出され、それらの各要素が全体として、人間という一つの生命体を構成しています。これらの細胞、組織、器官はもともと一つのものであり、人間の体全体が1個の受精卵の別の表現と言うことができます。そして、最初の1個の受精卵の中にもともと、一人の人間の体を創るすべての遺伝子情報、あるいは、能力が含まれていた、ということになります。

 現在地球上のすべての人間の共通の先祖は、15万年前にアフリカに生存していたある一人の女性である、という研究報告があります。もちろん、男性もいたわけです。ということは、私たちの最初の共通の先祖の中に、現在地球上のすべての人間を創る情報が含まれていたということになります。そういう意味でも、すべての人間はもともと一つのものであるのです。

 現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物はもともと一種類の単細胞生物が多様に変化したもので、もともと一つのものです。人間の体と同じように、最初の一種類の単細胞生物の中に、現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物を創り出すすべての情報、あるいは、能力が含まれていたということになります。そもそも、現在の宇宙の中に存在するすべてのものは、もともと一つのもの、すなわち、「いのち」の現れです。

調和と共生の世界

 「いのち」には形も色も大きさもありません。見ることも、聞くことも、感じることもできません。この「いのち」が仏教で言う「空」ということだと思います。般若心経は仏教の真髄を説くお経だと言われています。私は般若心経のエッセンスは「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という言葉だと思います。「色」というのは、この現象界、私たちの認識できる物質的存在のすべてということです。「色と空という別々の二つのものがあるというのでなく、色は空そのものであり、空は色そのものである」という意味です。さらに、色だけでなく、私たちの思考や感情も同じことだと言っています。

 「いのち」の顕われであるすべての存在は不可分一体であると申しましたが、不可分一体というのは、「お互いに密接な関係がある」というような言葉だけではとても言い足りません。人間の体について考えてみましょう。人間の体を構成する細胞、組織、器官それぞれの関係は、互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係であり、互いに循環し、それぞれの特性や役割を果たすことによって、全体である一つの生命体(いのち)が生きることができるのです。つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。人体を構成する各要素は、このようにして調和・共生の世界を形成しています。

 大自然も山、川、雲、雨、海、太陽、鉱物などの各要素が、互いになくてはならない関係であり、補い合う関係であり、それが互いに循環し、一つの大自然という調和・共生の世界を構成しています。大宇宙も同じです。恒星や惑星などが眼に見えない宇宙の法則に従って、整然と循環・運行している調和・共生の世界です。このように、この世界の本質は調和・共生であり、眼に見えない大宇宙の力、すなわち、「いのち」は万物を創造し、生かす無限のエネルギーを持つだけでなく、そのはたらきは、万物に調和と共生をもたらすことである、と言えるのではないでしょうか。

 そういうわけで、「いのち」を仏教では仏性と呼び、その象徴である観音様に帰依すれば、すべての苦しみや煩いから救われる、と言われるのだと思います。般若心経には「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という言葉があります。この思いや感情を含めたこの私たちの世界、つまり、現象界にあるものは、本来すべて「空」であることを明らかに知れば、すべての苦しみや災いがなくなる、ということですが、それは本当です。

 仏教では、個人や世の中の苦しみはすべて無明によると言っています。存在を私たちの五感、そして大きな大脳で認識すると、本当は不可分一体の存在がすべてバラバラに見え、感じられます。大脳はどうしても相対的な思考しかできないので、そこから自と他というように、バラバラに見えてしまうのだと思うのです。そのバラバラ観による認識・判断、そしてそこから出てくるエゴイズムが無明の正体ではないかと思うのです。

生死も所有も優劣もない

 こうして、すべての存在は「いのち」であり、不可分一体なのだ、ということが分かったのですが、そこからいろいろなことが一気にはっきりとしてきました。例えば、生は生、死は死です。同時に、この世界には本来、本当は生死はありません。優劣、差別もありません、誰のものという所有もありません。本来、すべてのものは誰のものでもなく、誰でも使えるのです。したがって、何かに執着することもありません。本来自分を縛るものはなく、人間はどこまでも自由な存在であり、何でもできるのです。もともと自分の思いと事実は違うものですから、思い通りにならなくても腹を立てることもありません。たとえ体が病気になったとしても、こころまで悩ませる必要はないわけで、悲観したり心配したりしないで、明るい気持ちで体を治すことに専念すればいいのです。

 仕事や家庭などで、物事が思うとおりにいかなくても、悲観したり心配したりしないで、明るく方策を練り、実行に移すことです。思いごとを叶えたければ、叶うかなあなどとくよくよ迷ったりせずに、明るく叶うように、叶うようにしていくだけです。そして、もし結果が思いどうりにならなかったとしても、もともと思いと事実は違うのだということを納得していれば、結果に捉われることもありません。その事実をすっきりと受け止めて、明るく生きていくだけではないでしょうか。

不生

 26歳と30歳の時の直感的な気づきがより鮮明になったのは、その後『盤珪禅師語録』という本を読んだ時です。盤珪禅師というのは江戸時代の禅のお坊さんです。その本の中で「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。仏心は不生であり、霊明なものである。一切は不生で整う。不生が一切の本である。不生が一切の始めである。」という言葉で出会い、本当にはっきりと自分の体験を整理することができました。

 「不生」というのは、もともと初めからこの宇宙にある「いのち」ということです。そして、「不生の仏心」こそ、私の言うところの「まごころ」なのです。また、盤珪禅師は「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。」と決定して、不生の仏心のままに生きなさい、と説かれています。「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。」ということは、真実の自分は「いのち」である、ということです。

 そしてさらに「すべての迷い、苦しみ、争い、憎しみ、怒りなどは、我が身の身びいきにより起こる」と言われております。「我が身の身びいき」というのは、自分と他人をバラバラのものと分けて考えるところから出てくる「自分さえよければ」という「ケチな根性」、言い換えれば、エゴイズム、利己主義ということです。要するに、盤珪禅師が言われることを平たく言えば、「いのち」の要請に従って、まごころ丸出しで、生きなさい。そうすれば、すべてが上手くいき、安心して生きることができるのだ、ということだと思います。

決定して生きる

 盤珪禅師は悟りを開くために、何年も苦しい修行をする必要はない、と言われています。そして、親が産み付けたものは不生の仏心一つであると「決定して」という言葉を使われています。「決定して」という意味は文字通り、そのように決めて、定めるということです。要するに、そのように納得し、思い定めて、そのように生きなさい、ということだと思います。私は業が深く、長年もがきにもがいた末にやっと、本当のことに気がついたわけですが、確かにそう言われれば、その通りです。素直にそう思えれば、それでいいのです。

 この世の中には、悟りや見性の体験はなくても、こころの優しい、思いやりに溢れた方々がたくさんいらっしゃいます。これは、悟ろうが、悟るまいが、不生の仏心がもともと一人ひとりに備わっているということです。不生の仏心が共生本能として、人間にはもともと備わっていると言ってもいいでしょう。いずれにしても、それが自然に、あるいは、本人の心がけによって、外に出てくるのだと思います。ということであれば、そのような方々はすでに不生の仏心で生きておられるということです。

 もちろん、悟りや見性すれば、それに越したことはないと思いますが、そうでない方は改めて決定し、日々そのこころを見失いように努力をすればよいということです。そうすれば、まず自分が狭いケチな根性から脱して、いつの間にか広い明るい気持ちで生きられるようになっているでしょう。そして、自分の周りに信頼と思いやりの輪が広まっていくことを体験され、これこそ、人も自分もともに幸せに安心して平和に生きる近道であり、正道であることに気づかれるでしょう。そしてまた、その体験を通して、存在の真実をいつの間にか体得していることに気づかれることでしょう。なぜなら、その真実はもともと私たちに備わっているものですから、そう生きるように心がけていれば、自然に中からますます納得が深まり、まごころが湧き出てくるようになっているからです。

 繰り返しますが、まごころ丸出しで、安心して生きることは、本当はもっとも楽な生き方であり、決して難しいことではありません。しかし、この現実世界の中において、果して自分一人まごころ丸出しで、実際に安心して生きていけるのか、それは現実離れした空想にすぎないのではないか、という疑問も出てくるかもしれません。確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。それだけしかないのであれば、つねに不信や対立の心を持って生きていかなければならないでしょう。そこからは必ず不安や焦燥、奪い合いや争いが出て来ます。その中で時には、一時的な幸福感を得ることもあるかもしれませんが、永続する真の幸福はありえません。他に対して不信や対立の心があれば、本当に安心して平和に生きていくことはできないのです。

 確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。しかし、それらは表面的な現実でしかありません。深い真実の愛こそ「より確かな現実」であり、心の眼を開けばそれは明らかです。深い現実の事実は愛と信頼に基づく自他共に伸び栄える共生と調和の世界です。この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして、生きていくことこそ「いのち」の求めるところです。この「いのちの世界」には常に調和と共生の世界を実現し、維持しようとする力がはたらいています。それがこの宇宙、「いのち」の世界の法則です。この法則に沿って生きることこそ、より確かな現実に生きるということなのです。そして、これこそ幸福に生きるもっとも確かな道なのです。

 要するに、自分はこころの一番深いところで、どう生きたいのかということを見極め、それに決定して従えばいいのです。従うかどうか、これは「信」の問題であり、本当の宗教、あるいは本当の信仰に入れるかどうかの分岐点でもあります。

社会の諸問題の解決の鍵

 この生き方は個人と個人の間だけのものではありません。社会の諸問題の解決についても、原理はまったく同じことなのです。それは決して無謀なことでも夢のような理想論でもなく、最も確実な平和への道なのです。現代の世界や日本は、環境破壊や戦争、貧困、食料不足など、いろいろな非常に深刻な問題を抱えて、文字通り行き詰っています。私たちは人類史上もっとも深刻な危機に直面しています。このままの方向で進めば、何十億という人々が大きな被害を被るだろうと、識者は警告しています。日本を含めて、人類社会は破滅へ向かってどんどん進んでいるというのです。

 では、この流れを食い止める方策はないのでしょうか。これまで各問題に対する方策はいろいろと講じられていますが、根本的解決の方策は提示されてはいません。諸問題の根本的解決は、このような危機に至った根本原因を明らかにし、それを取り除かなければなりません。本来、不可分一体、調和・共生ということは、自然界においては当たり前の姿です。そして、人間の社会本来のあるべき姿なのです。

根本原因はエゴイズム

 それにもかかわらず、人類社会がこのような事態に至ったのは、これまでの人類の生き方、考え方の基盤が根本的に間違っているということなのです。それは、自他バラバラの存在であり、自他は競争・対立する存在であるとするバラバラ観に基づくエゴイズムということです。すでに2500年前にお釈迦様が喝破されましたように、およそ人間の個人的、あるいは社会的な苦しみや争いの根本原因はエゴイズムにあるのです。

 エゴイズムには個人エゴイズムだけでなく、家族、企業などの組織、地域、国家などの集団エゴイズムがあります。人類社会はこのエゴイズムを基盤として、ある意味では発展してきましたが、今やそれが根本的に誤りであり、破滅への道であったことが事実によって証明されたわけです。

国家エゴイズム

このいろいろなエゴイズムの中で、人類社会の行き詰まりをもたらした最大のものは国家のエゴイズムです。現代の国際社会は国家を単位として行動しており、それぞれの国家の基本方針、国是はエゴイズムに置かれています。要するに、自分の国が一番大切、自分の国さえよければ、ということです。そこにあるのは、猜疑と不信と競争と対立です。

 それに加えて、国家エゴイズムによって、個人や企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても物質的欲望が増大し、企業間の競争が激しくなります。それとともに、科学技術文明は急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、科学技術を進歩させます。こうしたことの総合の結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているのです。国家エゴイズムの対立が先に述べました、国際、あるいは国内のいろいろな深刻な問題の元凶であり、同時に、国際環境会議や軍縮会議などでお互いに自国に有利に運ぼうとする、駆け引きに終始して、一向に解決への合意に至らないなど、深刻な諸問題の根本的な解決の大きな障壁となっています。

国家エゴイズムを超えて

 ということは、この人類社会の危機を乗り越えるためには、これまで自明のこととされてきた国際社会における国家エゴイズムの対立を解消する以外にはありません。しかしながら、これまでも国家エゴイズムの解消の必要性が説かれることはありましたが、すべての国が話し合って一斉に国家エゴイズムを放棄することは机上の空論でしかないことは、先に述べた国際会議での駆け引きを見ても明らかです。

 では、どうしたら国際社会における国家エゴイズムの対立を解消できるのでしょうか。それは個人の場合とまったく同じだと思います。愛と信頼に基づく自他共に伸び栄える共生と調和の世界。この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして生きていくこと、すなわち、まずいずれかの国が一方的に率先して国家エゴイズムを放棄することです。そうすれば、平和を愛する世界の心ある多くの人々は、これこそ人類社会が諸問題を解決できる、もっとも現実的な方策であり、正道であることを改めて納得することでしょう。そうすれば、世界のそれぞれの国において、国家エゴイズム放棄への気運が大きく盛り上がっていくに違いありません。

現行日本国憲法は脱エゴイズム憲法

 では、世界に先駆けて率先して国家エゴイズムを放棄する国は、どこの国であったらよいのでしょうか。これも個人の場合に、まず自分がまごころ丸出しで生きなければならないのと同じように、まず自分の国、日本がそうするということでなければなりません。実は、日本には、一方的に国家エゴイズムを放棄することを宣言した平和憲法があるのです。最初に国家エゴイズムを放棄する国として、日本ほど有利な条件に恵まれた国はありません。平和憲法の精神は前文と第9条です。

* [日本国憲法 前文]

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

* この前文は意味があいまいだという方もいますが、決してそうではありません。素直に読めば意味は大変明瞭です。少し整理・解説してみると、次のようになります。

  「日本国民は恒久の平和、つまり一時的でなく、本当の平和を念願する。そのために、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意した。そしてまた、われわれは、永遠の世界の平和と人類の幸福を実現しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。そのために、平和的な手段によって、世界の様々な深刻な問題の根本的解決に貢献する。本来、すべての国は自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないのである。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」

* ご承知のように、第9条は軍備の撤廃と戦争放棄を謳っています。
 前文と第9条をまとめると、つぎのようになります。

 「私たちは恒久の世界の平和と人類の幸福を念願します。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意しました。そのために、自分の国さえよければいい、という国家エゴイズムを放棄し、世界の諸国民の飢餓や貧困などの解決とその繁栄のために、国家をあげて全力で努力し、世界の国々にとって、なくてはならない存在になります。そうすることによって私たちは、国の平和と存立を図り、国を守ります。したがって、一切の武力を持たず、自衛のための戦争を含めて一切の戦争を行いません。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓います。」

 これは人類史上初めて、そして、唯一の国家エゴイズム放棄宣言です。長い人類の歴史のなかで、いろいろな経緯によって、私たち日本に国家エゴイズムの放棄を謳った平和憲法が与えられたということは、私は決して偶然ではなく、必然的なものであると思います。平和憲法は大きな犠牲者をもたらした度重なる戦争の悲惨さを直接体験し、二度とそういうことがあってはいけないという深い反省の中から生まれた人類のまごころ、叡智が結集して、日本に与えられたのだと確信しています。私は日本人にはこの人類の歴史の中でもかつてない危機を乗り越えるための先駆けとなる人類史的使命が与えられているのだと確信しています。

 しかしながら、平和憲法発布後これまで、日本の国もほとんどの日本の人々も平和憲法の精神に沿って、努力してはきませんでした。そこで私はこの憲法の精神をより能動的に理解し、あらためてそれを活性化させるために、「日本に新たな理想を掲げよう」と提案しているのです。具体的には、平和憲法の精神を積極的に活かし、まず日本が、国内の問題と同じように、地球環境問題や途上国の貧困対策など国際的な福祉問題のために、平和的な手段で国力をあげて貢献するということです。簡単に言えば、国際環境平和国家」の実現です。平和憲法を持っているだけではダメなのです。それを実行する国になることが大切なのです

国際環境平和国家を目指す

 人類社会、あるいは日本社会の危機を乗り越えるためには、これまでの流れの中で解決しようとしても、それは無理だと思うのです。根本的に解決するためには、これまでの人類社会の流れの外に出るしかないのです。そのためにはまず一番に、従来の国の基本的な方向性を根本的に変えることが肝心です。それは利己・対立から利他・共生の方向に変えるということです。それが「国際環境平和国家を目指すという理想を国に掲げよう」ということです。仏教的に言えば、「大乗菩薩国」を創ろうということです。

 前に述べましたように、日本において、この考えに賛同する方々が増え、この輝かしい理想を掲げる国を目指そうという気運が盛り上がるにしたがって、世界中の平和を愛好する人々は必ず、この人間の真心に根ざした日本の新しい動きを見て、これこそが、我(われ)他人(ひと)と共に繁栄する道であることを理解するでしょう。そして、それぞれの国においても、脱エゴイズム国家への気運が盛り上がり、やがて、各国がそれぞれの国家エゴイズムを超えて、真の協力体制の下に根本解決を図ろうという動きが活発になってくると思うのです。

日本に真の理想を掲げよう

 国に脱国家エゴイズムの理想を掲げることによって、対外的な変化だけでなく、国内においても産業、教育、福祉、環境対策などにおいて大きな変化がもたらされます。同時に、この輝かしい理想が日本に掲げられれば、私たちの意識は一変するに違いありません。私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活がそのまま国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結することは私たちにどんなに大きな生きがいと喜びを与えてくれることでしょう。そのとき初めて、私たちは日本に生まれた真の喜びと誇りを感じることができるのではないでしょうか。

 これはただ私だけの理想論、夢物語なのでしょうか。そのように言われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、この考え方は、本来、私たち人間が持っている、みんなと共に幸せになりたいというまごころ、すなわち、利他・共生の本能に深く根ざしたものであり、それを社会的な問題に具体的に適用したにすぎません。私はこれこそ存在の真実に深く根ざしたもっとも現実的な考え方だと思います。

自分も国もまごころ丸出しで

 まず、自分がまごころ丸出しで、安心して生きていこうと決定すること。そして、自分の国が、まごころ丸出しで、世界の恒久の平和実現の先駆けとなること。それらは決して別々のものではありません。「自分は一体何のために生まれてきたのか」ということに静かに、深く思いを寄せていただければ、必ずこころから納得していただけるものと確信しています。

 それでも、いつでも「まごころ丸出しで、安心して生きたい」とは思っても、現在のことや先のことを心配するから、人間は努力するのではないか、と思われる方もおられるでしょう。しかし、心配だから努力するというのは、悪い結果を予想して、それからのがれるための努力です。そういう努力は、頑張った割には、それほど素晴らしい成果を上げることはできません。こころの根本がマイナスに向かっているからです。あせったりして、こころが冷静でなければ。アタマもフルには働きません。それに対して、無知の楽観主義ではだめですが、こころの根本で安心してする努力は、努力が空回りすることもなく、思考や判断も冷静であるので、自分の力をすべて出し切ることができるのです。

 それでも、私はどうも心配性で、という方もいらっしゃるでしょう。確かに、心配や取り越し苦労は苦しみや不幸の原因です。ですから、そういうことがないに越したことはありません。人生の達人というわけではないのですから、そういう方は、何か惨めだとお思いになる状況では、何も心配しなくてもいいのだ、と言っても、心配や不安になってしまうのは仕方がないかもしれません。

本当は何も心配しなくてよい

それでも、心配や不安の底に、本当は何も心配しなくてもいいのだ、心配する必要はないのだ、というどっしりしたものがあれば、心配しながらも安心して生きていけるのです。「本当は何も心配することはない」と言うことは、本当に素晴らしいこの世界の真実なのです。この世界はそういうようにできているのです。これは間違いのない真実です。

 そして、私たちはこの肉体が死ぬ時には、にっこり笑って死にたいものです。そのためには、にっこり笑って今を生きることです。どんな状況でも「よしきた」と明るく受け止め、まごころ丸出しで、全力で生ききることです。全力で生ききったものにのみ、安らかな死があるのです。生きることは本来難しいものであるはずがありません。

 人生は苦しいものなどと、一体誰が言ったのでしょうか。苦しみは自分が作り出した錯覚です。人生、楽しく幸せなのが本当なのです。それは誰にでもできることです。今からでもすぐにできることです。長時間ご清聴ありがとうございます。

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自分は存在するか?

自分は存在するか?

1 まず、「自分は存在する」と仮定してみよう。
 眼はいろいろなものを見ることができる。しかしながら、眼は眼自身を見ることはできない。それと同じように、自分は自分以外のものは見ることができるが、自分は自分自身を見ることはできない。

 つまり、「自分は自分以外のものは対象として認識できるが、自分は自分自身を対象として、これが自分自身だとは認識できない」のである。すなわち、「自分は何々である」と考えたとしたら、すでに、その何々は自分以外のもの、すなわち、自分ではない、ということである。これは自己矛盾そのものである。
たとえば、もし、「この体と心が自分である」と(自分が)考えるならば、すでに、この体と心を自分以外の対象物としている。すなわち、この体と心は自分ではない、ということである。したがって、「この体と心が自分である」ということ自体が間違いなのである。

 同じように、もし「自分は宇宙である」と考えるならば、宇宙は自分以外の存在、自分と宇宙は異なったもの、つまり、「宇宙は自分でない」と言っていることになる。体や心、宇宙だけでなく、この世界のすべてのものについて、同じことが言える。

 要するに、仮に、「自分は存在する」としても、自分は自分自身を認識できない、したがって、これを自分だ、と特定することはできない。したがって、「自分は存在するかどうか」は知りようがない、ということになる。

2 フランスの有名な哲学者デカルトは次のように言っている。「我思う、故に我在り」と。
 彼は正しいと言えるだろうか? 端的に言えば、まったくの間違いである。その根拠を書いてみよう。このテーマは「我は存在するか?」ということである。それにもかかわらず、彼はまず「我思う」と言っている。つまり、我の存在を最初から前提にしているのだ。そして、結論として「故に、我在り」と言っている。ということは、「我が在る、故に、我が在る」と、理屈にもならないことを言っているにすぎない。最初から論理に矛盾があるのだ。

 しかし、彼の本当に言いたいことを推察してみると、おそらく、それは、「考えが存在する。だとすれば、考えている主体があるはずだ。それが自分である」ということであろう。もし、この推察が正しければ、彼の考えは一見筋が通っているように思えるかもしれない。デカルトだけでなく、多くの人は哲学的には思考しなくとも、ほとんど無意識のうちに同じように考えているのではないだろうか。しかし、ここにいくつかの疑問が出てくる。

 まず第一に、「考え」は事実として存在する。ここまではその通りである。しかし、彼は次に、当然のこととして、「考えている主体がある」としている。しかしながら、「考えている主体」が本当に事実として存在するのか?ということはまったく問われていないのである。

 第二に、「考えている主体」というものがあるとして、それはどこにあるのであろうか? 多くの人は「それは脳である」というかもしれない。あるいは、脳は体の一部であるから、「それは体である」というかもしれない。確かに、科学的な研究によれば、考えている時には脳の特定の部分が活発に働いていると言われている。であれば、これは科学的事実と言ってよい。

 しかし、それ故に、「考えている主体は脳である」と言えるだろうか。考えることに脳が関与していることは事実としても、体や脳以外のどこかに存在する「何か」から何かの刺激を脳が受け取って働いているのかもしれない。だとすれば、脳がコンピューターのようなものとして働いている可能性もある。だとすれば、脳を動かせている「何か」こそが考えている主体と言えないだろうか。

 第三に、仮に、「考えている主体」が存在するとしても、あるいは、存在しないとしても、どこから「自分」というものを持ち出してきたのであろうか? そのどこに「自分」があるのか? 

3 仮に、「考える主体」が存在するとし、「考える主体が自分」であるとしよう。「考える主体」が、仮に、脳、あるいは体、あるいはその他の何であったとして、「これ」が自分だと考えたとする。しかし、前に述べたように、「これは自分ではない」。

 つまり、「これが自分である」と考えたものが「自分」であるはずだ。そうであるなら、「これは自分ではない」と考えるものが「自分」であると考えざるをえない。そうであるなら、さらに、「これは自分ではない、と考えるものが自分である」と考えるものが「自分」ということになる。

 この思考の連鎖はどこまでも続く。これではアタマの中だけで、自分は何か?と追い続けているだけで、いつまでも「自分は何か?自分はどこにあるのか?」という答えは見つからない。「自分というものは当然あるはずだ」という思い込みから、「自分」というラベルを何かに付けているだけである。それが何であれ、「自分」というラベルを付ければ、それが「自分」になるわけではないのだ。

 多くの人は「自分はある」という単純な思い込みから、知識や記憶、感覚、あるいは、考え(思い)、「生きている」というような意識を含めた心や脳や体、あるいは、アタマで想像した何か、例えば、宇宙、空など、何かに「自分」というラベルを勝手につけて、それを自分と思い込んでいるだけである。そして、多くの場合、「この体と心が自分である」と決め付けている。

 「自分はある」としたとしても、「自分は何か?」と問うもの自身がソレなのだから、「自分」以外の何かに「自分」というラベルをつけることは矛盾している。それだけでなく、そもそも、「自分」は自分自身に「自分」というラベルをつけることはできないのである。

4 要するに、「自分」というものは、いくら考えてみても、理屈では見つけることができないということだ。「自分というものがあるか?」「自分は何か?」「自分はどこにあるか?」などというものは、アタマで追い求めることから抜け出して、体験的事実を捉まえるしかないのである。「在るか?ないか?」は理屈ではない、事実はどうか?ということである。

 例えば、時計がテーブルの上にあるかどうか? ということを事実として確認するのと同じレベルである。「自分」があるかどうか?という事実を体験的に捉えることは実は決して難しいことではない。瞑想して、アタマのはたらきを静めて、「自分はあるか?」ということをただ確かめればよい。

 考え(思い)もある、意識もある、感覚もある、体もある、呼吸もある、どこからともなく、風の音や鳥の声が聴こえてくる、自動車の音も聞こえる、眼を開けば、木や花や、壁や、テーブルも見える。空の雲も見える、夜空の星や月も見える。それは事実である。しかし、どこにも考える主体というものはなく、どこにも「自分」はない。それが事実である。

 繰り返すが、たとえば、考え、あるいは、思いはどこからともなく現れ、そして、一時的に存在しているかのように見え、そして、消えていくものである。考え、あるいは、思いは(たとえ一時的にせよ)存在する。それは事実である。しかし、ただそれだけである。

 このように言っても分かりにくいかもしれない。しかし、正しく瞑想すれば、「自分というものがある」という思い込みに惑わされることなく、事実を体験的に捉まえることができるのだ。すなわち、無意識のうちに分別し、ラベルを貼ろうとするアタマのはたらきが、瞑想をすることによって静まれば、これはすぐに分かる事実である。デカルト流に表現すれば、「思う、されど我なし」である。
といっても、かならず瞑想しなければ分からないということではない。「自分はある」という思い込みを棚上げすることができれば、いつでも容易に確認できる事実である。

5 もう少し考えてみよう。あなたの友人が時計を買ったとしよう。もし、彼に、「その時計は誰のものか?」と問えば、彼は何も考えることなく、「この時計は自分のものである」と当然のこととして答えるであろう。「買った時計は当然自分のもの(所有物)である」と多くの人が決め付けている。

 多くの人は何についてであれ、「それは誰のものか?」と問われれば、「自分のもの」「誰々のもの」「みんなのもの」などと答える。それは所有観念を持っているためである。それでも、「あの星は誰のものか?」と問われれば、「あの星は誰のものでもない」と答えるであろう。

 しかしながら、物でも何でも、本来は誰のものでもない。「誰々のもの」というのは、社会において作られた概念、あるいは、個人的な観念にすぎない。したがって、同じ物であっても、社会のあり方によって、「自分のもの」、「国家のもの」、あるいは「みんなのもの」などと一応の約束ごととして規定されているだけなのだ。

 「所有」というものが本来的事実として存在しているわけではない。「所有」というものは人間が便宜的に作り出した概念にすぎない。その物自体はもともと「誰々のもの」ということとは関係なくただ存在しているだけである。

 時計はあの星と同じように、本来、「誰のものでもない」。ただ時計である。「所有」などない。すべてのものは、そのもの自体として、ただ存在しているだけである。同じように、考えや思いは、ただ考えや思いとして存在しているだけである。「所有」はもちろん、「その主体」もないのだ。所有という意味ではなく、主体という意味の「誰々の」ということはないのだ。

 同じように、この体は存在する。それは事実である。しかし、それだけである。「誰々の」ということはない。心についても同じである。すべてのものはただ存在している。それだけである。「自分」というものはどこにも存在しない。主体という意味では、「あなた」も「彼も」「彼女」もどこにも存在しない。誰も存在しないのだ。

6 体、心、感覚、意識、自然、風、雲、空、大地、海、山、川、太陽、星、木、花、ネコ、犬、家、テーブル、本などなど、すべては存在する。しかし、それらはバラバラ、つまり、互いに分離した存在ではない。それらは見えない、聞こえない、五感では捉えることのできない、名も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形で顕現した姿であり、すべての存在の真実は不可分一体である。

 「すべては不可分一体である」という存在の真実については、別の機会にあらためて詳しく述べたいと思うが、すべての存在はバラバラであるという思い込み、すなわち、バラバラ観を手放すことさえできれば、誰にでもすぐに分かる事実である。バラバラ観を手放すためには正しい瞑想をするのが近道である。しかし、瞑想しなくとも、日常の生活の中でバラバラ観をちょっと棚上げして、事実を見れば、不可分一体の存在の真実に気がつくことができるだろう。決して難しいことではないのだ。気がついてみれば、ごく当たり前の事実である。

7 例えば、庭に出てみる。そこに一匹の小さなアリが動いている。このアリはちっぽけな虫けらなのであろうか? たとえば、この小さなアリを消すことはできるだろうか? たとえこのアリを踏み潰してみても、姿が変わるだけで、アリを消すことは絶対にできない。このアリは厳然として眼の前に存在している。
このアリを宇宙のすべての存在が支えているのだ。そして、この小さなアリが宇宙のすべての存在を支えている。もし、このアリが消えれば、その瞬間にすべての存在が消えてしまうだろう。それどころか、宇宙そのものが消えてしまうのだ。このアリがすべての存在であり、宇宙そのものである。そのようなものとして、アリは厳然として存在している。

 このアリは肉眼で見れば小さな存在である、しかし、心の眼で見れば宇宙大である。このアリは小さくも大きくもない。大きい小さいというのは人間の近視眼的な勝手な分別でしかないのだ。

 「大小というものさし」で測って「大きい、小さい」というのは、我々の限界のある五感に映った事実の皮相な一面にすぎない。本質的には、大小というものはない。アリだけではない。一人ひとりの人間の存在についても同じである。すべての存在が不可分一体という絶対的な事実の中に存在しているのだから。しかし、そこにも「自分」というコロッとしたものがあるわけではない。

8 このように、すべての存在は不可分一体で、もともと一つのものではあるが、その不可分一体のこの部分、あの部分という意味で、例えば、「この木、あの木」、あるいは、「この身体、あの身体」と言うことはできる。そこにはバラバラであるという意味はない。

 しかしながら、「自分」という観念は、「自分はもともと他の人々や物から切り離された存在である」という意味を含んでいる。したがって、多くの場合、そこに「自分」あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言ったり、思った途端、無意識のうちに、「自分」は他から分離した存在であるという意識が生まれてくる。

 したがって、「自分というものはあるか?」ということは「他から分離した自分」というものはあるか?ということを確かめようとすることになる。しかし、「他から分離した自分」であろうと、「不可分一体の自分」であろうと、もともと「自分」というものは存在しない。

9 この宇宙のすべてが、五感では捉えられない、名前も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形やはたらきとして顕現した姿である。
どうしても「自分」という言葉を使いたければ、もともと「自分」といものはないのだから、すべてが「自分」であるということである。すなわち、「あなた」も「自分」、「彼」も「自分」、「彼女」も「自分」、みんな「自分」である。
そして、この花も、あの木も、山も川も、鳥の声も、自動車の音も、あの星も、目の前にある本も、テーブルも、この宇宙のすべてが「自分」である。すべてが一つのもの(Oneness)であり、その一つのもの(Oneness)が「自分」である。
出会うものすべてが「自分」である。他から切り離された「自分」などというものは存在しない。「自分」は宇宙とぶっ続きの生命である。これは理屈ではない、事実だ。

10 しかしながら、前述のように、「自分」という言葉は「他から切り離された自分」という意味を濃厚に持っているので、「本来、自分はすべてと不可分一体である」という意味では、「自分」と言うよりも、「自己」、あるいは「本来の自己」、あるいは「真実の自己」などと表現するほうが分かりやすいであろう。
もちろん、日常の生活においては、バラバラ観さえ持っていなければ、便宜上、「自分」、あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言う言葉を使うことは一向に差し支えない。要するに、不可分一体の存在の真実をどこまではっきりと体験的に自覚しているかが問題なのだ。     

11 禅の語録から。
 釈尊何日にもわたる瞑想の後、ふと明けの明星を見て、曰く。「奇なるかな、奇なるかな。我一切衆生(すべての存在)とともに成道す(悟った)」。

 白隠禅師曰く。「衆生本来仏なり」。

 達磨大師「そこにいる者は誰か?」と問われ、答えて曰く。「不識(知らない)」。

 南嶽懐譲禅師「ここに来たものは何か?」と問われ、答えて曰く。「説似一物即不中(何か一言でもこれだと言ったら、すでに当たらない)」。

趙州禅師「如何なるか祖師西来の意(達磨大師がわざわざインドから中国にやってきた真意は何か? すなわち、釈尊の発見した世界とはどんなものか?)と問われて、曰く。「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」。

南陽慧忠国師「何が仏心か?」と問われて、曰く。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく。土塀や瓦け)」。

 これ以上説明は必要ないだろう。しかし、最後に、少しだけ付け加えておこう。
 実は、釈尊も、白隠禅師も、誰も、今も昔もどこにもいないのだ。さらに言えば、柏樹子も障壁瓦礫もない。まさに、奇なるかな、奇なるかな。
 どこからともなく声が聞こえてくるようだ。「今そう言っているものは一体何ものなんだ?」。しかし、答えるものはどこにもいない。
どうやらこの辺で止めておいたほうが無難らしい。

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赤城山自然牧場は何を目指しているか

赤城山自然牧場は何を目指しているか

食の自立に向けて

 私たちは20数年来「赤城山自然牧場」(畑1町2反、田んぼ4反)で自然農法を目指して活動しています。

発足
 赤城山自然牧場というのは、今から20数年前に私の考えに共鳴した数名の若者たちと共に、畑も田んぼもなく、資金さえも全くないという文字通りゼロの状態から、それこそ、寝食さえも犠牲にするような状況の中で、いっさい他からの資金的援助を受けずに、汗水を垂らし、自らの労力で資金を稼ぎ、土地や農機具を購入し、ここまで築きあげてきたものです。しかしながら、これまでに達成できたことは、当初、私が掲げた目標のごく一部にしか過ぎなく、そういう意味で、まだまだ今も発展途上にあります。

地飼い養鶏法
 赤城山自然牧場の目標については、おいおい説明していきますが、最小限の土地を購入した後、最初に手掛けたことは素人にも金をかけずにできる地飼養鶏法のモデル作りでした。廃材や中古のトタンをあちこちから貰い受けて、鶏舎を建設し、廃鶏を安く譲ってもらって、2,3か月かけて、それらの廃鶏を蘇らせることから始めたのです。私自身農業の経験がなく、まったくの素人でしたが、私には素人だからこそプロにできないような考え方もできるはずだという確信めいたものがあったのです。無駄なことや失敗もありましたが、数年間でこれはというものができました。

 最初は10羽の廃鶏から始めましたが、徐々に食卵用のニワトリを増やし、1000羽ぐらい飼うようになりました。その結果わずか1年ほどで収入的にも十分採算が取れるようになりました。卵の品質や味も大変好評で、東京の有名寿司店へも出荷していました。独特のやり方と卵の品質が評判となり、新聞の記事になったり、ラジオの番組でインタビューを受けたり、他の市町村からも視察団が来るほどになりました。

 私は日本の将来を考えたときに、どうしても農業従事者がもっともっと増えていかなければならないとずっと考えてきました。そして、素人が農業者を目指すときに、どうしたら経済的にも労力的にもスムーズに転向できるか、農業者として一家の生活を維持し、発展させていけるかということを考えてきました。その結果、そのために最も良い方法は地飼いの養鶏からスタートすることではないかと思い至りました。野菜や米づくりなどはどうしても技術や経験がないと難しく、ましてやそれで十分な収入を得ることができるようになるまでには相当の年月が必要です。その点、地飼いの養鶏は正しい知識と簡単な技術がありさえすれば、2,3か月で一家を支えるに足る収入を得ることができるのではないか、その収入で生活を維持しながら、徐々に野菜や米づくりに手を広げて行けばよいのではないかと考えたのです。このような考えに基づいて、実験的にモデル作りをゼロからやってみたのです。

 このモデルを一応完成させるために、私たちは筆舌に尽くせないほどの苦労もしましたが、一方では希望に満ちた楽しい日々でもありました。モデルづくりが完成すれば、新しく農業者を目指す人は、資金がほとんどなくとも、土地さえ使えれば(借りてでも)、私たちの作りあげたモデルをそのままマネしてやってゆけば、農業者として充分生きて行ける。そうすれば、農業者を志す人達がどんどん増えてくるだろうという希望と祈りがあったからです。

無農薬イネづくりーー深水法
 地飼い養鶏法のモデルが一応完成して、ある程度の収入が入るようになってからも、できるだけ生活は質素にして切り詰め、収入の大部分を新しい土地の購入資金に回しました。そして、次に手掛けたことは、素人にも簡単にできる無農薬のイネづくりのモデル作りです。最初は、本を頼りにすべて人力で田を起こし、代かきをし、苗床で苗を育て、手植えで田植えをしました。もちろん、いっさいの農薬や除草剤は使いません。ところが、ヒエや雑草が大量に繁殖して、イネづくりをやっているのかヒエづくりをやっているのか、雑草を育てているのか分からないような状態になり、近くで田んぼをやっているお百姓さんたちもあきれていたようです。それでもその年どうにかそこそこ収穫することができました。

 それにしても、真夏の太陽の下での連日の雑草やヒエ取りには参りました。これではダメだということで本格的に研究を始めましたが、結局、これという解決策が出なくて、翌年も悲惨な結果となりました。そうこうしているうちに、不思議なご縁で、深水法の数少ない伝承者である松村平八郎さんと知り合い、早速翌年、平八郎さんの指導で深水法を実践することにしました。おかげでその年からは田植えの後イネ刈りまで、一度も田んぼに入る必要がなくなりました。深水法のおかげで、ほとんど完全に雑草やヒエが押えられるようになったのです。収量もこの地域ではほとんど一番というほどになりました。それ以来、毎年深水法でやっていますが、最初笑っていた近所のお百姓さんたちにも感心されるほどになりました。米の品質も、お世辞抜きで、魚沼産のコシヒカリよりもおいしいと数多くの人達から賞賛をいただいています。

 これで、素人にも簡単にできるイネづくりのモデルが一応できました。一応というのは、私にはプロの人達と張り合う気持ちはなく、ただ、素人であっても、それほど手をかけることもなく、ほどほどの結果が出れば大成功だと考えているからです。マニア的になれば、イネづくりにしても養鶏にしても完成度はもっともっと上げることができると思いますし、そのようにやっている人もいます。しかし、そのために費やす労力や費用を考え、トータルな視野に立って見ると、どうも帳尻が合わなくなってくるような感じがするのです。

 深水法はこのように簡単で素晴らしい方法なので、もっともっと普及することを心から望んでいます。深水法では長苗を使います。最近の田植え機は調整すれば長苗でも植えられるようになっており、除草剤を使わず、しかも丈夫なイネが育ち、農薬の量も減らせるわけですから、深水法は一般の農家でも歓迎されて、全国に広がって行く可能性があります。また、長苗専用の田植え機の開発は技術的にはそんなに難しくはないと思います。そうなれば、深水法が日本の自然環境を守るために大変効果的方法だと広く認識されるでしょう。多くの人達に深水法の素晴らしさを知っていただきたいと思います。

 将来的には直蒔き法と陸稲づくりの実験もやってみたいと考えています。というのは、手植えによる田植えも人手さえあれば何とかなりますが、一人や二人でやるとなると結構大変な作業となります。機械植えは簡単ですが、おカネがかかります。この問題をクリアーするために、ぜひ直蒔き法を完成させたいと思っているのです。

 直蒔き法は福岡正信先生の粘土ダンゴ法をはじめ、幾人かの先人の業績があります。それらの方法を実験的に研究して、一般に普及できるモデルができればと考えています。陸稲づくりも、ちょっとした空き地を活用して、イネ作りができる道が開けたら、とても素晴らしいことになると思うのです。

野菜づくり
 野菜作りは究極的には「種さえも蒔かなくてもよい野菜づくり」を目指しています。つ まり、野草や山菜は人問が種を蒔かなくても、毎年自然に生えて育ちます。このように必 要な野菜が庭や畑に毎年自然に生えて育ってゆけば、これが本当の自然農法だと思うので す。要するに、人間ができるだけ手をかけなくて済む農法のモデルができれば、日本、そ して、世界の食料問題(さらには地球の砂漠化防止)の解決にとても有効だと考えられるのです。前述の福岡先生はこのモデルを野菜づくりだけでなく、イネづくりや麦づくり、ミカンづくりなどでほとんど成功されているようです。

 その意味で、福岡先生の思想と業績は世界的に本当に偉大です。もっともっと多くの人が福岡先生の考えを知って欲しいと願っています。私たちは福岡先生の「エデンの園」を私たちの気象条件と地形条件の中で、追試的に実験して、一般に普及しやすいモデルを作りたいと思っています。

 しかしながら、現実はなかなか思うようには進んでいません。今の段階は有機農法に毛が生えたぐらいで、まだまだ相当人手を掛けなければ、できるものもできないという状況です。私たちの畑は以前牧草地として使われていて、かなり化学肥料や農薬が撒かれていたようです。その後しばらくは放置されていましたが、初めはとても土壌が痩せていました。また、購入する種子にも問題があるようです。F1はもちろん使いません。しかし、現在市販されている種子は人工的に品種改良(私たちの考えから言えば、品種改悪?)されているために、生命力そのものがとても弱くなっているようです。このような悪条件が重なっていることと、その他いろいろな問題があり、私たちの目標から言えば、今ひとつ思うように行っていないことを率直に認めざるを得ません。これらの悪条件や問題をどう克服するかが、現在そして今後の課題となっています。

 しかし、私は「理想は信念と方法によって必ず実現できる」という強い信念を持っていますので、「この課題も必ず達成できる」と楽しみに研究と実践を進めています。現在は福岡式自然農法実現のための中間的な方法としてEM自然農法を実施しています。

農業と農
 こうして実践を重ね、研究を進めているうちに、「限りなく本当の自然農法の実現に向 かって、できるだけ化学肥料や農薬を使わない農業や農法の普及や研究が必要である」と いう確信がますます強くなってきました。と同時に、次のような考えが芽生え、だんだん 大きくなってきたのです。それは、「農業と農を区別すべきである。そして、むしろ農の 普及こそが大切なのだ」という考えです。

 簡単に言えば、空気と水は別として、すべての人間が毎日絶対的に必要とするものは食料です。現代では大部分の人は自分にとって一番必要な食料を金を払って間接的に手に入れています。古代の狩猟文明や農耕文明においては、ほとんどすべての人間が食料の獲得や生産に直接関わっていました。つまり、ほとんどの人がいわゆる生産者であり、同時に消費者でした。その後、分業文明が進み、生産者と消費者の分離が進みました。それでも、世界史的に見ても、わりに最近まで生産者であり同時に消費者である人々が全体の多数を 占めていたのです。生産者と消費者の分離が急速に大きく進んだのは、せいぜいここ40年ぐらいの間のことです。特に、戦後の日本においては工業立国の名のもとに、農村から都市へ大量の人口移動が進み、また、外国からの食料輸入が大幅に増え、生産者と消費者の分離が当たり前の姿になってしまったのは多くの方々もご承知の通りです。

 私は近代文明のすべてを否定するものでは決してありませんが、人間はもともと自然の 中で誕生し、気の遠くなるほどの年月自然の中で進化してきました。人間がいろいろな面 において自然から遊離しはじめたのは、人類の長い長い進化の歴史の中では、ごく最近の できごとであり、人間の体や心の仕組みは根本的には、まだまだ現代の非自然的生活環境 にほとんど適応できているとは言えません。

 そういうわけで、人間にとってもっとも大切なものは、自分の体と心の自然性を保ち、さらに、それを保つためにも、きれいな空気ときれいな水、そして、安全で健康な食料を得ることだと言えましょう。「これらのものを犠牲にする、あるいは、犠牲にさせるすべての個人的、家庭的、社会的生活や営み、そして社会政策等はすべて間違っている」と言っても決して過言ではないと思います。そういう意味でも、人間の本来あるべき生き方という観点から、社会的な意識を高める必要があると同時に、個人的に、あるいは、家庭的にせめて、安全で健康な食料を手に入れることが望ましいということになります。さらに、自分あるいは家族で食べる食料を自分たちでできるだけ生産することは、文明の非自然化がここまで進んできた今日においてこそ大変重要になってきているのではないでしょうか。

 簡単に言えば、今日の一般的常識とは大きく異なっていますが、素直に考えてみると、せめて自分の食べるものぐらい、できるだけ自分で作ろうということのほうが、人間にとって当然のことではないかと思われてくるのです。そういう意味で、食料はその他の生活用品や単なる商品とは根本的に性質が異なると思います。食料をただの商品としか認識しない多くの人達(消費者だけでなく生産者も含めて)に真実を見詰める目と自覚を持っていただきたいと切に望んでいます。

 私たちは天の恵みの中で生を受け、自然の恵みの中でこそ生きて生けるのです。食事の前にどんなに手を合わせ、「いただきます」と言っても、それが単なる空虚な形式や習慣になってしまっている人達が本当に多いようです。そういう人こそ、ぜひ心掛けて、家庭菜園にでも挑戦していただきたいと思います。そうすれば、私たちが考えていることを理屑抜きに理解していただけると思うのです。もし、私たちが考えていることが日本全国の多くの人達に理解され、実践されるようになれば、食糧問題などは必然的に解決され、人々は心身共に健康になり、この世界に生きる意味もより深く理解でき、人々はお互いに助け合うのが当たり前になり、派生発展的に、環境問題や教育問題など、現在深刻になっている種々の社会問題も大きく解決の方向に向かうことが予想されます。

 私たちが農業と農を区別し、農をもっともっと普及すべきだというのは、農業は現代社会のメカニズムに一つの産業として深く組み込まれており、それを正しい方向に直接的に変革していくことは、大変困難(不可能ではないでしょうが、今のところメドがいっさい立たないと言えます)であるからです。その点「農」は個人的、あるいは家庭的に、あるいは仲間同士で心掛けることによって、比較的に簡単に実現することができます。このような人々が増えていきさえすればいいのです。そうなれば、社会的な認識も高まり、結果的に、農業も本来あるべき姿が自然にはっきりしてきて、よりよい方向に変革されてくるでしょう。

 農は何よりまず楽しいものだと思います。この野菜がいくらに売れるかとか、姿形を気にする必要もないわけですから、農薬を使う必要もなく、気楽に、気持ちのいい汗を流し、みんなで協力し合い、成長する過程を楽しみ、出来たものを共に感謝して食べる。何より、心身が充実してきます。

真の世界平和に向けて
 これまで述べてきたことをまとめて、とりあえず「食の自立に向けて}と表現しておき ましょう。その視線は、とりあえず自分たちだけのための自給自足の実現ということを越 えて、日本の社会全体に向かっているということは理解していただけたと思います。

 しか し、同時に私たちは赤城山自然牧場の構想を立てたときから今日まで、常に真の世界平和の実現という目標を見据えながら活動してきました。現代の世界の困難な状況を根本的に克服するためには、どうしてもその根本原因である国家のエゴイズムを解消しなければなりません。そのためには、日本としては今後どのように世界の平和に貢献できるかということが問われなければなりません。

福岡式自然農法と野口整体
 近代文明が完全に行き詰まった根本原因は、一言で言えば、不完全な人智を頼りにして、自然からますます大きく離れる方向に進んできたということにあると思います。いたずらに、西欧式の文明にあこがれ、盲目的に追従するのではなく、海外への真の協力ということを考える際にも、それぞれの地域、地方の伝統と文化、独自の生き方を尊重し、活かしてゆくと同時に、本当の普遍的な道を伝えて行くこと、すなわち、真のグローバルな叡智と技術を伝えていくことが根本でなければなりません。

 私たちは福岡式自然農法と野口整体(野口整体については、別の機会に詳しく述べるつもりです。)の両者はまったく同じ原理に基づいているととらえています。すなわち、「自然をそのまま生き、活かす」という原理です。その意味で、日本が福岡式自然農法やEM自然農法、野日整体を海外に向けて発信していくことは人類史的な大きな意味と効果があると考えています。私たちのささやかな試みが将来大きな花を咲かせることを夢見ながら、赤城山自然牧場は今日も活動しています。

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