2011年8月5日金曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(付録編)

福島の原発大事故から見えてくるもの(附録編)
ある講演会の記録より


CO2温暖化説は正しいか
 もう一つ原発推進の根拠として「原発は温暖化の原因である二酸化炭素、CO2を出さない」とよく言われます。しかし、前に述べましたように、原発は決して石油を節約することにはなりません。したがって、「原発はCO2を出さない」とは言えないのです。

 実は、特に最近になって「CO2温暖化説は間違っている」という声がいろいろなところから出てきています。もし、本当にCO2温暖化説が間違っているのだとしたら、これは大問題です。歴史的なスキャンダルということになるかもしれません。

 CO2温暖化説が本当に間違っているのなら、各国のエネルギー政策は根本的に間違っていることになります。また、CO2削減を主要なテーマとする数々の国際会議もまったく見当違いのものだということになります。すなわち、もし、CO2が温暖化の原因でない、ということが真実であれば、将来的な資源不足や資源枯渇の可能性は別として、石油や石炭、あるいは、天然ガスなどの化石燃料を思う存分使っても、温暖化は起きないことになります。

 正直に言えば、実は、私自身もすでに数年前に、「CO2温暖化説は間違っている」という意見があることを知って「もしかしたら、それが真実なのかもしれない」という思いがなかったわけではありません。

 しかしながら、それでも、結局、世界中で「CO2が温暖化している」と言っているのだから、やはり、CO2温暖化説は正しいのだろうとこれまでは思ってきました。

 ところが、最近になって「CO2温暖化説は間違っている」とする本が何冊も出版されるようになりました。そこで私もあらためてそれらの本を読んでみたり、インターネットで情報を集めて検討してみたのです。

 その結果、この問題に関して、どうしても見過ごしにできないいくつかの事実があることが分かりました。これから書いていくことは、それらの事実のうち、もっとも私たちに分かりやすいものだけをまとめたものです。詳しいことについては関連する本などを読まれることを望みます。

CO2温暖化説はどのようにして広まったか
 1980年代の前半までは「地球は寒冷化している」というのが学会の定説でした。ところが、1988年にアメリカのNASAの研究員であったジェームス・ハンセンという人が、アメリカ上院の公聴会で次のような証言をしたのが「CO2温暖化説」の事実上の始まりです。

 「最近の異常気象、特に、暑い気象が地球温暖化と関係していることは99%の確率で正しい。人間の活動によるCO2が大気中に増え、地球を温暖化している。温暖化が進めば、異常気象が多発したり、海面が上昇するなど、不都合なことが地球を見舞う。」とハンセンは主張したのです。しかし、この主張は発表当初は科学者などからも単なる一つの仮説にすぎないとして、それほど注目はされなかったようです。

 ところが、この仮説にフランスが飛びつきました。当時、フランスは国策として原発を推進していました。ところが、スリーマイル島の原発事故、それからチェルノブイリの原発事故などが起こり、原発に対して風当たりが非常に強くなりました。その結果、このままでは、もはや原発をやっていくことは困難であるという状況があったのです。そこに、CO2温暖化説が発表されたというわけです。

 フランスは政府も電力会社も一丸となって「原発はCO2を出さない。(本当は、原発は決して石油の節約にならないので、CO2を出さないとは言えないということは、これまでに繰り返し述べてきたとおりですが・・・)したがって、地球を温暖化しない。だから、地球環境を守るためには原発がもっとも望ましい。」というキャンペーンを大々的に繰り広げ、国を挙げて原発を強力に推進していったのです。なぜ、原発を推進したいのか、それは前にも述べましたように、莫大な利権が絡んでいるからです。

 それが欧米の各国に広まっていきました。ドイツを中心として国際的な政治問題にまで発展しました。その中心となったのが国連のIPCC、すなわち「気候変動に関する政府間パネル」です。

 この動きは欧米だけではなく、世界中に広がっていきました。日本も例外ではありませんでした。当時の環境庁は国内の企業各社による公害問題が一応収まって、環境庁への予算も大幅に削られかねない、そして環境庁の存在意義そのものが問われていたと言われています。

 そこに、CO2温暖化説が欧米から伝わってきたのです。どこまで本当か分かりませんが、当時の環境庁の上層部のある人が「これで行ける!このCO2温暖化説でこれからも環境庁はやっていける!」と言ったという話があります。いかにもありそうな話です。

 いずれにしても、世界中で同じような動機でこのCO2温暖化説がもてはやされるようになったのではないかと推察します。その辺の事情について、現在の環境省に関わる人が、CO2温暖化説は最初あくまで一つの仮説だったのだが、それがいつの間にか事実である、ということになってしまっていた、と話されています。

 それまではずっと地球は寒冷化しているという説が定説のようになっていたので、突然、地球は温暖化していると言われて、少し戸惑った方も、科学者だけでなく、多かったようです。当時、私も少し違和感を抱いたことを今でも覚えています。

 しかしながら「産業革命以来、石炭や石油などの化石燃料を大量に消費するようになった。そのために、毎年、保温効果のあるCO2が増え続けている。その結果、温暖化が進んでいる」という説明は、それなりに理屈に合っているように思えたのは事実です。

 また、その説明とともに提示された「毎年のCO2濃度の変化と気温の変化を記録したグラフ」を見ると、確かに、20世紀の後半より気温が急激に上昇してきているように見えます。そして、それがCO2濃度の増加とよく符合しているように見えるのですから、科学者を含めて多くの方が、CO2温暖化説を認めるようになりました。現在では、CO2温暖化説はほとんど定説であると言ってもよいほどです。

CO2温暖化説を検証する
 ところが、その定説だと思われ、多くの人々が信じ切っていたCO2温暖化説に、最近とくに、はっきりと異論を唱える人々が出てきたのです。私もそれらの人々が書かれた本などを読んでみました。 ここでは、それらの本に書いてあることの中で、誰にでも分かりやすいいくつかの事実についてのみ説明いたします。

1 気象学者のキーリングは30年にわたり南極とハワイでCO2濃度を測定して、CO2温暖化説に根拠を与えた一人です。しかし、その当人が後になってCO2温暖化説を覆す事実を発表したのです。

 彼は長年にわたる気温変化とCO2濃度変化の関係をグラフにしています。それを全体的にざっと見ますと、一見、気温の変化とCO2濃度の変化がよく符合しているように見え、CO2温暖化説を裏付けているように見えます。

 ところが、そのグラフを詳細に見てみると、明らかに「気温の変化が先に起こり、その後にCO2濃度が変化している」ことが分かります。実は、私も4、5年前にそのことに気が付いて、何だか変だな~と思ってはいたのです。

 要するに、これは「何事も先に原因があって、その原因によって結果が引き起こされる」というこの世界の鉄則から言えば、「気温の変化によってCO2濃度の変化が引き起こされる」ということなのです。

 つまり、キーリングのグラフによれば、「まず、気温が上昇する。その結果、CO2の濃度が増加する」ということです。このことから言えることは、明らかにCO2濃度の増加が気温の上昇をもたらしたのではない」ということです。

 「まず、気温が上昇する。その結果、CO2の濃度が増加する」というのは、一応次のように説明できるのではないでしょうか。

 (例えば、太陽の活動が活発になることによって、あるいは、他の原因で)太陽光の入射量が増えることによって、まず気温が上昇する。その結果、海水の温度が上がり、海水中に含まれているCO2が蒸発して、空気中のCO2濃度が増加する。

 確かに、現段階では、これも仮説には違いありません。しかし、「CO2温暖化説は絶対正しい」という固定観念を一応横において考えてみれば、大いに説得力があるのではないでしょうか。

2 人間の産業活動や生活活動は年々増加しているので、CO2の排出も年々増加しています。それにもかかわらず、世界的に1992年と93年は空気中のCO2濃度は増加していません。これは1991年に起きたフィリピンのピナツボ火山の大噴火のために、太陽の光が遮られたために世界的に気温が下がったためだと考えられます。つまり、「気温が下がったために、CO2の濃度が減少した」ということなのです。

3 エルニーニョは太平洋の赤道付近の海面温度が上昇する現象です。エルニーニョの発生とCO2濃度の変化を調べてみると、エルニーニョが発生した1年後にCO2濃度が増加することが分かっています。つまり、海水の温度の上昇がCO2濃度の上昇の原因となっているということなのです。

4 1940年から1970年までの30年間に人間の活動により排出されたCO2の量は急激に増えています。しかしながら、その間、地球の平均気温は下がっています。

 もし、1から4のことが真実であるとすれば、そこから導き出される結論は、「気温の上昇・下降によって、空気中のCO2濃度が増加・減少」するということです。CO2温暖化説ではこれらの事実を納得の行くように説明することはできません。すなわち、「CO2が原因で、気温が結果である」ということではなく、「気温が原因で、CO2濃度は結果である」 ということのほうが真実なのではないでしょうか。

5 ここで少し理論的に考えてみましょう。大気中に含まれているCO2はたかだか約0.04%でしかありません。そして、大気中のCO2は毎年1から1.4ppmずつ増加しています。つまり、最大でも1.4ppmです。ここ100年を平均すると、年に1ppmずつ増えているということになります。

 ところで、1ppmというのは100万分の1を表す単位です。つまり、毎年平均して大気中の100万分の1だけCO2が増加しているということです。 もう少し分かりやすく説明しましょう。大気が100万あるとすると、そのうちの0.04%、すなわち400がCO2いうことになります。それが毎年1だけ増えるというわけです。

 もっと分りやすく、お金に例えてみましょう。親は100万円持っているのに、子供は400円しか持っていません。そして、毎年親から1円だけ小遣いをもらっているということです。子供のお金は毎年、親の持っているお金の100万分の1ずつしか増えていないのです。これでは何もできません。

 話しをCO2に戻しましょう。計算をしてみると、毎年、CO2が1ppm増えるとすれば、地球の平均気温はわずか0.004℃ずつしか上がらないという結果になるそうです。これでは、「人間の活動によって排出されるCO2が温暖化の原因だ」と説明するのはかなり難しいのではないでしょうか。

クライメートゲート事件
 国連のIPCCには中心になるメンバーがいて、世界中の多くの学者たちがそのデータを共有し合っているそうです。したがって、IPCCのデータは信用性があるということになっていました。

 ところが、2009年11月に、IPCCの中心的な研究員の人々のメールのやり取りが暴露されてしまったのです。これらの何百通から何千通というメールはインターネット上でも読むことができます。

 この暴露事件はウオーターゲート事件と結びつけて、クライメートゲート事件と呼ばれています。「クライメート」というのは「気候」と言う意味ですが、要するに、気候に関する大スキャンダル事件という意味合いが込められているのでしょう。

 IPCCはこれまで、「この1000年間、20世紀の後半以外は温度が非常に高くなったことはない」と主張してきました。要するに、20世紀の後半から地球の温度が異常に高くなっている、というわけです。それがCO2温暖化説の根拠となっていました。

 IPCCによれば、この1000年間ずっと気温は低かったのに、産業革命以来、急に地球の温度が上がってきた。それは、産業革命以来、人間の活動によって大気中のCO2の量が増えてきたためであるということです。過去の気温を調べて、それをグラフで示しています。ある時点までは、毎年の報告にもそういうグラフが発表されていました。

 実は、いろいろな研究結果から、中世においては非常に気温が高かったと言われていたのです。ところが、IPCCは「産業革命以後はじめて気温が上昇してきた。とくに20世紀の後半になって急に気温が上昇している」と主張したのです。IPCCのグラフでもそういうことになっていました。

IPCCがデータを捏造していた
 ところが大量のメールが暴露されて、結局、IPCCのメンバーが気温のデータを捏造していたということが分かったのです。同僚の研究員にあてたメールには「中世温暖期のデータを捏造するトリックを完了した」という内容の記載があったそうです。さらに、メールを書いた本人がその事実を認めたということです。

 このことによって、「ここ1000年間で20世紀だけが温度が高くなった」というのは事実でなく、捏造されたデータだったことが明らかになったのです。

 それだけではありません。その他に、北極海の海面温度などもが捏造されていたことがわかりました。

 もう一つはっきりしたのは、これは捏造というよりも、気温のデータの取り方が、国によっては非常にずさんであることも明らかになりました。例えば、日の当たる建物から1メートルぐらいのところに温度計が設置してある、というようなことです。日本ではこういうデータの取り方はしないと思うのですが、アメリカなどではかなりいい加減にやっているそうです。その他に、海面温度の測定なども、かなり杜撰(ずさん)であったことなどもはっきりしてきました。

 データの捏造は話しにもなりませんが、いずれにしても、このような杜撰なデータでは、決して正しい結論を導くことはできません。したがって、IPCCの報告自体が全面的には信頼に値するものではないということになります。

 それにしても、なぜ、「中世の気温は高かった」ということを否定するようなデータの改ざんをしたのでしょうか?何かはっきりした意図があったに違いありません。要するに、世界中の人々に「大気中のCO2濃度の増加が温暖化の原因である」と信じ込ませる必要があったのでしょう。ということは、もしかしたら、そうすることによって、大儲けをしたり、権力を維持・強固にすることのできる人たちやグループが存在するのかもしれません。そうでなければ、誰もこんな馬鹿なことをするはずはないと思うのですが、果たして真相はどうなのでしょうか。

温暖化は起きているのか
 これまでの説明だけでも、CO2温暖化説にはかなり疑わしいところがと言えるのではないのでしょうか。それらの事実だけではなく、それを証明する事実がその他にもいくつもあると言われています。そこで、次に「CO2が原因でなくとも、温暖化そのものは起こっているのだろうか?」ということが、あらためて問われることになります。

 これについては、CO2温暖化説に疑問を持つ人々の中には、今のところ3つの考え方があるようです。

 一つ目の考え方は「北半球では温度が上昇している。しかし、南半球では温度が下がっている。そして、地球全体では温度が上がっているとは言えない。宇宙から衛星で観測した結果によれば、大気中の温度は上がっていない。このようなことから、地球は温暖化していない」というものです。

 二つ目の考え方は「CO2が原因ではないかもしれないが、いずれにしても、人間の活動による何らかの結果、例えば、メタンその他の温暖化ガスの増加などにより、温暖化が起こっている」というものです。

 三つ目の考え方は「多数の測定結果や人々の実感から言えば、近年になって地球の温度が上昇しているというのは事実である。しかし、上昇しているといっても、あくまで自然現象の結果である。したがって、それを、いわゆる、人間の活動の結果による温暖化とは区別しなければならない」というものです。

 私自身の実感としては、昔に比べると、冬でも夏でも随分気温が上がっているのではないかと思います。短絡的かもしれませんが、そういうことから、やはり、地球全体の平均気温が上昇しているのではないかという気もしています。しかしながら、その原因がCO2であるという説については、疑いの気持ちが強いというのが正直な気持ちです。

 一方、CO2温暖化説懐疑論に対する反論や批判も出されています。要するに、現段階ではこの問題に関して「これが真実である」と、はっきり決め付けることはできないのではないでしょうか。地球の気候は色々な要因が組み合わさって成立しています。したがって、CO2を含めた温室効果ガスが地球の温暖化の原因となっているかどうかは、いまだはっきりとは結論は出ていない、と言ってもよいのかもしれません。したがって、今の段階では、CO2温暖化説が間違いだとも、逆に、正しいと断言もできない、あるいは、どちらと断定するのは早計であるのかもしれません。

 いずれにしても、現在、そして、これからの私たち人類社会にとって、CO2温暖化説が真実であるかどうかという問題は、ある意味では「天動説が真実か、それとも、地動説が真実か」という問題に匹敵する大問題です。なぜならば、今後の日本、そして、世界中の原発問題を含めたエネルギーの基本政策、そして、人類社会のすべての活動が正しく営まれるかどうかが、その結果に掛かっているからです。

 この問題の重要性を考慮すれば、何が真実であるにしても、今後、私たちはあらためて事実をしっかりと調べることにより、真実をはっきり見極めることが絶対に必要だと私は思うのです。 (付録の終り)


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2011年8月3日水曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(後編)

福島の原発大事故から見えてくるもの(後編)
     ある講演会の記録より


電力供給力の範囲内で需要を調整する
 前編で「原発なしでも電力は不足しない」と述べましたが、確かに、現在の火力と水力で一応電力が間に合っていることは事実です。それに加えて、産業界や家庭において、世界一と言われている日本の省エネ技術を有効に活用し。さらに、節電などを心がけるべきでしょう。

 私自身は、将来的に経済成長が必要かどうか、ということについては非常に疑問を持っています。私は今後の経済活動や生活活動は、省エネ、節電などを含めて、いろいろ工夫して、現在の電力の供給力の範囲内に電力の需要を調整し収めるということを基本的な政策とすべきだと考えています。

 これまでの日本の電力政策は、電力の需要を無制限に伸ばしながら、それをカバーするために新たな発電所を次々に建設して供給力を伸ばしていくというものでした。しかし、この電力政策は日本の電気料金が国々に比べてかなり高い主要な原因であり、同時に、環境破壊やエネルギー資源の浪費をもたらす原因ともなっています。

原発なしに電力供給力を増やすとしたら
 ただ、現実には、産業界などには、経済成長を続けていくために今後もっと電力が必要だという意見は多いようです。では、今後原発なしで電力を増やす必要があると仮定した場合にはどうしたらいいのでしょうか。この点についてさらに詳しく考えてみたいと思います。

 私は、もし、電力を増やす必要があるのであれば、簡単に言えば、火力をもっと増やせばよいと思っています。従来の石油や天然ガスの火力発電、それに加えて、地域分散型の小型で高性能の火力発電です。なぜ、火力発電がよいかと言えば、それは火力発電が他の発電方式に比べて圧倒的に効率がよいからです。

 もちろん、自然エネルギーという考え方もあります。しかし、現在の技術では自然エネルギーによる発電はあまり効率がよいとは言えません。今後の技術革新に大いに期待するところです。それについては後ほど触れることにして、もう少し火力発電について述べてみたいと思います。
  
従来型の大型火力発電の問題点
 今までの火力や原子力や水力による大型発電所は、ほとんど大都市から離れた地方に建設されています。都会まで電力を送電線で何百キロという距離を引っ張ってくるわけです。ところが、電気が遠くから送電線を伝わってくる間に、大量の電力ロスが起きてしまいます。その他に送電の費用、さらに配電の費用などにかなりお金がかかります。

 また、原発もそうですが、火力発電所で発電する時に出る熱はほとんど捨てられています。本当は熱エネルギーとして、物を暖めたり、暖房や冷房にも利用できる貴重な熱が捨てられているのです。実に、もったいない話しです。

 もし、都市近郊、あるいは都市のど真ん中や、工場の中に小型の発電所を作れば、その熱をそのまま冷暖房などの熱エネルギーとして利用することができます。そうすれば、90%から100%は電気と熱源として有効利用できるようになります。

地産地消型の電気の需要供給システム
 エネルギー全般について、地域分散型の活用法がもっとも効率的なのです。そういう意味でも、地産地消型の電気の需要供給システムの普及・拡大が期待されます。

 実は、天然ガスを使って、エネルギー変換60%ぐらいの高性能の小型発電システムがすでに開発され、実際に稼動しています。東京近辺では川崎にあります。それだけで原発一基分ぐらいの発電能力があります。そういうものを、どんどん大都市や中都市などの近郊に作っていけば、狭い土地であっても、効率の高い発電をすることが出来ます。

 天然ガスは、幸いにも、日本の周りにも大量に存在するということが分かってきていますので、それをパイプで引いてくればいいのです。これから60年から70年間は天然ガスを採掘することは可能であると言われています。

 石油も一時は後20~30年しか持たないという説も流れていましたが、今のところは少なくとも50年間くらいは大丈夫だろうという説が有力で、近い将来に石油が枯渇するということはなさそうです。石油と天然ガスを有効に使うことによって、十分これからのエネルギー需要に対応していけると考えられているのです。

自然エネルギー発電
 次に、自然エネルギーによる発電について詳しく考えてみましょう。自然エネルギーによる発電方式としては、従来の大型水力発電の他に、太陽光発電や風力発電、地熱発電、小型水力発電などがあります。福島の原発事故の後、原発に替わる発電方式として自然エネルギーによる発電が注目されています。

 「原子力」あるいは「放射能」と言えば、最初から危険なイメージが伴います。それに比べて「自然」というと何か安全でクリーンというイメージが浮かんでくるのは、それこそ「自然」なことだと思います。

 また「自然」と言うと、何だか「ただ」あるいは「安い」というようなイメージも浮かんできそうです。けれども、自然エネルギーによる発電は、少なくとも現在の技術水準では、決して「ただ」でも「安く」もありません。どちらかと言えば、かなり高いのです。また、実際には、石油の節約にもなりません。

太陽光発電の問題点
 現在、日本では太陽光発電が盛んに宣伝されています。ただ、最近は技術が随分進んできましたが、太陽電池の材料であるシリコンを作るには、大量の電力が必要です。その電力は元の元をたどれば石油だということになるのです。

 太陽光発電は夜間は発電できません。また、ずっと野外に設置しておくために、当然埃(ほこり)が溜まり、日光を遮ります。さらに、1年中晴れて太陽の光に恵まれている砂漠のような気候の国々とは異なり、日本の場合は雨の日や曇りの日が多いため日射量がかなり少ないのです。したがって、稼働率や発電効率はかなり落ちます。

 このようなことから、太陽光発電はかなり高価なものとなっています。設置費用を取り戻すのに10年はかかり、それ以降やっと収支がプラスになると言われています。まだまだ太陽電池も大幅な技術革新が必要な段階だと言えるのではないでしょうか。

補助金には問題がある
 それに関していくつかの問題点があります。まず、太陽光発電を設置すると国や地方自治体などから、かなりの補助金が出ます。その分、太陽光を設置する人々は、例えば、半額だけを自己負担すればよいので、大助かりなのです。

 しかしながら、その補助金の出所は、結局は、私たちの税金です。少なくとも現段階では、太陽光発電を導入しない人々が、太陽光を導入する人々のために補助金を出しているということになります。これは太陽光発電を普及するという意味では意味があるのかもしれませんが、大きな矛盾と言えるのではないでしょうか。

 しかも、その補助金は太陽光を導入する人々ではなく、結局は、太陽光発電の設備の生産者や業者の懐に入るということになります。ということは、太陽光発電の普及政策によって、結局、誰が儲かっているというのでしょうか。


再生エネルギー法案の問題点
 現在、「再生エネ法」が注目をあびています。これは、電力会社に太陽光発電などの再生可能な自然エネルギーを一定期間、通常の電気料金より高い固定価格で買い取らせるという制度です。

 すでに、電力会社による太陽光発電の買い取りは実施されています。現在、家庭の電気料金は1キロワット時あたり23円です。2011年の4月からは電力会社は1キロワット時あたり42円で買い取っています。およそ、2倍の値段で買い取っているということです。

 高くなった差額分19円は、結局、電力会社が電気料金に上乗せして一般の私たちに請求することになります。ですから、いくら高く買い取ることになっても、電力会社はまったく損することはないのです。損をするのは、太陽光発電の設備を設置していない多くの私たちということになります。

 さらに、一定期間、通常の電気料金より高い固定価格で買い取らせるということになれば、次のような問題が出てくることが予想されます。すなわち、大量のソーラーパネルを設置して、余分に発電した大量の電気を電力会社に買い取ってもらうことによって金儲けを企む人たちが大勢出てくるのではないでしょうか。

 そうすれば、例えば、金持ちが一度大量のパネルを設置すれば、自動的に大きな収入を継続的に得られることになります。そして、パネルを設置することもできない貧乏人がそのおカネを支払い続けなければならないことになります。

 ですから、ただ「自然エネルギーは素晴らしい」とムード的に浸っていないで、自然エネルギーを普及しようという政策が大きな矛盾を引き起こす可能性があることを充分考慮にいれて、将来の方針を決めていかなければなりません。 繰り返しになりますが、それをしっかり監視するのは私たち一人ひとりなのです。

風力発電や小型水力発電の可能性と問題点
 次に、風力発電について考えてみましょう。4月22日の朝日新聞によりますと、日本全国で適切な風の条件があるところを調査したところ、風力発電の低い稼働率を考慮に入れても、原発の7~40基分がまかなえるだけの風力発電設備を作ることができる、と環境省が発表しています。

 ただ、太陽光発電もまだまだ不安定であり、風力発電もいつも風が吹いているわけではありません。スマートグリッドのようにコンピューターできちんと制御して、安定した電力の供給をもたらすシステムが必要です。その面では、日本の技術はかなり進んでいます。
 
 太陽光、風力の他に有効な発電方式は小規模の水力発電システムです。農業用水や工業用水、上水道や下水処理場放流水、オフィスビルや工場の空調設備に使う冷却水、などを利用し、小型水車を回して発電するものです。

 農業用水路だけをとってみても、全国で数十万キロメートルあります。また、川崎市・横浜市をはじめ各地で、水道局が小規模の水力発電システムを、上水道の送水管に設置して発電を行っています。

 エネルギー問題の解決を図ろうとするとき、その大前提となるのは、個人の生活の仕組みや企業の生産システムを、エネルギー資源をできるだけ無駄使いしないものへ転換していくことです。その上で、小規模でも可能な限り自然エネルギーを利用すれば、日本全体では多量の発電ができ、大規模発電システムに比べ環境に対する負荷がずっと少なくなります。

自然エネルギー発電を普及させるためには
 自然エネルギーを普及・促進するためには、それぞれの発電方式自体をより効率的にするためには、いっそう技術を革新をしていかなければなりません。しかしながら、これまで、自然エネルギーによる発電方式が本当に有効に利用されていないのは、根本的には、ほとんどの電力を大手の電力会社が独占してきたのと同時に、原発推進を国策としてきたという背景があるからです。です。

 ですから、今後の方向性としては、東電をはじめとする大手電力会社を解体して、送電・発電の部分などに分割して、一般の民間電力会社と自由に競争させることが絶対必要だと思います。そうすれば、電気の料金もかなり下がり、もっと能率的にサービスを提供できるようになると思います。

 原発に関しては、早急に全廃して、原発につぎ込んでいた国からのカネを、自然エネルギーの研究開発・技術革新の補助金にまわせば、近い将来、自然エネルギーは火力、水力と並んで電力供給の主要な柱と成長させることができるのではないでしょうか。

原発を廃止すると電気料金は高くなるのか
 ついでですが、原発を廃止して、自然エネルギーを代替で使うようになると、日本の電気料金が高くなる。そうなると、日本に生産拠点を持つ企業は国際的な価格競争に非常に不利になる。したがって、海外に生産拠点を移さなければならなくなる、という意見が財界筋には多いようです。

 これは確かに大きな問題点です。しかしながら、原発を廃止しても「火力と水力で」必要な電力はまかなえるのですから、基本的には電気料金を上げなくても済むと思うのです。もちろん、最初の調整期間には多少の問題が起こる可能性はあるでしょうが、それを工夫して乗り越えていくことが必要なのだと思います。

 また、この問題は、もともとこれまでの他の国々に比べて、日本の電気料金がかなり高すぎるところに問題があるのです。その根本原因は大手の電力会社が独断的に電力料金を設定してきたこと。また、電力の需要が少しでも増えれば、巨額のカネを投資して大型発電所を次々に建設してきたこと。その巨額のカネを電気料金に上乗せしてきたことなどにあります。

 この問題を根本的に解決するためにも、前に述べましたように、国のレベルで供給量の範囲内で需要をまかなう新しい考え方を導入する。大手電力会社の発電部門と送電部門を分割する。さらに、電力会社の自由競争を促進することなどの方向性が考えられます。

 いずれにしても、これまでの国や電力会社のあり方自体がとても異常だったということではないでしょうか。電力会社がすべてを独占して、データを捏造し、原発の事故を隠蔽し、ヤラセを指示してきたのが、福島の原発事故の後かなり表に出てきました。でも、まだまだ隠されてきたものがたくさんあるのでしょうね。

 今回の事故の背後には、電力会社、政府、官僚、政治家、財界、そういうところから研究費を貰っている御用学者や御用メデイアなど、誰とは言わないまでも、電力というものの背後にある利権に群がり、密かに徒党を組んで、国民を意のままに騙し、利用し、巨額の利権を得てきた構造があるということなのでしょう。

原発続行賛成の裏にあるもの
 ここでさらに突っこんで考えてみたいと思います。例えば、原発関連の施設がある地域では、原発は危険だから止めようという方ももちろんいます。しかしながら、原発関連の施設で働いている方は、たとえ原発は危険であったとしても、生活のために原発は必要だと考えている人々もかなりいるようです。

 子供もいるし、家族もいる。他には仕事がない。生活がかかっているのだ。原発が危険だと承知しながら、そこでやっていくしかない、ということなのでしょう。これは非常に悲しい現実です。

 しかしながら、もう一つ裏を考えてみると、生活のために、本当に止むを得ず、原発続行を支持することが、国全体として原発が維持されていくことに繋がっていくとすれば、これは大変な問題です。再び大きな事故が起こる可能性があるのです。それでもよい、ということなのでしょうか。その他の人たちはどうなるのでしょうか。

 こんなことを言えば、所詮、他人だからそんなことを言うのだ。そんなことは百も承知だ。しかし、そんなことは言っていられないのだ。他に選択の余地がないのだ、と言われてしまうかもしれませんね。やむを得ず生活のために原発が必要だと言う人たちがいるということなのです。

 ある意味では、これはギリギリのところなんですね。自分の生活、あるいは自分の家族が生きていくためには、他の人々のことを考えている余裕がない。これはお互いにそうなのではないでしょうか。自分がその立場だったらと考えてみればよく分かります。本当に厳しい悲しい現実です。

 原発関連の施設から遠く離れた地域、例えば、東京や名古屋や大阪などに住んでいる人の中には、今現在でも原発賛成という方がかなりいます。では、もし東京に原発を持ってくるということになれば、それでも賛成するのでしょうか。その方々は原発賛成と言うことなのですが、自分たちの住んでいるところに原発ができたとしても賛成なのでしょうか。おそらくそうではないと思います。

 今現在、原発賛成と言っている人たちの中でも、原発が自分の住んでいるところから離れたとことにあれば、原発に賛成するけれども、正直、自分たちのところに原発を持ってこられては困るという方が大部分なのではないでしょうか。

普天間基地の移転問題との類似
 この問題はなんとなく、普天間基地の移転問題と似ていますね。当時の首相は普天間基地を日本国外に移したい。もしそれがダメなら、少なくとも県外に移したいと言いました。

 ところがアメリカにノーと言われてしまったわけですね。それでは、他の県で引き受けてくれませんかと言っても、結局、どこも引き受け手がありません。どこの県の人びとも自分のところに新たに基地を持ってこられると困るというわけです。そうやって、結局、全部沖縄の人たちに押し付けてしまっているのです。

 この問題に関連して、多くの方々が沖縄の人たちに同情するような発言をしています。しかし、それだったら自分たちのところで引き受けるべきではないでしょうか。自分たちは沖縄の方々の苦しみを分かち合う気持ちも覚悟もなく、前首相の力不足ばかり責めるという人が多かったように思います。

 では、私たちはどうしたらよかったのでしょうか。私は、日本国民が結束して、日本政府に訴え、場合によっては、直接にアメリカ政府に普天間基地の海外移転を要求すべきだと思います。

 現在の国際情勢を考えれば、私たち自身が結束して「日本にはアメリカの基地はいらない」ということをはっきりとアメリカ政府に言うべきだ、と私は思います。しかし、あらためて充分議論を尽くした結果、もし「日本にアメリカの基地が必要だ」ということになれば、沖縄にばかりに基地を押し付けるのではなくて、日本全国で基地を分担して引き受けるべきだと思います。

エゴイズムが諸問題の根源
 いずれにしても、原発にしても、普天間基地の移転問題にしても、私たち自身の置かれた立場はいろいろ異なり、微妙な問題が背景にありますが、そこに見えてくるものは、それぞれの「自分さえよければ」という身勝手さ、あるいは、エゴイズムです。

 私は、結局、日本や世界のいろいろな深刻な諸問題の根源は「自分さえよければ」というエゴイズムにあると言ってよいと思うのです。エゴイズムを解消することなしには、日本や世界の深刻な諸問題は解決することはできないと思います。そういうことが、福島の原発大事故によってますます明確になってきたのではないでしょうか。

 福島の原発事故については、今後どのように収束していくかということは大問題です。同時に、私は、この機会を逃しては二度と原発を永久に廃止することも、日本を本当によい方向に変えていくこともできないのではないかと思います。そういう意味では、今がビッグチャンスだと思うのです。

日本と世界の未来は私たち一人一人の手の中に
ここまでで、原発関係のことについては、みなさんご承知のことが多かったと思います。問題は、結局「これからどうしたらいいか」ということです。

 ここまではっきりすれば、原発は全廃するしかありません。全廃するためには、私たち一人ひとりがその事実をはっきりデータとして確認をして、それを他の方々に確実に伝えていくということです。

 私たちは実は圧倒的多数なんですね、私たち一般の民衆は国民の99%を占めているのです。それなのに、これまでは1%の方々に完全に牛耳られてきたのです。私たち一人ひとりがもっと賢くなって、もっと力をつけて行動していくことが大切だと思います。

 私がここで言う「確実に伝える」ということの意味は、ある人に原発の真実を事実をもって伝える、ということだけでなく、このメッセージを99%の私たち全員に伝えるために、このメッセージを伝えられた人が、さらに他の人々に伝えていくという連鎖が起こらなければならないこと。その重要性をきちんと次から次へと伝えていくということです。

 この連鎖が起きなければ、原発を永久に廃止するということはいつまでたっても実現できないと思います。ましてや、本当に平和でみんなが幸福な社会を創っていくことはできません。このことは私たちが行動していくうえでもっとも大切なことだと思います。


原発だけ変えようとしても不十分
 ただ、果たして原発のことだけでいいのでしょうか。この社会で原発だけがポツンと異常なのではありません。政治、経済、福祉、教育、生活の問題など全部が密接に絡み合っているのです。

 ですから、原発の問題を原発という枠の中だけで解決しようと思っても、究極的には不可能だということなのです。この問題を解決しようと思えば、あっちの問題が出てくる。それを解決しようと思ったら、また他の問題が出てくる。というふうに、「もぐらたたき」みたいなことになっていると思うんですね。

 例えば、教育にはいろいろ問題があるから、変えなくてはいけない、と思っても、問題が大きければ大きいほど、教育という枠組み中だけでは変えることはできないのです。この社会全体がそういう仕組みになっているのであり、すべてが互いに密接に絡み合っているからです。

 この社会全体が競争社会です。その競争社会の中で、競争的教育でなく、本当に人間的な教育というものを目指すということ自体が非常に難しいということです。教育が変わるためには、特に、産業や経済のあり方が変わらなくてはいけません。そして、同時に政治も変わらなくてはいけません。

社会全体の方向性を考えることが重要
 この社会では、このようにすべてが密接に関わりあっているわけですから、 結局は、私たちはこの社会全体がどの方向に進んでいくのか、ということを考えなくてはいけない時期に来ているのだと思います。

 言葉を変えれば、私たちの文明は一体どういう方向に向かっているのでしょうか。そういうことを、これからお話してみたいと思います。

 例えば、今この社会は競争社会であると言いましたが、なぜ競争社会になっているのでしょうか。この社会の中になぜ、原発なんて危険なものが出てきたのか。なぜ、経済成長が大切だと言われるのか。こういうことを別の面から考えてみたいと思います。

エゴイズムがこの社会の基盤
 別の言い方をすれば、こういう原発の事故が起きてきた一番の根本的な原因は何なのか、ということです。その根本原因を探り当てて、それを取り除くことなしには、本当の意味で、この原発問題は解決していかないということです。さらには、それに付随した他の問題も解決していかないと思うのです。

 なぜ原発事故がおこったのか。その根本原因は何なのか。先ほども触れましたが、私たち自身の身勝手さというか、エゴイズムがこの社会の根底にあるのではないでしょうか。簡単に言えば、この社会自体がエゴというものをベースにして出来ているのではないでしょうか。

バラバラ観からエゴイズムが出てくる
 このエゴイズムというのは、結局は、お互いの存在がバラバラであるという思いから出てくるのだと思うのです。私たちは普段は表立って互いに対立したり、ケンカしたりしないけれども、結局は、元々お互いにみんなバラバラの存在なのだ。結局、一番大切なのは自分であり、自分の家族である。根本的にはみんな利害の対立する存在なんだという「バラバラ観」がこの社会の基本となっているのではないでしょうか。

 このバラバラ観から、最終的には、自分さえ良ければ、自分の家族さえよければ、あるいは自分の会社、あるいは自分の組織さえ良ければ、あるいは自分の国さえ良ければ、というエゴイズムが出てきているのだと思います。

 このエゴイズム社会の中で、企業であれば、他の企業よりも自分の企業が栄えることがなにより大切だとなるわけです。そして、そこには自分の生活もかかっていますので、なおさら自分の企業さえよければ、ということになります。

 エゴイズムはお互いがバラバラであるという観念から出てきます。そして、エゴイズムからいろんなことが出てきます。過剰な競争意識、すなわち、他よりももっと自分の方が物質的に豊かにならなければ、もっと高い地位や肩書きがなければ安定できないなどという意識です。常に「もっともっと」と求めます。それにもかかわらず、いつまでも心が不安で不安定な生き方です。

 人と意見が違えば、そこで怒りや妬みや憎しみが出てくる。自分ひとりになれば、孤独感にさいなまれたり、自分自身を責める。これらのマイナス感情はすべて、基本的には人間の存在がバラバラであるという考え方から出てきています。

本当はみんな一体である
 ただ、ちょっと考えてみればわかることですけが、人間は本当はバラバラではありません。当たり前のことです。みんな、一つのいのちを生きているのです。もともとはみんな同じ先祖から出来ているのです。ある科学的な研究によると、現在地球上に生きているすべての人々は、今から15万年ほど前に東アフリカに住んでいたある一人の女性の子孫だということです。

 それだけの事実を取ってみても、私たちはみんな「一つのいのち」を共有しているんだということですね。英語で言えばワンネス、日本語で言えば分けることのできない一体。みんなお互い切っても切れない存在だということが、私たちの真実なのです。

 人間の体はいろいろな組織とか細胞とか器官が、バラバラではなくて、みんな協力し合って一つのいのちを生きています。それと同じように、私たちはみんな分けることの出来ない密接な関係を持った、一体関係にあるのです。これが人間の存在の真実の姿だと思います。

 その証拠に、誰でもちょっと冷静になってみれば、私たちの中にみんなと仲良くしたいという気持ちがあることに気がつきます。人とケンカすると気持ちが悪い、仲良くしたい、みんなと共に幸せになりたいということは、誰でも持っている本能です。そういう共生本能が私たちにはもともと備わっています。この個体の自分を守ろうという本能もあると同時に、みんなが共に幸せになっていこうという共生本能もあるわけですね。

エゴイズムからの脱却
 この一体の真実は、人間だけのことではありません。すべての動物、植物、大自然や宇宙とぶっ続きのいのちを私たち一人ひとりが生きているのです。私たちが自然の中で、本能的に安らぎを感じるのは、もともと私たちが自然と一体だからなのだと思います。

 人間がバラバラであるというのは、非常に表面的な考え方で、本当はみんな一つなのですね。この「みんな一体だ」という見方に立ったときに、いろんなことが変わってくると思うのです。簡単に言えば、エゴイズムからの脱却が始まるのです。

 エゴイズムには個人エゴイズムだけでなく、家族、企業などの組織、地域、国家などの集団エゴイズムがあります。ある意味では、人類の文明をここまで発展?させてきた原動力はエゴイズムだということができるでしょう。

 しかしながら、このように人類社会がいろいろな深刻な問題でほとんど行き詰まりに瀕している現実をみれば、もはや、人類社会はエゴイズムでは発展することはできない。それどころか、エゴイズムによって自分たち自身を滅ぼしかねないところまでに至ってしまったと言えるのではないかと思います。

 要するに、これまでの人類社会のエゴイズムに基づく生き方や考え方が根本的に間違っているということなのです。およそ人間の個人的、あるいは社会的な苦しみや争いの根本原因はエゴイズムにあると言っても過言ではありません。

 この原発問題を含めて、この困難を乗り越え、平和でみんなが幸福な社会を実現するためには、私たちは今こそ腹を据えて本気でエゴイズムからの脱却を図らなければならないのだと思います。

個人のエゴイズム・団体のエゴイズム・国家のエゴイズム
 しかしながら、個人としてのエゴイズムからの脱却、あるいはエゴイズムを解消するということは昔から正しい宗教が目指してきたことです。宗教ではなくとも、良識ある方々が苦心し心を砕いてきた重要な課題です。そして、確かに、一人の人間として、自分のエゴイズムから脱却、あるいはそれを解消することほど難しいことはない、というのも厳然たる事実です。

 ところで、いろいろなエゴイズムの中で、人類社会の行き詰まりをもたらした最大のエゴイズムは国家エゴイズムです。現代の国際社会は国家を単位として行動しており、それぞれの国家の基本方針は「自分の国さえよければ」というエゴイズムに置かれています。それによって、国家間の猜疑と不信と競争と対立が起きるのです。

 それに加えて、国家エゴイズムによって、その国家の中に生きる個人や活動する企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても、「もっともっと」と物質的欲望が増大し、企業間の競争も激しくなります。

 企業間の競争や国家間の対立や戦争などにより、科学技術文明は急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、科学技術を進歩させます。さらには、資源獲得競争の結果、自然破壊も進むことになります。こうしたことの総合の結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているのです。

国家エゴイズムが諸問題の元凶
 このように、国家エゴイズムの対立が国際、あるいは国内のいろいろな深刻な問題の元凶なのです。同時に、深刻な諸問題の根本的な解決をするために、国際環境会議や軍縮会議などを開催しても、国家エゴイズムの対立のもとでは、互いに自国に有利に運ぼうとして駆け引きに終始して、一向に解決への合意に至らないなどの大きな障壁となっています。

 これまでも国家エゴイズムの解消の必要性が説かれることはありましたが、すべての国が話し合って一斉に国家エゴイズムを放棄することは机上の空論でしかありません。これは国際会議での駆け引きを見ても明らかです。

 人類社会、あるいは日本社会の危機を乗り越えるためには、これまでの人類社会の歴史の流れの中で解決しようとしても絶対に不可能だと思います。根本的に解決するためには、どうしてもこれまでの人類社会の歴史の流れの外に出るしかないと思います。

日本が率先して国家エゴイズムを放棄する
 それが、国際社会において、これまで自明のこととされてきた国家エゴイズムを、日本が他の国々に先駆けて一方的に率先して放棄するということです。前に述べましたように、個人的にエゴイズムを完全に脱却、あるいは、解消することは非常に難しいことです。それゆえに、それを国家に託すことに大きな意味があるのです。

 個人としては実現が困難なことも、国家に託すことはできると思うのです。国家エゴイズムが個人や団体などのエゴイズムを助長しているのならば、国家のエゴイズムを解消することによって、個人や団体のエゴイズムのレベルが下がってくることが予想されます。

日本にみんなに納得のいく理想を掲げましょう
それが私の提案する「国家エゴイズムを超えて、日本に脱国家エゴイズムの理想を掲げましょう」ということです。具体的には「日本が国際環境平和国家を目指す」ということです。この輝かしい理想のもとに、日本が国力をあげて平和的な手段で世界の困難な諸問題のために尽くそう、というのです。

 幸いにも、日本の現行憲法は人類史上初めての脱国家エゴイズム憲法です。これは、世界の国々の中でも、日本が脱エゴイズム国家を目指すという理想を掲げるのにもっとも有利な条件に恵まれているということです。

 国内的には、この素晴らしい脱国家エゴイズムの理想のもとで、産業、教育、福祉、環境対策などにおいて大きな変化がもたらされます。同時に、私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活が国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結することによって、私たちは日々生きがいと充実感を感じながら、個人的にも組織的にも、脱エゴイズム社会を急速に築いていけるでしょう。

 そうすれば、平和を愛する世界の心ある多くの人々は、これこそ人類社会が諸問題を解決するのにもっとも現実的な方策であり、正道であることを改めて納得することでしょう。そうすれば、世界のそれぞれの国において、国家エゴイズム放棄への気運が大きく盛り上がっていくに違いありません。そうすれば、意外に短期間でこの世界が脱エゴイズム世界になるのではないか、と私は考えています。

 あらためて述べますが、脱エゴイズム国家、脱エゴイズム社会を実現しようという方向、あるいはビジョンの中でこそ、原発問題も根本的に解決し、教育や環境問題などの深刻な社会的問題も根本的解決に確実に向かうのだと思います。これが拙著『国の理想と憲法』において提案した要旨です。

 最後に、より深くこの提案を理解していただくために、ぜひともこの『国の理想と憲法』を読んでいただ きますよう、皆様にお願いしまして、今回の話を終わります。


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2011年8月1日月曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(前編)

福島の原発大事故から見えてくるもの (前編) ある講演会の記録より

人類社会の行き詰まりと福島の原発事故
 私は2007年に『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』という本を出版いたしました。私は22歳のときにこの考えに出会いました。それ以来40年以上思索を重ねてまとめ上げた本です。

 現在世界は、戦争・紛争・テロ、環境問題・食料不足・貧困・飢餓、あるいはエネルギー不足などいろいろな困難な問題で行き詰まりに瀕しています。かつてない危機を人類社会は迎えています。

 また、その中で日本においても環境問題だけではなく、イジメ、不登校、学級崩壊などの教育問題、また、若い人たちを見ていましても、この社会において、手ごたえのある生きがいが持てないという人が多いようです。もちろん頑張っている若い人たちもいますけども、全体としては非常に無気力な傾向が見られる。これは、日本の将来にとっても非常に憂うべきことだと思います。

 その他、日米同盟を強化して日本がアメリカと一緒に戦争に参加するという方向性も段々傾向としては強くなってきております。その中で、あらためて日本の将来のキーポイントとなる憲法を果たして改正すべきかどうかなど、いろんなことで日本も行き詰まりに来ているようです。

 この人類史上かつてない危機は最近始まったのではありません。米ソが人類を数十回も皆殺しができると言われた数万発の核兵器を保持し、全面核戦争の可能性という極度の緊張状態の中で互いに対峙していた数十年に渡る冷戦時代には、まさに人類の生存そのものが危機に瀕していました。

 幸いにも、ソ連の崩壊で冷戦は終わりを告げました。しかしながら、以前ほどの緊張状態はなくなりましたが、依然として、米ロが多量の核兵器を保持しております。その後も、米ロだけでなく、中国をはじめとして核兵器を保持・増強する国々が増えています。確かに、全面核戦争の脅威は当面なくなったと思われますが、核戦争の危機は必ずしも去ったわけではありません。

 それに加えて、30年ほど前から地球規模の環境破壊の問題が大きく浮上してきました。このままの形態で生産活動と経済成長を続けていくと、将来この地球環境そのものが崩壊し、人類の生存そのものが脅かされかねないということが分かってきたのです。

 私は青年時代に私たちは自分たち自身を滅ぼそうとしてしまうかもしれないということを知った時に「人間は何と愚かなのだ」と大きな衝撃を受けました。同時に「人間は絶対そんな愚かな存在であるはずはない。人間はかならず自らの過ちに気がつき、自らの手でそれを改めて、みんなが幸せで平和な世界を実現することができるはずだ」と思いました。それ以来、日本および世界の行き詰まりを解決し、幸福で平和な世界を実現するということが私の一生のテーマとして思索を重ねてきました。

 その思索の主なテーマは、人類社会の行き詰まりを解消するために、人類社会が行き詰ってきたその一番の根本原因を見つけ、それを取り除くにはどうしたらよいかということです。このようにして、まとめ上げたのが「国の理想と憲法」という本です。

たびたび警告されていた原発の大事故
 この本の中では、日本を含めて人類社会全体が行き詰りの状況をいろいろな面から説明しております。原発事故の危険性についてもかなり詳しく書いております。

 今年の3月11日に福島第一原発の事故が起こってから、すでに2ヶ月ほど経過しましたが、当日我が家も震度6弱という大きな揺れを感じました。その後しばらくして、この原発事故の報に接したわけですが、私がまず最初に感じたことは、「やっぱり起こってしまった」ということです。その時の心境を表すとしたら、まさに「無念」という言葉しか浮かんできません。

 というのは、私はすでに4・5年前にこの本の中で、原発事故の危険性が非常に大きいこと。そして事故が起こるとすれば、このような形で起こるに違いないということを書いております。まさに、その通りのことが起こってしまったのです。

 実は私自身、自分の予想が当たったということに、逆にとても戸惑いを感じました。それはどういうことかと言いますと、私は原子力関係の専門家ではありませんし、社会科学の専門家でもありません

 私はかつて米ソが互いに数万発もの核兵器を擁して対峙するという人類史上かつてなかった危機的状況の中で、「核のない世界」を実現するにはどうしたらよいのかということを真剣に考え始めました。そういうことから核兵器や原発に関してはいろいろと調べ、世の中にも発信してきました。

 この『国の理想と憲法』という本をまとめるに際して、あらためて関連するいろんな分野の本を読んでみました。 これまでに原発関係の本はおそらく数十冊は目を通しているとは思います。それらの本を読んであらためて思ったことは、すでに数十年前から、数は決して多いとは言えないまでも、真面目な研究者や心ある識者によって、科学的な知識や研究に基づいて「原発は非常に危険性である」ということが継続的に警告されてきたということです。

 それらの警告にも関わらず、とうとう今回のような大きな原発事故が起こってしまったのです。私は自分たちはいったいこれまで何をしてきたのかと改めて思い愕然としました。

 これまでいろいろな人が原発の危険性について熱心に警告してきました。もちろん、それらの人たちの警告に耳を傾け、懸命に脱原発への声を挙げ、活動してこられた多くの人々がいらっしゃるわけです。こうした努力や活動にも関わらず、今回大きな事故が起きてしまいました。

 ということは、全体としてはそれらの警告に本気で耳を傾け、それに基づいて積極的に行動する人々がまだまだ少なかった。その結果、この日本を動かしていく決定的な力になり得なかったということではないでしょうか。

福島原発事故の本質を探る
 すでに福島において大きな原発事故が起きてしまいましたが、このようなことを二度と起こさないためにも、私たちは今こそあらためて「本気で考え、本気で行動する」ということの重要性を問い直してみるべきだと思うのです。

 先ほど申しましたように、私は原発関係の専門家ではありません。そういう面では全くの素人です。ただ、少なくとも4年前の時点では、『国の理想と憲法』を執筆するためにいろいろな本を読んで勉強をしたおかげで、原発に関しては一般レベルの人たちよりは詳しかったと思います。

 ところが、福島の原発事故が起こって、テレビ、新聞、インターネット等でいろんな人が原発について発言されております。いままで声が小さかった人の声もかなり大きく取り上げられるようになっています。したがって、これからお話申し上げることは、皆さんも、もうすでに十分ご承知のことが多いのではないかかと思います。

 そうではあるのですけども、改めてもう一度それを確認にしながら、問題の本質を探って行きたいというのが今日の講演の主題なのです。

原発の安全神話が覆された
 まず、ここまではっきりしてきた最も大きなことは、電力会社と政府、あるいは経済産業省が、これまで原発は絶対安全だと言ってきたこと、原発の安全神話が完璧に覆されたということです。

 それに付随して、これまで電力会社が嘘に嘘を重ねていたということがはっきりしたということですね。ということは、これから東京電力、中部電力、あるいは関西電力などの電力会社が何を言おうと、信じきれないものがあるという状況になってきたということです。

 簡単に言えば、私たちは国からも電力会社からも騙されてきた。言葉を変えれば、完全になめられていたんだなということです。分かってはいたことですけれども、あらためて非常に悔しい思いをしております。

 それから、東電や政府関係の発表において「想定外」という言葉が非常に多く使われましたね。これについてはいろんなことが言われていますけども、私のような素人でさえもちょっと勉強しただけで、こういう事故が起こる可能性があるということを「想定」できたわけです。

 このように素人にも分かるようなことを、専門家と言われる人たちが、想定外という言葉を使うのはいったいどういうことなのでしょうか。

 実は、私も原発については素人なのですが、以前は一応理系の研究者でした。その立場から言えば、専門家が想定外という言葉を乱発するのは非常にみっともないと感じてしまうのです。なんとか言い逃れをして、これからも原発を続けていきたいという意図が見え見えですね。

原発はコストが安いか
 もう一つ、これまで政府や電力会社などは原発推進の根拠の一つとして、原子力発電は火力その他の発電方式に比べると価格が安いということをずっと言ってきました。

 例えば、経済産業省の「エネルギー白書」(2010年版)によると、液化天然ガス火力の発電コストは1キロワット時あたり7~8円、水力は8~13円、さらに風力は10~14円、太陽光は何と49円となっています。それに比べて、原子力は5~6円となっています。

 しかし、これもこれまでも何人かの専門家が、原発は決して安くはない、火力に比べても安いものではないとういうことをデータに基づいて言ってきているのです。

 最近では4月30日の東京新聞に、立命館大学の大島堅一教授が、これまでの原子力発電のコストを、火力・水力などと比較したデータを挙げておられます。これはインターネットでも検索することもできます。大島教授は電力会社自身の報告書を下に、経済産業省の試算には入れてなかった原発開発を促進するための税金や使用済み核燃料の再処理費用などを加えて、コストをより精密に計算をしました。

 それによりますと、1キロワット時で火力が9.90円、水力が7.26円、原子力が10.68円となり、原子力が一番高くなっています。また、これは先の「エネルギー白書」で国が使う試算5~6円の約2倍になっています。
 また、原子力発電をするためには、揚水発電所が必要です。つまり、原子力発電と揚水発電のセットになっておりますが、その場合には12.23円となっています。つまり、原子力は決して安いものではないのです。

原発は石油の節約になるか
 原発推進論のもう一つの根拠は「原発は石油の節約になる」という主張です。果たしてそれは真実なのでしょうか?

 それを確かめるためには、ある発電方式で発電をするために投入したすべての石油のエネルギー量と発電された電力を石油に換算したエネルギー量の比、すなわち、電力産出比を計算すればよいということになります。

 石油に換算された産出エネルギーが投入エネルギーよりも大きい場合、つまり、電力産出比が1より大きい場合にはエネルギー収支はプラスとなり、その発電方式には実施する意味があるということになります。そして、電力産出比が大きければ大きいほど、エネルギー収支から見て、その発電方式が効率的だということになります。つまり、経済的にも得ということであり、石油を節約できているということになります。

 逆に、電力産出比が1より小さければ、エネルギー収支はマイナスと言うことになり、その発電方式自体実施する意味がないと言うことになります。それどころか、実施すれば、経済的にも損だということであり、石油の無駄使いということになります。

 例えば、石炭火力発電の場合は、石油を1使って掘った石炭で作れる電力は石油に換算して100ぐらいだそうです。つまり、電力産出比は100で、石炭火力発電は意味があるということです。

 ところが、石油を使って石油を掘り、それを燃やして発電する、いわゆる、石油火力発電の場合は、電力産出比は100よりもずっと大きいのです。ということは、エネルギー収支から見ると、石油火力発電の方が石炭火力発電よりもずっと効率がよいということになります。そのために、石炭火力発電が衰退したというわけです。

 では、原子力発電の場合はどうなのでしょうか。1976年のアメリカ・エネルギー開発庁の試算によれば、電力産出比は3.8となっています。1991年に日本の電力中央研究所の発表によれば、計算の内訳は未公開ですが、4.0となっています。二つの値がほとんど同じであるのは、モデルの組み方や途中の過程などどちらも同じような前提に基づいて計算したためだと思われます。

 当然のことですが、エネルギー収支を計算するためには、計算の前提となる条件に漏れ、つまり、積み残しがあっては正確な計算結果を導くことはできません。

 まず、投入エネルギーを計算するためには、発電するために投入したすべてのエネルギーを合計しなければなりません。例えば、ウランの採掘・精製、発電所の建設費、発電作業自体のコスト、原発を動かすための揚水発電所の建設費など全部組み入れます。産出エネルギーからは、揚水発電所の夜間電力や送電によるロスや、原発の廃棄物の処理にかかる費用なども差し引く必要があります。

 物理学者の槌田敦氏は、米国エネルギー開発局の計算には、かなりの積み残しがあると指摘し、それらを補正して、次のような計算結果を出しています。

 「投入エネルギー」については、積み残しとして、原発の稼動に必要な揚水発電所の建設、発電所の建設や運転に使う電力、遠距離の送電設備の建設を加えます。また、「産出エネルギー」からは、揚水発電の夜間電力のロスや送電での損失を差し引きます。そうすると、エネルギー収支はほとんど1となるのだそうです。

 これだけでも原発をやる意味はないということになるのですが、さらに、長年にわたって放射性廃棄物の処理などにかなりのエネルギーを消費することを加味すると、どう楽観的にみても、エネルギー収支は1以下になってしまいます。数理経済学者の室田武氏も、ほぼ同様の計算結果を出しています。

 これらの結果から言えることは、原子力発電は発電所としてはまったく意味をなさないということです。それどころか、原子力発電は石油の節約にならないどころか、大きな無駄使いだということです。

 要するに真実は、原発はまず超危険である、原発は高くつく、原発は石油の節約にもならない、ということなのです。

原発なしでやっていけるのか
 それからもう一点ですね、よく言われるのが「原発なしでやっていけるのか」ということです。確かに、電力が不足すれば、家庭生活をはじめ、産業・経済活動その他、生存にともなうすべての活動に支障をきたすことになるわけですから、これは大変大きな問題だと言えるでしょう。したがって、今なお多くの人々が「原発がなければ電力不足になる」と言って、それを原発続行あるいは推進の大きな根拠とされているようです。

 それは果たして真実はどうなのでしょうか? 実際の数字で見てみましょう。京都大学原子炉実験所の小出裕章さんも指摘されていますが、日本全体では火力発電の稼働率は50%、水力発電の稼働率は19%です。つまり、原発を稼動しなくても、火力と水力の稼働率を上げれば、まだまだ発電能力に十分な余力があるのです。

 事実、火力と水力の発電能力の合計は17000万キロワット(KW)で、真夏の昼間の数時間を除いて、原子力なしでも火力と水力の合計で需要電力量をまかなえています。日本のこれまでの最大消費電力の記録は18200万キロワットなので、火力発電と水力発電の合計を上まわるのは、差し引きした約1200万キロワットになります。

 わずかですが、電力不足になるのは、冷房を使う夏の一時期に消費電力がピークとなる数時間だけです。したがって、このピーク時の電気の総使用量を抑える効果的な対策をとることにより、脱原発は充分可能なのです。

 ピーク時の電気の総使用量を抑えるためには、冷房の温度設定を少しだけ高めに設定し、冷房による消費電力を抑える。あるいは、工場などにおいてピーク時における電力消費を抑えるために、機械類の稼働時間をずらすなどの生産調整をする。さらには、フランスのようにピーク時の料金を高く設定することにより、電気の総使用量を抑えることなどが充分効果的な対策となります。つまり、原発なしでも充分やっていけるのです。
 
 もう少し具体的な事例を参考に考えてみましょう。
現在、浜岡原発が一時的に差し止め、つまり中止になっておりますけども、中部電力のHPの平成23年度「電力供給計画」によりますと、22年度の供給予備力は295万キロワットとなります。ところが、猛暑だった去年の真夏に稼働していたのは浜岡3号機と4号機だけで、その供給力は223.7万kWでした。

 ということは、浜岡3・4号機がもし止まっていても供給予備力は295万kW-223.7万kW=71.3万 kW余っていたということです。
 さらに、今年の供給予備力は439万キロワット。 浜岡原発を全部止めて361.7万kW分減らしても、77.3万kW以上余ると中部電力自身が予想しています。原発なしでも火力、水力、あるいはその他のエネルギーによって十分間に合っているんですね。

 また、2011年6月12日の朝日新聞には「夏の電力需要、供給力確保か 東電、広野発電所再開へ」という見出しで、次のような記事が出ています。

 「東日本大震災の津波で被害を受けて停止した東京電力広野火力発電所(福島県広野町)の全5基(出力計380万キロワット)が、7月中旬にも運転再開できる見通しになった。これにより、東電は5500万キロワットと予想する今夏の最大需要を上回る供給力を確保できる可能性が高まってきた。(中略)
広野火力が立ち上がれば、夜間に余った電力で水をくみ上げて発電する揚水式発電による上積みも可能になる。」

 つまり、東電管区内においても、今年の夏も原発はなくてもやっていけそうだという記事です。ですから、例えば、みんなが冷房の温度設定を一度くらい上げれば、原発一基分ぐらいの節電は簡単にできるそうですから、企業を含めて私たちが仕事や生活の中で節電を心がければ、とくに大きなガマンを強いられるということもなく、電力不足を回避することは充分可能なのです。

 要するに、これからはこれまでのように電力を湯水のように使うことは改めて、できるだけ節電を心がける必要があります。そうすれば、原発はなくとも、火力や水力、あるいは自然エネルギーだけで、現在の生活のレベルや企業の作業能率を落とすことなく、また、生産コストを上げることなくやっていけるということです。

 政府はここ数十年にわたって原発推進を国策としてきました。そのために、火力と並んで原子力を発電の2本の大きな柱としてきました。つまり、もともと、発電の主力を原発以外の火力などでやっていれば、それだけで充分必要な電力はまかなえていたにもかかわらず、国の政策として、原発が現実の日々の発電のシステムにしっかりと組み込まれ、私たちの生活や経済活動などが原発に依存せざるをえないような仕組みにしてきたのです。

 したがって、今急に原発をすべて廃止するということになれば、現実問題としては、調整が追いつかずに、一部の地域において一時的に電力不足になる可能性はあるかもしれません。そういう意味では、電力が不足するかもしれないこの期間をどう凌いでいくかということは大きな問題であることは確かであり、慎重に対処しなければならないことは当然のことです。
 

テロ攻撃などによる大事故の可能性
 もう一つ、今回の事故は地震と津波によって起こったわけですけども、もう一つ考えておかなくていけないことがあります。
これはあまり言われていないのですけども、実は、原発の事故は飛行機の墜落、あるいは、ミサイル攻撃やテロ攻撃を受ければ、大事故が起こる可能性が非常に強いということです。

  原発の原理的あるいは構造的なことから言って、飛行機の墜落や武力攻撃を受けた場合には原発の大事故を防ぎきれないということです。
つまり、原発は飛行機の墜落や武力攻撃されることを想定して設計・建築されているのではなく、あくまで、戦争とかテロの無い、いわゆる「平和といわれる時代」において稼動することを前提として、構造が設計されて建設されているということなのです。

 ということは、日本の場合には原発が54基あるということですが、ほとんど全国的に、その沿岸に原発が配置されているわけですね。もし日本を攻撃する意図を持った国があるとすれば、これは日本全国に仕掛けた核爆弾と全く同じなわけですね。

 もし、飛行機、ミサイル、あるいはその他のテロによって、原発を攻撃をすれば、日本に何発もの原爆を落とされたことになります。そうなれば、日本は事実上壊滅して、日本にはもはや人が住めるところがなくなってしまいます。これは非常に大変な状況ですね。

 その意味では、日本が原発を保持しているかぎり、どれだけ軍事力を増強しても、原発に対する他の国々からの攻撃を防ぐことは不可能です。ということは、これはブラック・ユーモアにしかなりませんが、日本が今後も原発を保持していくのなら、軍事力を全廃して、絶対に他の国々から攻撃を受けない絶対平和友好国家を目指すしか、日本が生き残る道はありません。

 ちなみに、欧米諸国は原発テロを想定した研究や訓練を実施しています。1981年には実際にイスラエルによってイラクの原子炉が爆撃されました。

 (付記:2011年7月31日の朝日新聞によると、イラクの原子炉爆撃事件を受けて、外務省は極秘に国内の原発が攻撃を受けた場合の被害予測の研究に着手しました。そして、1984年に、原発攻撃により多大な被害が引き起こされるという報告書が提出されました。しかしながら、反原発運動の拡大を恐れて公表しなかったとのことです。)

全部騙されてきた
 さてここで、ここまでいろいろ検討してきたことをまとめてみたいと思います。一言で言えば、結局は、私たちは全部騙されていたんだなと、ということではないでしょうか。

 これまで、電力会社や国によって、絶対安全だと言われていた原発が、今回の福島原発の大事故で、原発は超危険だということが事実によって証明されてしまっただけでなく、これまでメリットとされ、原発推進の根拠とされていたことのすべてが、本当はデメリットでしかなかった、ということです。

 これは一体どういうことでしょうか。簡単に言えば、つまり、最初から原発をやる意味がまったくなかった。原発によって一般の私たちは大損するばかりであり、超危険だということです。それが今回の福島の原発事故を通じて多くの方々に明らかになってきたということでしょう。

 ここでもうひとつ大切なことは、先ほども言いましたが、これらの事実は何十年も前から心ある人たちが繰り返し警告してきた事実であるということです。

 同時に、それらの警告の声を封じ込めてきた電力会社や政府、官僚、政治家、あるいは財界、あるいは研究費ほしさの御用学者や御用メデイアなどの勢力があったということです。そして、私たちの多くは「お上」すなわち、国や電力会社などが言うことを無条件に信じ込み、また、どこかで疑いながらも、それを見て見ぬ振りをしたり、あるいは、それらのことにまったく無関心で生きてきた。それらが相まって、今回の大事故に繋がったと言えるのではないでしょうか。

無知・無関心・他人任せ・あきらめ根本原因
 要するに、私が言いたいことは、一方的に電力会社とか国を批判するというだけで、この問題を済ませようとするのではなく、ここで私たちは私たち自身の生きる姿勢をきちんと反省するべきではないかということです。

 例えば、情けない話ですけれも、今回の福島の原発事故があるまで、日本に54基もの原発があるということを知らなかったという人も結構多いのです。また、今回の事故ではじめて原発は危険だということが分かった、という声も随分聞こえてきます。

 つまり、原発に関しては国や電力会社などが悪いということは明らかな事実ですが、同時に、私たちも足りないところが多々あったと思うのです。結局、結果としては、私たちがこのような電力会社や国などを支えてきたのだということです。

 この事実をきちんと反省しなければ、今後、本当の意味で平和で幸福な日本を創っていくことはできません。きちんとした自己反省なしには、原発問題にしても、今後状況しだいでどのように判断が狂ってくるかもしれませんし、原発以外の深刻な社会問題、例えば、憲法改正問題などについても間違った道を選択する可能性が出てくると思うのです。そういう意味でも、今私たちは大きな岐路に立っていると言えるのではないでしょうか。

 逆に言えば、私たちは今こそ全力をあげて、この困難な状況を一日でも早く復旧しなければならないと同時に、原発だけでなく、2度とこのような惨事が起きないように、この困難な状況を引き起こした根本原因を探り、国や社会のあり方はもちろん、私たちの個人としての生き方に徹底的な根本療法を施し、本当に平和でみんなが幸福な日本を創っていく契機としなければならないと思います。

お上信仰ではダメ
 もう少しこの辺のところについて考えてみましょう。日本人の一般的傾向として「お上信仰」というものがあるんですね。お上の言うこと、例えば、政府のお偉方、大学の教授、大会社の社長が何かを言うと、何となくそれを鵜呑みにする傾向があるようです。

 もちろん、政治家については、例えば、今の首相はどうのこうのと文句をつけるような会話も聞こえます。でも全体的には、日本人の体質として、本当は上も下もないので「上の」と言い方はおかしいのですが、「上の方」から言われたことは、そのまま鵜呑みにしてしまう傾向があるように思います。それが、この原発問題の根本的な原因のひとつとして、私たちの側にあったのではないでしょうか。

 もう一面から言えば、そういうことを詳しく、というか、正しく知ろうとしない。そういうことはお偉方の考えることで、私には関係ないという無関心。そして、自分にできることでもないとする他人任せ。その無関心と他人任せから来る無知。何だか偉そうに言っていますけども、私自身にもその傾向がないとは言えません。

 もう一つはあきらめですね。心のどこかで「そういうことは結局どうにもならないんだ」と思っている人が非常に多いのではないでしょうか。「私たち一人ひとりが声をあげても、結局、どうにもならないのだ」というあきらめです。

 この無知と無関心と他人任せとあきらめ。これが福島の原発事故を起こした、一番の原因である。電力会社や国の姿勢を責める前に、私たち自身が一人ひとりが反省しなくてはいけない、と言えば、言い過ぎになるでしょうか。

 私は私自身、今このように言ってみて、決して言い過ぎなどではなく、あらためて、この「無知と無関心と他人任せとあきらめ」こそ、今回の福島原発の大事故の根本原因だという感を深くしています。

 つまり、一般的に私たち一人ひとりに「この社会、この国、この世界が自分たちのものだ」という当たり前の認識が欠けているということだと思います。そのために「自分たちが、自分たちの手で、この社会を、この国を、この世界を創っていくのだ」という自覚が私たち自身に欠けていたということです。国に関して言えば「将来どういう日本を創っていくのかという明確なビジョン、誰にでも納得できる本当の理想が日本という国に掲げられていない」ということではないでしょうか。

まだまだ原発賛成者は多い
 これまでお話してきたことから、みなさんもお分かりになっていると思いますけども、例えば「原発は決して安くない」ことなどについては、少し調べるだけで誰でもわかることですね。


 原発や放射能は何となく怖い。現実に事故も起こってしまった。だから自分は原発には反対だと思っているとします。ところが、実際に話してみると、自分の周りには原発賛成者、原発推進者がたくさんいるんです。

 原発はどういう状況になっても絶対反対、つまり、これから脱原発社会を創っていくのだという人はまだまだ少数だというのが実感です。新聞などのアンケートでは、原発反対が70%ぐらいになっているみたいですけども、実際、日常的にいろんな人に聞いてみると、何が何でも脱原発という方々は全体の4分の1ぐらいです。

 残りの4分の3は、今は原発がないほうがよいと思っているのだが、もし原発なしで電力不足になるのなら、あるいは、自分の仕事に不利な影響が出るのなら、あるいは、経済成長を維持できないのなら、原発続行もやむをえないのではないかなどと思っているようです。要するに、今は原発反対という気持ちが強いけれども、状況次第では、原発続行、あるいは推進に変わる人が結構多いように思います。

 ということは、仮に4分の1の人たちがどんな状況においても絶対反対だと言っても、状況しだいで、残りの4分の3の人たちが賛成すれば、やはり原発は続いていくのです。

 おそらく電力会社、あるいは政府関係、あるいは官僚とか原発続行したり推進することで得する人たちがいて、それらの人たちが結束して、原発を推進してきたのだと思うのですが、そういう人たちは人数的には国民全体の1%ぐらい、あるいは、それ以下なのだと思います。

 残りの99%、これが一般の民衆です。つまり一般の民衆である私たちが、原発は本当に意味がないし、何のメリットもない。もちろん、石油の節約にもならないし、二酸化炭素排出の削減にもならない。そのうえ、とてつもなく危険だ、ということをはっきり理解しさえすれば、原発を永久に廃止することができることになります。

原発にメリットは一つもない
 ここは大切なところなので、もう一度繰り返します。多くの人々が原発にはメリットとデメリットがあると思っています。そして、メリットとデメリットを天秤に掛けて、どちらが重いかと比べてみて、原発賛成、反対を決めようとしています。

 デメリットのなかでもっとも大きなものは原発は超危険だということです。仮に、原発にいくつかのメリットがあるとしても、この超危険だというデメリットだけでも、メリットのすべてをあわせたものよりはるかに重いので、私自身は直ちに原発は廃止にすべきだと思います。

 ところが、そこに価値観の違いという問題があるのです。例えば、ある人は次のように言うのです。「何よりも大切なことは経済成長である。経済成長には電力が必要だ。原発が危険であったとしても、必要な電力を供給するために原発は必要だ。」

 要するに、経済成長のためには、たとえ原発に危険な面があったとしても、原発は必要だという理論です。「経済成長」という言葉を「現在の生活維持」あるいは「現在の仕事の継続」あるいは「現在の収入の継続的確保」と言い換えてもよいでしょう。

 こうなれば、一人ひとりの価値観によって原発賛成、反対が違うということになり、また、その時その時の社会状況により人々の考えが変わってしまいます。これでは何時までたってもはっきりした結論は出るはずがありません。また、そこで無理やりに結論を出しても、その結論が間違っていれば、将来に禍根を残すことになってしまいます。 

 ところが、私がこれまで述べてきたことは、「実は、原発にはメリットはまったくない」ということです。これまで、メリットと言われていたこともすべてその実態を調べてみると、原発ならではのメリットとは言えない、むしろデメリットだということです。

 このように、原発にまったくメリットはないということがはっきりすれば、後に残るのは原発は超危険だというデメリットだけということになります。ということは、原発は何が何でも早急に、そして永久に廃止にするべきだということです。

自分が分かっただけではダメ
 ここまで述べてきたことは皆さんにもすでに納得していただけたと思います。 ただ、それだけでは、何も変わっていかないと思うのです。

 原発に関する本も読んでみた。サイトも覗いてみた。講演会にも行って話を聞いた。なるほど、原発は危険だ。原発にはなんのメリットもない。原発をやる意味はないことがよくわかった。だから、私は原発には反対だ。これはひとつの進歩だと言ってもよいのかもしれませんが、これだけでは、原発を早急にかつ永久に全廃することはできないと思うのです。

 要するに、「自分は原発には反対だ」と自分だけで終わっていては何も変わらないのです。これは過去の歴史が数多くの事実をもって証明しています。簡単に言えば、「平和は祈るだけでは実現しない」とうことです。

 私たちは真の平和の実現に向かって、確かな具体的な手段をもって、果敢に他の人たちに自分の思いを伝え、賛同者を増やしていかなければならないのだと思います。つまり、私たち一人ひとりが「真に行動する人」にならなければ、この社会は何も変わらないということが、私たちが今回の原発事故から学ぶべきもっとも重要な教訓ではないでしょうか。

他の人に伝える力をつける
 そのためには、まず、私たち一人ひとりが「なぜ、原発は早急に全廃しなければならないか」ということを理論的にも、事実としてもきちんと理解しなければなりません。そして、それを他の人たちにきちんと確実な理論と事実をもって説明していける実力を付ける必要があります。そして、機会を見つけては積極果敢に他の人にその真実を伝えていくことだと思います。

 そのために、心がけて関連する本を読んだり、サイトを覗いたり、講演会や学習会に参加することは自分の実力をつけるためにも大変有効です。また、知人によい本やサイトを紹介したり、講演会や学習会に誘うこともとても有効なやり方だと思います。

 ここで、例えば、「経済成長を続けるために原発が必要だ」あるいは「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」あるいは「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」などという意見に対して、あなたはどう答えますか。

 最初の「経済成長を続けるために原発が必要だ」という意見に関しては、すでに述べたように、発表されているデータの数字をあげて「原発がなくても、火力や水力で電力は足りている」ことを示せばよいでしょう。

 二番目の「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」という意見については、確かに、現在の段階では、自然エネルギーによる発電が不安定で、発電効率が大きくないということは事実です。

 自然エネルギー発電を普及・拡大するには、今後大幅な技術革新により発電効率を上げることと同時に、スマート・グリッドのようにコンピューター技術による安定・制御技術の向上が望まれるところです。そうすれば、将来的に有望な発電方式として自然エネルギー発電はますます重要なものとなっていくでしょう。

 また、原発の発電効率は火力や水力に比べても決して高いものではないので、その面からも火力や水力、さらに自然エネルギーで充分必要な電力はまかなえるのです。

 三番目の「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」という意見については、ちょっと考えると「それはすごいな」と思ってしまうかもしれません。しかし、これは数字のトリックですね。

 確かに、ウラン1グラムで石油の2トン分のエネルギーが出るというのはすごいですね。ところが、最初からウランの精製されたその1グラムがあるわけじゃないのです。地中を深く掘って、そこからウランを含んだ土であるとか岩石を取り出してくるわけですね。その中にごく一部分ウランが含まれており、またそのウランのまたごく一部分0.07パーセントがウラン235で、それが原発に使われているのです。
 ということは、最初の土や岩石などに含まれていた段階からずーっと濃縮を繰り返してきた最後の1グラムが石油2トンのエネルギーに相当すると言っているだけなのです。ですから、最初の地中で土や岩石の状態で石油と比べれば、決してそれだけのパワーをもっているわけではないのです。

 濃縮・精製されたウランは持っているに違いないのですが、そこまで濃縮・精製するまでには大量の石油あるいは石油で作った電気が必要だというわけです

 以上のように、一つひとつ事実を検証していくと、いろんな人が原発は必要だと言われるその根拠を、一つ一つ確実に論破して説得することができます。

確実に他の人に伝える
 このように、原発の真実について、一人ひとりが他の人たちに確実に伝えていく。確実に5人でも10人でも100人にでも伝えていく。伝えられた人がまた5人でも10人でも100人にでも伝えていく。その連鎖が最終目的までずっと続いていくということでなければ、本当に原発を廃止することはもちろん、本当に平和でみんなが幸福な社会を実現していくことは不可能だろうと思います。

 私たち一人ひとりが、これまでそうできなかったことが、福島原発の大事故を引き起こしてしまうような日本にしてしまった一番の原因だと思います。その意味で、私たち一人ひとりにとって、「本当の幸福とは何か」ということを真剣に考え、「本気で行動する人となる」ということが、今もっとも必要なことではないでしょうか。

(前編の終り。後編に続く。)