2009年3月2日月曜日

存在の真実についてー2

本能とは無数の成功体験の集積
 野生の動物は、すべて本能に従って動き、循環し、関連しあって自然と調和して生きています。それは本能によって自然の法則にしたがって生きているからです。本能は何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何億万年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、個と種の生き残りと繁栄のためのよりよい成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得・蓄積してきた最高の能力です。

 ですから、野性の動物は本能にしたがって行動し生活すれば、それがすべて自然の法則に沿った調和したものになるので、怪我や細菌による感染、あるいは食糧不足による身体の衰弱などを除いて、体の働きが異常になることがないのです。つまり、野生の動物は、基本的には、事故によるケガを除けば、病気にはなりません。

人間はアタマで生きる
 それに対して人間にはアタマ(発達した大脳)が備わっています。他の動物と異なって、人間の特性はアタマで考えることができるということです。しかしながら、アタマの判断能力は生きることの基本的な分野では本能に比べると非常に貧弱であると言えましょう。アタマによる判断能力にはせいぜい長くても数百万年の体験の蓄積しかありません。

 一方、前述のように、本能は地球上に生物が発生以来約10億年の成功体験が集積そして凝縮されたものです。例えば、動物の生存に不可欠な食物について考えてみましょう。野生の動物は本能にしたがって、好きなものを好きなだけ食べます。自分の体に合うものはよい味、好きなものと感じます。反対に体に合わないものはまずい味、嫌な臭いと感じます。それが本能の働きです。そして、本能の働きにより、必要量を食べると自然に満足して、それ以上食べるのをやめるのです。

野生動物に肥満はない
 したがって、野生の動物は体に合わないものを食べるということはなく、また、食べ過ぎということもありません。当然、野生の動物には肥満はありません。カバが太っていると思うのは、それを鹿などの別の種と比べるからそう思うのです。カバはその体つきが生存に適しているので、種として本来的に肥満しているのではありません。カバはその体つきがそのままで標準であり、同じ種の中に標準を超えて、異常に肥満したカバはいません。

人間に適した食べ物
 それに対して、人間は多くの場合何らかの知識や経験などに基づいて、食べ物の種類や量や食べる回数も、アタマで考えて決めることが多いのです。その結果、多くの場合食べ過ぎになっています。

 人間も本能にしたがえば、本来、肉や乳製品などはそれほど多くは食べないはずなのです。例えば、人間の歯は堅い生肉を噛み切るにはあまり適していません。人間が火を使用し、肉を焼いたり煮たりして軟らかくする技術を開発するまでの人間、あるいは、その先祖である類人猿の一種であった数百万年の間、他の動物の肉を食べることはあったとしても、主食は木の実や果物、木の葉のようなものだったと推測されます。

ネコと人間の違い
 また、本来は純然たる肉食動物であるネコなどを観察していると、チョコチョコ動く小動物が近くに来ると、本能的に彼らは興奮してその小動物の動きを眼で追いかけ、相手の隙をねらって飛び掛ろうとしています。

 それに対して、私たち人間は牧場の近くを散歩している時に、子ヤギなどが近づいてきても、一般には「可愛い」と思うことはあっても、「これは美味しそうだ」などと思うことはありません。ましてや、よほどの飢餓状態に直面しているのならともかく、通常の場合には、跳びかかって捕まえてやろうという衝動が本能的に湧き上がってくるようなことはないでしょう。

 これらは一例に過ぎません。もちろん、人間は肉を焼いたり、煮たりして軟らかくし、生肉のまずい味を隠すためによい香りや味を持つ野菜や果物のジュースや塩などの調味料を加え、肉を「美味しく」食べることはできます。それが、体に本当に適しているかどうかは別として、人間の食材の範囲を広め、食生活や食文化を豊かにし人間の生存を容易にし、その生息地域を飛躍的に拡大させたことは事実です。しかしながら、火に掛けたり、他の匂いや味のよい野菜や果物などと混ぜて調理しなければ、美味しく食べられないということは、肉は本来的には人間にはそれほど適した食べ物であるとは言えないということではないでしょうか。

ミルクはよい食べ物か
 乳製品はどうでしょう。動物のミルクはその種によって成分が異なります。人間の赤ちゃんには人間のお母さんのミルクが適しています。ウシの赤ちゃんにはウシのお母さんのミルクが適しているのです。
 その意味では、人間の赤ちゃんにウシのミルクを与えるのは問題があるといえるのではないでしょうか。ましてや、哺乳類は生まれてからある一定の年月が経過すると自然に離乳します。母親のミルクを必要としなくなるのです。

 哺乳類は大きくなれば自分で食べ物を捕って食べるようになります。ところが、多くの人間は大きくなってからもミルクを飲みます。それも自分のお母さんのミルクでなく、ウシのお母さんのミルクをです。何か変ではありませんか。

 ウシのミルクに人間にとっても栄養になるものが含まれているのは事実でしょうが、ウシのミルクには赤ちゃんウシにとって必要な成分が凝縮されています。ウシのミルクは人間の大人にとっても本当によい食べ物なのでしょうか。人間の大人はウシの赤ちゃん用のミルクを奪って飲んでいるわけですが、大人のウシでさえ牛乳なんか飲みません。

人間の体に適した食べ物
 では、人間の体にとってもっとも適した食べ物とはどんなものでしょうか。それは基本的には、焼いたり煮たりなどすることなく、生のままで、他のいかなるものとも混ぜないにもかかわらず、そのままで香りがよく、美味しいもの、ということになります。

 これは現代の多くの人びとの常識とはかなりかけ離れた考え方かもしれません。しかし、人間の体の自然とは何かという視点に立てば、決してとっぴな考えではありません。私たち人間の先祖は数百万年の長い年月、自然が与えてくれた最高の能力である本能に基づき、生のままで匂いがよく、味のよい食べ物を選んで食べてながら生き抜いてきたのです。
 したがって、人間の体の構造はそのような食べ物に適応するようにできています。その後人間はいろいろの調理法を開発し食材などの範囲を広げてはきましたが、その歴史はせいぜい数万年というところでしょう。人間の体が新しい食物に充分適応しているとは言えません。

なぜ食べ過ぎるか
 多くの場合、人間はアタマの判断や知識に基づいて食べ物を選び食べます。本能にしたがえば、体に合うものを食べるので、ちょうどいいところ(比較的に少量)で満足して、食べるのを止めるはずなのです。

 ところが、アタマの判断や知識で食べているために、体に本当に合うもの(好きなもの)を食べないことが多いので、いくら食べても、本当には満足できません。それで、満足を得ようとして、もっともっと食べないではいられないのです。そのために、ついつい食べすぎになってしまうのです。

体の異常は不自然な生活から
 また、現代の生活ではあまり歩いたりすることがなくなりました。歩くことによって人間の体は自然にバランスなどが調整されるのですが、その自然の調整がうまく出来ません。
 また、運動不足になるので、仕事の後運動ジムなどに通っている人も多いようです。野生の動物はジムなどに通わなくても運動不足になることはありません。

 このような例は人間の生活のあらゆる場面に見られるのではないでしょうか。つまり、人間はアタマで判断するため、自然の法則から外れ、生活が不自然になり、そのために体が異常になるのです。ということは、原則的には、体の異常は生活を自然の生活に即して正し、自然の生命力(本能)に任せれば治るということです。

人間の社会は一体の社会
 私たちの世の中、つまり、人間の社会も本来すべてが繋がった循環する一体の世界です。この社会は大人、子供、老人、赤ん坊、男、女、夫、妻、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、甥、姪などすべての人が繋がり合い、循環した関係にあります。
 それが家族、友人、知人などいろいろな関係と繋がりを持ち、また、それらの人々の有機的な集まりや結合により、店、工場、事務所、会社、役所、裁判所、学校などいろいろな組織や各種の機関が構成されます。
 そして、さらにそれらが集まって国家となり、さらに世界はこれらのすべての要素によって構成されています。
 国際社会の基本的単位は国家ということになります。すべての人やその他の構成要素は人体におけるすべての細胞や組織や器官と同様に、この一体の社会を構成するかけがえのない存在であると言えるでしょう。

私たちの社会は調和していない
 しかしながら、一体であるこの社会はすべてが正常で調和していると言えるでしょうか? 残念ながら、そうではありません。この社会における一つ一つの存在はかけがえのないものではあり、互いに密接に繋がっているとしても、それらの働きが正常に働き、調和した、平和で幸福な世界になってはいません。それはなぜでしょうか? 真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているのです。

 それは体の場合と同じように、アタマで間違った、つまり、真理(自然の法則)に沿わない考え方や観念、判断に従って、個人個人や各種の組織や機関が活動することにより、この社会に異常が生み出されるからです。
 それが、個人の心身の悩みや苦しみの原因、また、人と人の間の憎しみや争いの原因となり、さらに、紛争や戦争、貧困、飢餓、環境破壊などの原因ともなっているのです。

 要するに、私たちの社会も一体です。しかし調和していないのです。それは、存在の真実、すなわち、「すべての存在はバラバラではなく、不可分一体である」という真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているということです。

体の仕組みと社会の仕組み
 体は一体ですから、体のどこかに病気や怪我があればそれは体全体の不調和となります。また、その影響と反応はすべての細胞の末端まで及びます。また反対に、一個の細胞の病気や傷は一体である全心身の病気に繋がります。

 人間の社会は一体の世界という意味では、人の体とよく似ています。社会におけるいろいろな問題は人の体の病気と同じようなものです。つまり、体の一部の傷みが全身の傷みとなり、心の病となるのと同じように、世界のどこかに一人でも貧困や飢餓、あるいは戦争など、困ったりで苦しんでいる人があれば、自分自身の苦しみ、不幸と捉えるのが人間本来の正常な感覚であり、また正しい観方なのです。
 そして、それを一体の自分自身の苦しみや不幸であるとして、一刻も早く取り除き、正常に回復するように勤めるのが人間本来の姿だと思います。

 このように、もし、一人一人がこの存在の真実を自覚すれば、そこにはもはや争いなど起こりようもなく、「自分さえよかったら」あるいは、「自分達さえよかったら」というエゴイズムは生じるはずもないのです。

一体観とバラバラ観
 ここでもう一度、個と全体という観点から、一体観とバラバラ観について考えてみましょう。というのは、私たち人間一人一人には確かに「自分」という意識、すなわち「個」という意識があるからです。そして一人一人、あるいは、一つ一つの存在はバラバラであるというように見えているのも事実なのです。これはどのように考えたらいいでしょうか? 

 これは私たちの五感を通して見たり、感じるイメージとこの世界の本当の姿の違いであると考えられます。この違いを一つの例えで説明しましょう。
 太陽光線は無色であり、ひとつのものです。ところが、無色の太陽光線をプリズムに通すと虹のように七色に分かれます。実際は、七色ではなく、もっと多くの色に分かれるのだと思います。
 ちょうどこれと同じように、すべての存在は、元々は一つのものが、私たちの五感を通すと無数の「個」として見えていると考えられるのです。

人類はみな兄弟
 「個と全体」の関係をもう一つ例えを使って説明しましょう。
 一九八七年に発表されたハワイのカン博士らの研究によれば、アジア、ヨーロッパ。オーストラリア、ニューギニアなど世界各地からの新生児の遺伝子を比較研究したところ、現在地球上に生存するすべての人間は20万年前にアフリカに生きていた一人の黒人女性を共通の先祖として持つというのです。
 要するに、すべての人間はその女性の子孫であり、人類はみな兄弟というわけです。

 人類の共通の先祖が本当に特定されのかどうかは別として、すべての人類が、ある特定の共通の先祖を持ち、すべての人間がその特定の先祖の子孫であるということには異論はないと思います。

 それは「ある共通の先祖から分かれてきた」と表現することもできるでしょうが、「分かれた」子孫の男女がまた結びついて、共通の子孫が生まれるというようなことが無限大に近い回数繰り返し起こっており、それは、いわば、立体的網の目のような関係になっています。

 ということは、「分かれてバラバラになったかに見えて、それは新たな結びつきを有機的に形成することに繋がっていくことを考えれば、「バラバラで関係がなくなった」とは言えず、一見バラバラに見えるイメージも不可分一体の姿の一つであると言えます。

すべての存在は一体である
 「個と全体」の関係は、私たち人間の体について考えるとより明瞭になります。
 一人一人の人間の生命の元は一個の受精卵です。その受精卵がそのままではあまり精密な生命活動をすることができません。そこで、1個の受精卵が細胞分裂の結果2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、無限に近い回数細胞分裂を繰り返し、結局60兆以上の細胞が形成され、それらの細胞から、各種の機能を持つ組織、そして、器官が生み出され、それらが全体として一人の人間という生命体を構成しているのです。

 では、それぞれの細胞や、それぞれの組織、それぞれの器官はバラバラでしょうか? 無関係でしょうか? 「ただ繋がりがある」というだけでしょうか? 「密接な関係がある」という表現でお互いの関係を説明しきれるでしょうか?

個と全体
 いずれも間違っています。それぞれの関係は、互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係であり、それが互いに循環し、それぞれがそれぞれの特性や役割を果たすことによって全体である一つの生命体(いのち)が生きることができるのです。

 つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。

存在の真実の自覚が大切
 この「個と全体」の関係は、人間の体だけでなく、自然界においては当たり前の姿です。そして、人間の社会についても本来のあるべき姿なのです。
 確かに、私たちには「自分」という意識があり、「個」という意識もあります。しかしながら、だからといって、私たち一人一人の存在がバラバラであるということでは決してありません。
 私たち一人一人の人間は、本来は、お互いになくてはならない存在であり、互いに助け合い、補い合い、協力し合い自然と調和して生きていくのが、人類社会の真実の姿なのです。

 一人一人に「自分」という意識があり、「個」という意識があるのは、それによって、他をよりよく生かし、全体の生命をより発展させるという、この大宇宙にあまねく働いている「いのち」自体の内的要請により、進化の結果、そのような能力を人類は獲得してきたのだと思われます。
 それは、ちょうど単細胞生物から多細胞生物、さらには、複雑な組織や器官を持った各種の植物や動物に進化してきたのが、「いのち」自体の内的要請であると考えられることと同じです。

 いずれにしても、人間社会のすべての問題はバラバラ観に基づくエゴイズムにあります。ここまで人類社会が行き詰った現代において、今こそ、「すべての存在は一体である」という存在の真実を自覚しなければならないと思います。

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2009年1月29日木曜日

存在の真実について-1

バラバラ観は存在の真実か?
個人レベル、集団レベル、あるいは国家レベルを問わず、人間(人類)はいろいろな問題で悩み苦しんでいます。これらの諸問題の根源的原因は結局のところすべて、他の動物と異なって、人間のもつエゴイズムにあると言ってよいでしょう。ということは、もし、エゴイズムが人間の本質であるとすれば、それこそ、本質的に、人間の諸問題を解決することは不可能であるということになります。したがって、エゴイズムが人間の本質であるかどうか?ということは実に重大なテーマです。エゴイズムは「この世の中のそれぞれの存在はバラバラである」という「バラバラ観」から出てくる「自分さえよければ」という考え方、あるいは生き方です。 

「存在の真実」―人間
 では、バラバラ観は「存在の真実」なのでしょうか? まず、もっとも身近な存在として、人間の存在について考えてみましょう。一人一人の個人を考えてみても、人間の身体には60兆以上もの細胞があります。一個の細胞も調べてみると、遺伝子、細胞液、細胞膜などいろいろな要素によって構成されています。その細胞が集まって膜、血液その他の体液、筋肉などいろいろな組織が構成されています。さらに、それらの組織が集まって胃、腸、心臓、肝臓、腎臓目、鼻、口、血管、骨などの器官が構成されています。また、それらの器官が集まって頭部、首、胸部、腹部、手、足など身体の各部が構成され、さらに、それらの各部によって一個の人体が構成されています。

そして、人間の一個の存在は身体だけでなく感覚、知能、知識、思考、記憶、感情、心など各種の要素によって構成されています。つまり、一個の人間の存在は、細胞や組織、器官、各部、さらに、知能、記憶、感情、心などレベルの異なるいろいろな要素によって構成されています。しかも、それらの各要素は絶えず離散集合し、循環し、活動し、或いは停止したりしています。つまり、それら要素はお互いにバラバラな存在ではなく、密接な関係がある、繋がりがあるというレベルをはるかに超えた、切っても切れない間柄であり、互いに補い合い、助け合い、循環しながら一個の人間のいのちを維持存続させています。

 このように、一人の人間の存在は一つの小宇宙であり、「すべての細胞や組織や器官、さらに知能、記憶、感情、心などがお互いになくてはならない存在」、「互いに生かし生かされあう関係」として存在し、循環・調和して機能しています。別の言い方で言えば、「All for one, one for all. オール フォー ワン、 ワン フォー オール」、つまり、「すべて(全員)は一つ(一人)のために、一つ(一人)はすべて(全員)のために」という関係です。 要するに、それぞれの存在はバラバラではなく、また、「ちょっと関連がある」というような希薄な関係にあるのではなく、「私はあなた、あなたは私」「すべては私、私はすべて」とでもいう密接な関係になっています。その状態は「バラバラに分けることができない一体の関係」と言う意味で、「不可分一体」あるいはただ「一体」と表現するのが適切でしょう。

大宇宙
 人間の存在(いのち)が一つの不可分一体の小宇宙であるように、大宇宙そのものも不可分一体です。太陽の周りをいくつもの惑星が法則に従って規則的に整然と回っています。また、いくつかの惑星の周りにも月や衛星が整然と回っています。銀河系には私たちの太陽系のようなものが二〇〇〇億ぐらいあるそうです。
そして、現代のもっとも性能のいい望遠鏡で、銀河系レベルの星雲が10億個ぐらい見つかっているそうです。まさに我々の宇宙は大宇宙であり、無限、無数とでも言うべき星や惑星系、星雲、星間物質などからできています。それらがすべて、法則にしたがって、整然と循環し、調和しながら動いています。このように、大宇宙も法則に即して整然と運行する不可分一体の世界なのです。

ミクロの世界
 ミクロの世界も小宇宙と呼ばれます。いろいろな原子では、それぞれ大きさの違う原子核の周りをそれぞれ一定数の電子が法則に従って、乱れることなく飛び回って、一つの原子の働きを表します。そして、それぞれの原子核はいろいろな微粒子で構成されています。そして全体で調和しているのです。分子についても同じです。原子も分子も一体なのです。

大自然
 自然も同じです。そこにはいろいろな構成要素があります。空、雲、雨、太陽、月、雪、川、海、山、土、砂漠、草原、鉱物、植物、動物、微生物、など、すべての構成要素が関連しあい、循環し、全体として一つになっています。自然も調和した一体共生の世界なのです。

「調和した」という考えに対する異論もあります。例えば、ライオンが鹿を食べるのは弱肉強食の残酷な事実であり、地震や洪水などの自然災害を見れば、自然は調和しているとはとは言えないと言うのです。しかし、それは、人間の勝手な都合で物事をアタマで部分的に皮相的に見た相対的見方にすぎません。自然の実相も調和した共生世界なのです。

植物と動物
 もう少し詳しく自然について考えてみましょう。例えば、植物は空気中から吸収した二酸化炭素と根から吸い上げた水を光のエネルギーによって光合成をすることによって体の成分を作ります。同時に、植物は酸素を作り空気中に放出します。その植物を、例えば、鹿などの草食動物が食べます。それらの草食動物をライオンなどの肉食動物が食べます。

動物は呼吸によって、植物が放出した酸素を吸収し、同時に二酸化炭素を作り空気中に放出します。それを植物が光合成のために使います。動物の吸収した酸素は食べた食物の分解や消化、あるいは、活動のためのエネルギーを作るのに使われます。動物の体からの排泄物や、動物の死んだ体は微生物の食べ物として分解されて、結局は土や大気の中に分散されていきます。

土の中に分散していった成分は植物の養分となります。植物自体も枯れて死んだら、微生物に分解されて、再び土壌に戻り、次なる植物の養分になります。同時に、空気中にも成分が分散されていきます。空気中に分散されたいろいろの成分は、大気の循環によって、事実上、世界中を循環し、地球のあちこちで再び、土や植物や動物に吸収され、また別の循環経路に入っていきます。


水についても同じように、川、池、湖、海、雲、雨、雪などの間の循環だけでなく、植物や動物の体の成分となったり、またそれが体外に排泄されて、結局、川に入っていくなど、その循環は想像を絶するほど複雑な経路をたどります。

要するに、大自然も人体と同じで、それを構成する要素はいろいろなレベルのものが無数にあります。そして、そのすべてが「なくてはならない存在として」互いに補い合い、支えあい、循環し、調和して、大自然という一つの大きな生命が維持され、活動しているのです。このように、まさに、大自然は不可分一体の世界なのです。

不可分一体の相似象の世界
 このように観察してみると、この世の中にあるものは相似象的に作られているのではないでしょうか。「相似象」という言葉は聞き慣れない言葉かもしれませんが、簡単に言えば、「いろいろな現象のパターンが共通である」という意味です。

人体について説明したように、この世界にあるすべてのものは、それぞれのレベルでその構成要素のすべてが自然の法則、あるいは、宇宙の法則に従って、関連しあい、作用しあって、補い合い、協力し合って、循環しながら、全体として調和した一つの宇宙である、一段階上部の要素を形成しています。つまり、あるレベルの構成要素の一つ一つが一体となって、一段階上部の不可分一体の「一つのいのち」を生きていると言えるのではないでしょうか。そして、一段階上部の構成要素が集まり、同様にして、さらにもう一段階上部の構成要素を形成していっています。

動物や植物、あるいは微生物の生命の構成要素(世界)である、細胞、組織、器官、体全体、そして、自然、そして宇宙の姿を素直に見てみれば、そこに明らかに相似象が見て取れるのではないでしょうか。端的に言えば、元々、すべてはバラバラではなく不可分一体なのです。そして、人間あるいは人間社会以外のすべての存在は、法則に従って動き、循環し、関連しあって調和しているのです。


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2008年12月5日金曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (後編-3)

大脳の発達がもたらしたもの
 これまで繰り返し述べてきましたように、人類社会は今やいろいろな面において行き詰っています。では、その根本の、さらに根本の原因は何かと考えると、人類を他の動物から最も際立たせている特徴、すなわち、発達した大脳であると言えるのではないかと思います。発達した大脳の働きにより、バラバラ観、科学的で合理的な考え方、そして、エゴイズムも出てきます。

 私たちの宇宙には無数の星や星雲などがあります。それらは実に規則正しく運行し、互いに循環しながら見事に美しく調和しています。また、自然界では無数の鉱物、微生物、植物、動物、太陽、月、水、空気、川、海、空、雲、雨などが互いに循環し、補い合いながら、これまた見事に調和しています。

本能だけで生きている動物は、自然の中で周りの環境と一体となり調和して生きています。ライオンが鹿などの草食動物を食べるなど、一見、弱肉強食の世界であるかのように見えることもあります。しかし、それは表面的な観方であると言えましょう。ライオンはお腹が一杯の時には、鹿などには目をくれようともしません。必要以上には食べないのです。また、鹿などの草食動物は、もし、ライオンがまったく食べなければ、数が増えすぎて自ら滅びてしまうと言われています。鹿などの草食動物の生存と繁栄にライオンなどの肉食動物の存在が不可欠なのです。さらに、ライオン同士が大量に殺し合いをすることなど絶対にありません。そうなれば、すべてのライオンが絶滅してしまうでしょう。このように、本能だけで生きている動物は、自然の中で周りの動物や植物、そして、環境と一体となり調和して生きています。

それに比べて、発達した大脳を持つ人類はどうでしょうか。目先の都合や欲望によって、自分が食べる食物や飲み水に毒を入れ、自分が吸う空気を自ら汚染し、生きるのに不可欠な自然環境を汚染し破壊しています。そして、同じ人類同士が大量に殺し合いを続けています。このように見てくれば、人類全体の生き方が根本的に変わらなければ、いずれ人類が絶滅することは明らかではないでしょうか。

 これは私だけの妄想ではありません。世界的の知識人の中には、このままでは人類は近いうちに滅びるのではないかと言っている人が結構多いのです。明らかに破滅の方向に向かっていると言うのです。しかし、これらの方々も「何とかしなくては」ということは言っていますが、「どうしたら破滅から救われるのか」という具体的方策は誰も言っていないようです。

生物は何十億年もかかって単細胞から人類まで進化してきました。そして発達した人類の大脳は確かに他の動物との生存競争においては大いに役に立ったと思います。しかし、今や人類は発達した大脳を持つがゆえに、決定的とも言える行き詰まりに直面しています。もはや、これまでの考え方の方向性、あるいは、同じ次元の上でいろいろと工夫しても、この行き詰まりを超えることは不可能だと思います。この人類史上かつてない危機を乗り越えるためには、これまでの人類社会の進歩(?)の方向性を根本的に変える新たな考え方、すなわち、従来の発想の次元を超えた新しい発想が必要なのです。

果たして人類は次の進化の段階はありうるのか  
ある意味で、ここまで人類社会が進歩してきたことは認めるにしても、今や人類社会は決定的な死に至る病の末期症状の一歩手前にあると言ってよいでしょう。
では、果たして人類の次の進化の段階はありうるのでしょうか。それとも、ここが人類の進化と歴史の終点なのでしょうか。そういう段階に私たちは立ち会っています。宇宙の歴史の中でも、地球の歴史の中でも、生物進化の中でも、人類の歴史の中でも、私たちはそういう特殊な歴史的な時代、あるいは瞬間に立ち会っているのです。

私自身は、確かに、人類はここまで行き詰っていますが、これが人類の進化と歴史の終点ではなく、今の時代は次の段階に移る一歩手前の段階だと考えています。私はいくつかの事実からそのように考えているのです。
過去の自覚を得た人、すなわち、聖賢の方々の体験を記録した本を読みますと、自覚にいたるまでに、ほとんどの方々がほぼ共通な過程を辿っているようです。こころの苦しみの超克、あるいは、本当の生き方を真剣に求めに求め、ついに行き詰って、散々もがいた果てに真実の世界を発見しています。
これは一例ですが、似たような事例はたくさんあります。個人的にも社会的にも、どうしようもなく行き詰った時に、そこに至るまでのことを徹底的に反省して、逆にそこから見事に脱して、大きく飛躍することができたということは往々にしてあります。

また、多くの病気はこころの使い方や生活のあり方の間違いによって生じ、悪化してゆきます。しかしながら、手遅れにならない限り、散々その病気によって苦しんでも、もし、それだからこそ、これまでのこころの使い方や生活のあり方を反省する気持ちが起これば、それらの根本的な間違いに気づくことができるでしょう。そうすれば、その間違いを正すことによって、かならず病気を治し、健康体になることができるはずです。
このように、病気になることによって、正しいこころの使い方、生活のあり方に気づくこともできるのです。簡単に言えば、よほど素直な人は別として、多くの人間はどんなに大切なことであっても、本当に切羽詰まらなければ、本気になって考えようとはしない、とも言えるのではないでしょうか。

(もちろん、まだまだ大丈夫と思っていて、気が付いた時にはすでに手遅れということになります。また、こころの使い方や生活のあり方の間違いによって生じ、悪化している病気を、それを反省し、正すことをしないで、病気は他人である医者や薬によって治るものと考えていれば、そのことによって、一時的に病気が治ったとしても、いずれ再発したり、何らかの形でさらに質(たち)の良くない病気として現れてくる可能性は大きいでしょう。根本の原因を取り除くことをしなければ、根本的に病気が治ったとは言えません。)

人類社会の行き詰まりの意味
これまで述べてきた例と同じように、私は、人類社会も本当に行き詰らない限り、特別に素直な方々は別として、私たちはなかなかその事実に正面から向き合い、本気で考えようとしないようになっているのではないかと思います。逆に言えば、今の行き詰まりがあることによって、私たち人類がその事実に正面から向き合い、それを乗り越えようとするなかで、真実のあり方に気がつき、そして、底力を発揮することができるのだと思います。つまり、このままではいけないという絶体絶命の境地に立った時、私たちは文字通り本気になれるのだと思うのです。そして、本気になった時に、これまでの間違いもはっきりと自覚できて、同時に、それを越えるための次元の異なる発想が湧き出てくるのだと思います。

(もっとも、「自分にはできない」あるいは、「自分がやることではない」などという諦めや無関心の方もいらっしゃることも事実です。それこそ仕方がないことかもし、れません。しかし、もし、「自分にもできる」ということであれば、どうでしょうか? 私は「このような時代に生きているからこそ、自分にも、あなたにもできる」と申し上げたいのです。)

宇宙は進化し続けている
これは逆に言えば、この宇宙が人類に与えた試練というよりも、人類が本当のことに気がつくための絶好のチャンスを与えてくれる、とも言えるのかもしれません。宇宙の仕組み自体がそういうものではないかと思います。
この宇宙はビックバンによって始まったのだそうです。最初は物質が生まれ、それから生命が誕生して、最終的に人類が誕生していくわけです。これから述べることには異論があるかもしれませんが、その進化の様子を少し大きい目で全体的に見ていきますと、生物が飛躍的な進化をするという時期があるのです。その飛躍的な進化がどういう時に起きているかというと、必ずその前に、そのままではもう絶対やっていけない。絶滅だというような絶体絶命の危機に直面しているのです。そのような時に、なぜかその危機を超えて大きな飛躍的進化が起こっています。そして次の進化の段階に進んで行くのです。

この宇宙には、地球と言ってもよいのですが、はじめは「物質」だけが存在しました。そこに生物が誕生しました。それが植物や動物に分かれます。ここでは人類の進化の過程を考えるので、動物について考えましょう。動物が進化していく中でついに類人猿が生まれます。そして、類人猿のあるものが人類に進化したと言われています。
しかし、私は、恐らく類人猿までの動物と人類というのは次元が決定的に違うのだと思います。それはどういうことかと言いますと、例えば動物は物質でできています。しかし、動物は物質であると同時に、物質とは次元の異なる要素「生命」を持った存在です。それと同じように、人類は物質であり、動物であると同時に、次元の異なる要素「こころ」を持った存在であると言えるのではないでしょうか。

人類は動物とは次元を異にする「こころ」という要素を持っています。それは単なる知的生命という意味でもありません。もちろん、人類は動物の中から進化して生まれてきたことは間違いないのですが、私は人類を単なる動物の一種であると考えていません。
もちろん、従来の常識どおりに、人類を類人猿に属する動物であると考えてもよいのです。私が言いたいのは、たとえそうだとしても、人類は「こころ」を持つ非常に特殊な存在であるということです。

宇宙はどこに向かって進化しているのか
私は宇宙というのはある一定の方向に進化していると思います。なぜそう思うかというと、この宇宙の外に宇宙はありません。ですから、宇宙の外から何か力を加えられていることはないのです。したがって、最初のビッグバンによる力によって、あるいは、ビッグバンを引き起こした何かの力だけによって、宇宙はある一定の方向に進み続けているということです。これは単なる物理的な力や方向だけでなく、宇宙の「内容」もある一定方向に進み(進化)し続けているということです。

では、物質・生物(動物)・人類という進化(簡単に、「生物の進化」と言っても大筋では違わないのかもしれませんが・・・)は、最終的にどんな方向に向かっているのでしょうか。私は、単に生物が生存して、その数が増えていくということだけが生物進化の方向ではないと思います。もし、生存がより確実で数が増えていくということだけが進化の目的であれば、人類よりも昆虫の方がよっぽど成功しています。そして、昆虫よりもバクテリアの方が成功しています。

つまり、単細胞生物であるほうがよっぽど安定していたというわけです。では、なぜ、そこから多細胞生物になり、より複雑な生物が誕生してくる必要があったのでしょうか。私は、生物進化の方向はダーウィンが言うように生存や数だけを確保していくというよりは、その中に、最終的には「自覚を持った存在」を創り出していく方向にあるのではないかと、推察しています。

これから述べることは私の仮説ですので、そのつもりで聞いていただきたいのです。動物の世界は完璧に調和した世界です。彼等は大脳がないために、本能だけで生きていけます。その本能というのは自然の法則(あるいは、宇宙の法則)に沿っています。ですから自然や周りの動物や植物と調和して生きているのです。ただ、動物にはそれを自覚する能力はありません。ただ調和して生きているというだけです。

私は、擬人化して言えば、恐らく宇宙は、「この宇宙はこういう宇宙なのだ」「自分は何者だ」ということを「自覚する存在」を自分自身で生み出したいのではないかと思います。

すでに少なくとも何千年も前から、お釈迦様をはじめ幾多の先人、聖賢が「真実の世界」と「真実の自己」を見出しています。こういうことを考えると、人類が単なる動物の一種であるとは思えないのです。宇宙はある方向へ進化し続けており、気の遠くなるような長い進化の過程を経過して、ついに「こころ」を持った人類が登場し、その中からまだまだ数は少ないとしても、「自覚する存在」が生まれてきているということだと思います。とすれば、その進化の方向の先にあるのは、もっと多くの「自覚する存在」が生まれてくるということでしょう。そして、さらにその先にあるのは「全人類が自覚する存在」になるということではないかと思われます。

もちろん、宇宙の意思というのは誰にも分からないと言われれば、それまでです。しかし、私は私自身の体験から、本当は一人一人が頭での操作ではなく、自分の心を澄ましていけば、この宇宙の意思は自分の奥にちゃんと感じられるのだと思うのです。
このように言えば、それは難しいと言われるかもしれません。しかし、そう言いながらも、多くの方が「自分は何のためにうまれてきたのか」「自分とは何か」「この世界とは何か」というような疑問を一度ならず持ったことがあると思います。その疑問を抱いた自分というのは、結局、宇宙の進化の結果生まれてきたということを考えれば、それを単なる気まぐれや思いつきとするよりも、宇宙の意思は「自覚する存在」を生み出すことにあると言っても、可笑しくないのではないでしょうか。

「なぜ」と「何のために」
では、「万物の霊長」と言われ、進化の最高段階にいる人類がなぜ自分を苦しめ、他を苦しめ、欲望に振り回され、醜い争いをしているのか、どうして、今ここまで行き詰っているのでしょうか。人類はこれまでに素晴らしい文化を創り出してきました。また、人類の歴史の中には、そして、私たちの日常の生活の中にも、素晴らしい人間性や人間愛が発露する場面が多々あります。しかし、一方では、苦しみと破滅への流れを確実に辿っています。その原因は発達した大脳があるためである、ということは前に述べたとおりです。

「なぜ」こういうことが起きるのか。この「なぜ」という言葉を私は次のような意味で使っています。例えば、熱が出ます。「あ、熱が出ちゃった」と思います。普通は熱は悪いものと考えて薬を飲んだり、お医者さんに注射を打ってもらったりします。何もしないという人もいるでしょうが、熱は悪いもの、風邪は悪いものと私たちの多くは思ってきています。

ある時期まで自分もそう思っていました。ところが、ある時ふと、「人間は何のために風邪を引くのか。何のために熱が出る必要があるのか」と考えました。「なぜ」というより「何のために」というふうに問いを変えたら、「風邪は自然治癒力の一つである。自分の体を調節し、不都合なところを治すために熱が上がる必要があるのだ」という全く正反対の結論が出たのです。
その後、野口整体の創始者である野口晴哉先生の『風邪の効用』という本を読んで、自分の考えが正しいことが確認できました。疲労が蓄積したり、体の歪みなどによって体の機能が落ちてくると、体の疲労や歪みを正そうとして自然治癒力として風邪を引く。熱は悪いものと考えて、せっかく上がった熱を無理やり下げれば、かえって自然治癒力自体の働きを妨げることになるのです。つまり、風邪は悪いものではなく、必要があって引くのだということです。

それと同じように、人類は「なぜ」自他を苦しめているのか。「なぜ」と考えると、発達した大脳があるから、国家エゴイズムの対立があるから、という答えが出てきます。しかし、人類は「何のために」自他を苦しめ、破滅に向かっているのか。このように、あえて「何のため」と考えると、今まで見えなかったものが見えてくると思うのです。

苦しみと行き詰まりの意味するもの
前にのべたように、釈迦をはじめとする多くの聖賢たちは、文字通り、切羽詰って、もうこれ以上どうすることもできない、という危機的状況において、奇跡的に、「存在の真実」の自覚を得ています。また、生物進化の歴史を概観すると、飛躍的な進化は絶対的な危機に直面することを契機として起こっているようです。絶対的な危機的状況を乗り越えるためには、次元の異なるほどの新しい形質や機能を獲得する必要があったのでしょう。

人類が誕生したきっかけも同じような危機的状況を契機としています。人類の先祖はチンパンジーのようなサルだったと言われます。気候の急激な変動によって、そのサルたちが住んでいた森がしだいに消失していきます。そして、ついに、そのサルたちは何百万年、何千万年も住み慣れた安全な森の中の安全な樹上の生活を離れて草原に出て行かざるを得なくなりました。それによって、本格的な二足歩行が始まり、それに付随して、急速に大脳が発達していったと言われています。二足歩行や大脳が急速に発達するためには、当然、飛躍的な形質や機能を獲得する必要があったはずです。

これらの現象を偶然によるものとするのか、それとも宇宙、あるいは、生物の進化の仕組みとして必然と捉えるかは意見の分かれるところでしょう。しかし、私はそれは進化の仕組みとして組み込まれているのではないかと考えています。その根拠としてはいろいろと挙げることができますが、宇宙や大自然の見事に調和した姿を見ると、それをもたらしている力、あるいは、法則が偶然に存在しているとはとても思えないからです。もし、そうであるならば、その力、あるいは、法則が生物の進化の仕組みに組み込まれていないはずはないと思うのです。

現代の危機を超える力
このように考えてきますと、現代の人類社会の危機的な状況にも一つの大きな意味があると思えてくるのです。繰り返しになりますが、この人類社会の危機の根本原因は、発達した大脳による「自他をバラバラと観る」バラバラ観、バラバラ観に基づく科学的思考法、そして、それらから出てくるエゴイズムによるものです。簡単に言えば、「存在の真実」を正しく観ていないためだと言えます。

人間は何のために苦しんでいるのか。誤解を招く言い方ですが、ある意味では、人間は必要があって苦しんでいるのだと思います。また、逆接的な言い方ですが、私は、人間は徹底的に苦しまなければ、本当のことに気がつかないのではないかと思います。こう言ったとしても、決して苦しみを肯定するという意味ではありません。そうではなく、逆に、本気で苦しみを乗り越えようとして、その苦しみの根本的な原因を探り出し、それを解消することによってこそ、すべては不可分一体であるという「存在の真実」を自覚して、苦しみを乗り越え、真実の人生を生きることができるのだと思います。

人類社会全体についてもまったく同じです。このかつてない人類社会の危機的状況に直面することによって、本気にそれを乗り越えなければという方々が世界中から現れてきます。本気になれば、当然、一時的、あるいは、部分的な解決でよし、とすることはありません。本気になって乗り越えようとすれば、当然、根本的な解決を目指さなければならない、という考えに達します。そうなれば、この危機の根本原因を探り出し、それを取り除くことによってしか、この危機を乗り越えることはできない、ということに思い至るでしょう。
このような過程を経て、根本原因である「バラバラ観に基づくエゴイズム」を探り出し、その原因を解消する新たな方策が打ち出され、実行されることによって、この危機を根本的に乗り越えることができるのだと思います。こうして「存在の真実」に対する人類の全体的な自覚のレベルがアップしてゆきます。
(環境破壊や戦争によって人類が破滅する可能性は一応なくなるでしょう。しかし、すべての人類が自覚を得るまでには、長い年月がかかるでしょう。そして、戦争などの大きな争いは起こらなくなるとしても、小さな争いや個人的ないざこざなどは、まだまだ続く可能性はあるでしょう。)

人類は進化している
しかし、いったん、人類社会全体の進む方向が「存在の真実」を基盤とする方向に定められたならば、その時にこそ、「存在の真実」に基いて、大脳が正しく使われて、新たな科学技術が生まれるのだと思います。また、急激に社会体制も「存在の真実」に沿ったものに変革されていきます。そうなれば、人類は何千年、何万年の長い「バラバラ観」という迷いから覚めて、人類の全体的な自覚のレベルが急速に上がっていくことが予想されます。
このような経過を経て、すべての存在は不可分一体であるという「存在の真実」を新しい方向性とする新しい人類社会が生まれるのだと思います。進化ということから言えば、自覚を得た人類、すなわち「新しい人類」が続々誕生してくることになるでしょう。

人類はその進化の方向として、自ら本当の真実の姿に気がついて、全ての万物と調和して生きていくためにも、「何のために私たちは今こんなに苦しんでいるのか」ということを、今こそ痛烈に自己反省する必要があります。
では、宇宙は、間違いを犯しやすい発達した大脳を持った人類など創らないで、本能だけで自然万物と調和していける動物を進化の最終段階とすればよかったのではないか、という考えもあると思います。しかし、私は、前に述べましたように、宇宙は自然万物と調和して生きる「自覚する存在」を創りたい。そのためにこそ、わざわざ、間違いを犯しやすい発達した大脳を持った人間を生み出したのではないか、と思うのです。

人類社会未来に光を見る
「陰極まって陽に転ず」という言葉がありますが、実は、陰が極まる以前の段階ですでに陽に転じはじめるのではないでしょうか。今行き詰っている世の中をよくよく観察してみると、世界のあちこちで、必ずしも宗教者だけでなく、名前の知れた知識人だけでなく、ごく平凡な市民、会社員や主婦の中から段々新しい生き方をしなくてはいけない、という人たちが段々増えてきています。

私の進化の仮説が正しければ、この人類社会未曾有の危機に直面することによって、宇宙の進化の仕組みに沿って、必然的に世界中のあちこちに、不可分一体の「存在の真実」に気がつき始めた人々、そして、それを基にした、まったく新たな考え方が続々と生まれてくるのは当然のことである、と思うのです。(その意味では、現在の行き詰まりの状況について、できるだけ多くの方々がその事実を知るということが何より重要だと思います。)

「日本に脱エゴイズム国家の理想を掲げよう」という考え方は、その中の一つだと思うのです。私自身は、この考え方は今の段階ではこの人類社会の危機を根本的に乗り越えるためのもっとも有効な考え方だと思っています。現行日本国憲法は、従来とはまったく次元の異なる発想から出た「脱国家エゴイズム」憲法です。私の考え方は現行日本国憲法発想の基盤とまったく同じです。その現行日本国憲法の精神を能動的に解釈し、積極的に活かしていこうというのが、「日本に脱エゴイズム国家の理想を掲げよう」という私の提案です。

しかし、病気の例でお話ししましたように、もし、私たち一人一人が、事実をよく知らなかったり、知っていても何とかなるだろう、自分には関係のないこと、自分には何もできない、そうなるのは仕方のないことなどと、無知や根拠のない楽観主義や無関心、悲観主義などに陥っていれば、そのうちに手遅れになりかねません。そうなれば、この宇宙が生んだ大傑作である人類は、結局、異常に発達した大脳を持つ「狂ったサル」でしかなかったということになるでしょう。
しかしながら、私は決して無知の楽観論ではなく、人類の未来に大きな光を見ています。それは、私は人間というものは最終的に信頼するに値する存在だと確信しているからです。(終り)
 

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2008年10月11日土曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (後編-2)

諸問題の解決を妨げる国家エゴイズム
 現在まで世界のほとんどの国で、国の全体のあり方・行き先をコントロールし、リードしているのが国家のエゴイズムです。
 また、例えば、環境問題に関する世界的な会議が度々行われています。しかしながら、それぞれの国が国家エゴイズムに基づいて、いかに自国に有利に持っていくかということに主眼を置いています。そのため各国家間の対立や、駆け引きにより、本当に望ましい成果は上っていません。

 ヨーロッパは比較的環境問題に積極的に取り組んでいます。問題なのは経済大国であるアメリカと日本です。両国とも態度が消極的で、出来るだけ経済的な利益を優先するという姿勢を未だに崩していません。また、中国やインドは、自分たちはまだ発展途上国にすぎないのだから、まずは先進国がきちんとやって欲しいと、これも後ろ向きの姿勢をとっています。 
 結局は各国間の対立と駆け引きです。それはどこから出てくるのかと言えば、自分の国さえ良ければいいという国家のエゴイズムを基本の政策としているからなのです。

 それぞれの国は表面的には国際協調が大切だと言っています。ある部分では、そうあるべきだとは思っているのかもしれません。しかし、本音の部分では、つまり、行動の規範、そして、行動の事実としては、世界の主要な国々の政策は国家エゴイズムに置かれているのです。この点が私の本「国の理想と憲法」でもっとも強調しているところです。

国家エゴイズムが個々のエゴイズムを増幅する
 それに加えて、国家エゴイズムによって、個人や企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても物質的欲望が増大し、企業間の競争が激しくなります。それとともに、科学技術文明が急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、逆に科学技術を進歩させます。こうしたことの総合的な結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているということなのです。

「国の理想と憲法」の要旨
 すでに読まれた方もいらっしゃると思いますが、あらためて「国の理想と憲法」の要旨を述べてみたいと思います。

集団エゴイズムから国家エゴイズムへ
 人類は誕生の初期の段階から、安全と自衛のために集団を形成し、それを行動の単位としてその中で生きてきました。そして歴史のある段階から、自分の属する集団の繁栄のために一生懸命働き、自分の属する集団が危急存亡にあるときには、集団の生き残りのために命を賭けて戦ってきました。

 最初は安全と自衛のためだったのでしょうが、より確かな安全と自衛を求めて、他の集団を征服・支配するようになっていきます。その結果、集団の規模は小グループから大グループ、小部族から大部族、小国家から国家へと集団の規模が大きくなっていきます。そして、現在の国際社会では国家を行動の単位としています。

自国の繁栄と生き残り

 この長い歴史の間、集団の根本方針は、一貫して、まずは自分の属する集団さえよければという集団エゴイズム、つまり、自分の属する集団の「繁栄と生き残り」というところに置かれていました。その結果、現在の国際社会でも、それぞれの国の根本方針は、まずは、自分の国さえよければ、つまり、「自国の繁栄と生き残り」というところに置かれています。この「自国の繁栄と生き残り」という根本方針は長い人類の歴史の中で一貫して変わらないものであり、ほとんどの人々にとって、いわば、公理として疑いの余地のない自明のこととされてきました。

行き詰まりの根本原因
 しかしながら、現代の行き詰まりの根本原因を徹底的に探っていくと、その原因はこのいわば公理とされてきた「自国の繁栄と生き残り」、つまり、国家エゴイズムに基づく各国間の対立にあると言えるのです。歴史的に見ると、国家エゴイズムに基づく各国間の対立によって、戦争の規模がどんどん大きくなり、それに伴い、科学技術が発展し、より強力な兵器が開発されてきました。同時に、生産活動や経済活動などが促進され、それらの規模がどんどん大きくなっていきました。 
 
 それでも、それらの規模がそれほど大きくないときには、もちろん、いろいろな問題が生じましたが、問題の深刻さや大きさはまだ余裕がありました。しかしながら、今日では、生産活動や経済活動の増大、核兵器を初めとする大量破壊兵器の開発、あるいは、科学技術の進歩など、によるいろいろな弊害が地球規模にまで膨らんでしまい、そのもたらす問題の深刻さや大きさは、すでに地球や人類の耐えうる限界を超えてしまったのです。あるいは、少なくとも、限界を超えようとしている、と言ってよいでしょう。

行き詰まりを根本的に解消するためには
 この人類社会の決定的な行き詰まりは小手先の手段や方法では絶対解消できないでしょう。行き詰まりを根本的に解消するためには、
 人類社会の進歩(と言ってよいのかわかりませんが)、進んでいる方向を変えるしかありません。今日までの人類社会を進めてき、リードしてきたものは国家エゴイズムに他なりません。国家エゴイズムが原動力となって、今日まで人類社会は進んできたのですから、この人類社会の決定的な行き詰まりを解消するためには、すべての国がその原動力である国家エゴイズムを放棄する以外にはありません。

どうすれば国家エゴイズムの対立をなくせるか
 しかしながら、すべての国が国家エゴイズムを放棄するといっても、みんなで話し合って一斉に放棄するということは不可能です。それこそ、各国のエゴイズムによる疑心によって駆け引きだけに終わるということは、これまでの軍縮会議や世界的な環境会議、国連の会議などの有様を見ればあきらかです。
 すべての国が国家エゴイズムを放棄して、新しい世界を創るためには、どうしても、まずある一つの国が自発的に率先して国家エゴイズムを放棄することから始めなければなりません。

 その国の新しい姿を見ることによって、他の国々でも国の本来あるべき姿に気がつく人々が増えていくでしょう。そうして、それぞれの国で国家エゴイズム放棄への気運が高まっていくと思います。 そのうちに、最初の国に続いて、国家エゴイズムを自発的に放棄する国が出てくるかもしれません。
 そうしているうちに、国家エゴイズム放棄への気運が世界各国でどんどん高まり、ついには各国一斉に国家エゴイズムを放棄しようということにもなるでしょう。

どこの国が最初に国家エゴイズムを放棄するか
 問題は、ではどこの国が最初に国家エゴイズムを放棄すればいいのか、また、国家エゴイズムを放棄するということは具体的にどういうことなのか、ということです。
 私は、最初に国家エゴイズムの放棄を率先して放棄する国は日本であるべきだと考えます。その理由は、そもそも国家エゴイズムの放棄は他国に要求するものではないからです。他国にそれを要求すること自体がエゴイズムに他なりません。したがって、この考えが発生した私たちの国・日本がまず率先して国家エゴイズムを放棄するのが筋であり、正道だと思うのです。

平和憲法は「脱国家エゴイズム」憲法
 それに加えて、日本には世界各国に先駆けて国家エゴイズムを放棄するのに都合のよいくつかの条件に恵まれています。その中でもっとも大きな条件は、日本に世界唯一の「国家エゴイズムを放棄した憲法」があるということです。
ご承知の通り、第9条により現行日本国憲法は平和憲法と呼ばれています。読んでみましょう。

[日本国憲法 第九条]
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊は明らかな憲法違反
 このように、第9条は「戦争の放棄と戦力の不所持」を宣言しています。ちなみに、自衛隊は明らかな憲法違反です。しかし、当時の政府は、自衛権は国際法でも認められている当然の権利であるので、自衛のための戦争とそのための戦力の保持は認められるとして自衛隊を認めさせました。

 もちろん、日本に自衛権は当然あります。しかし、自衛権と自衛のための武力による戦争とはそのままイコールではありません。自衛には武力や戦争によらない自衛の仕方、例えば、積極的な外交政策などによる自衛の仕方もあるからです。

 自衛ということについて言えば、第9条は「自衛権は当然あるが、日本はあえて武力による自衛のための戦争を放棄する」と言っているのです。もし自衛のための戦争や戦力の所持をみとめるのであれば、当然、第9条には「自衛のためには、さにあらず、武力を持って戦う。」というような文言が付け加えられているはずです。つまり、第9条は「日本は自衛のための戦争を含め、一切の戦争をしない。したがって、一切武力は持たない。」と言っているのです。

前文に国家エゴイズムの放棄が書かれている
 この第9条は人類史上においても本当に素晴らしい画期的な宣言です。ただ、これだけであれば、「戦争はしたくないので、一切戦争はしない。だから武力も持たない」と言っているだけです。これだけでは、完全な国家エゴイズム放棄の宣言とは言えません。

 国家エゴイズムの放棄は前文に書かれています。憲法の前文は単に美辞麗句を並べただけのお飾りではありません。憲法の根本的姿勢を述べているのですから、とても重要なのです。では、前文を読んで見ましょう。

[日本国憲法 前文]
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

前文の意味は
 この前文は意味があいまいだという方もいますが、決してそうではありません。素直に読めば意味は大変明瞭です。
最初の部分は「国民主権」の宣言です。これはとても大切なことです。終戦までの「国家主権」を根本的に否定するものです。国民主権という意味は、国家が国民に命令したり、押し付けるのではなく、国民が国家を主導する権利を有するということです。同時に、これは、二度と国家によって、国民が無理やり戦争に引きずり込まれないようにすることが一つの大きなネライです。

  その後の部分を少し整理・解説してみると、次のようになります。
  「日本国民は恒久の平和、つまり一時的でなく、本当の平和を念願する。そのために、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意した。そしてまた、われわれは、永遠の世界の平和と人類の幸福を実現しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。そのために、平和的な手段によって、世界の様々な深刻な問題の根本的解決に貢献する。本来、すべての国は自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないのである。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」

前文と第9条をまとめると
 この前文と第9条をまとめると、次のようになります。
 「私たちは恒久の世界の平和と人類の幸福を念願します。そのために、自分の国さえよければいい、という国家エゴイズムを放棄し、世界の諸国民の飢餓や貧困などの解決とその繁栄のために、国家をあげて全力で努力し、世界の国々にとって、なくてはならない存在になります。そのことによって私たちは、国の平和と存立を図ります。また、平和的な手段によって、世界の平和と繁栄に国をあげて貢献することによって、国を守ります。したがって、一切の武力を持たず、自衛のための戦争を含めて一切の戦争を行いません。」

 これは人類史上初めて、そして唯一の画期的な躍動感あふれる国家エゴイズム放棄宣言です。これはとても大切なことです。現行日本国憲法の平和宣言は、第9条で「戦争の放棄と戦力の不所持」を言っているだけではないのです。前文ではさらに踏み込んで、われわれは、自国のことのみに専念しないで、世界の平和と人類の幸福を実現するために、全力で平和的手段によって国際貢献する。そして同時に、そのことによって、国の安全を確保する、と宣言しているのです。

 しかし、一般的に、前文の意味を充分には理解されていない方が多いように思います。もしそうであれば、ぜひ、前文と第9条を繰り返し読んで、理解を深めていただきたいと思います。

日本が脱国家エゴイズム憲法を持っている意味
 憲法は国の根本法規であり、根本政策です。日本がこの脱国家エゴイズム平和憲法を持っているという事実は、世界の国々のなかで、日本が実際に、国家エゴイズムを放棄できる条件にもっとも恵まれているということです。

 しかしながら、日本は憲法発布の後、国も国民もこの脱国家エゴイズムの憲法の精神に沿って具体的な努力をしてきませんでした。前文はただのお飾りになり、また、第9条の真意を無視して、現在では世界有数の軍隊を所持している始末です。もっとも、現在まで第9条が集団的自衛権の行使への歯止めになっていることは評価できます。しかし、それも現在では徐々に崩されかけています。

平和憲法は積極的に活かさなければならない
 平和憲法を守ることは、もちろん、とても大切です。しかし、それだけではダメだと思います。守ろうとするだけでは受身であり、いずれ徐々にすべてが崩されてしまいます。私は平和憲法は積極的に活かさなければならないと思うのです。それで初めて本当の平和憲法になるのだと思います。

 では、平和憲法を積極的に活かすということはどういうことでしょうか?それは、前文と第9条の精神に基づいて、国も国民も共に具体的に政策その他を全力をあげて実行するということでなければなりません。

具体的政策として全力で実行する
 今日、私たちは地球的規模の環境破壊、発展途上国の貧困と飢餓、そして、戦争や紛争の危機など多くの深刻な問題に直面しています。そのために、日本がいちばん世界に貢献すべき領域の一つは地球環境問題であり、もう一つは途上国の貧困対策など国際的な福祉問題だと思います。戦争や紛争に関しては、日本は決して武力を持って直接介入すべきではありません。日本は他国の紛争や戦争に絶対巻き込まれないようにしなければなりません。そして、戦争や紛争の早期停止のために、国連や各国と連携して努力することです。

 そして、日本がもっとも力を入れなければならないのは、紛争や戦争の根本原因である、国家間の対立関係それ自体の解消を図ることです。日本が従来の国家エゴイズムを放棄し、国力を挙げて世界に貢献する道を選択すれば、国家間の対立関係を緩和する大きなきっかけとなるでしょう。

まったく異なった流れを創る
 繰り返しになりますが、人類社会はいろいろな深刻な問題で、文字通り、行き詰っています。この人類未曾有の危機は、これまでの人類社会の進みの方向性や流れのなかで、いろいろと工夫しても、部分的な解決は望めるかもしれませんが、根本的な解決は不可能だと思います。

 根本的に解決しようとすれば、どうしても、これまでの方向性のなかでなく、まったく異なった方向性、あるいは、流れを具体的な実行によって創っていかなければならないと思います。それが、まず日本が国家エゴイズムを放棄するということです。

「国際環境平和国家」を目指す
 具体的には、まず日本が、平和憲法の前文と第9条の真意を積極的に活かし、地球環境問題や途上国の貧困対策など国際的な福祉問題のために国力をあげて貢献するということです。簡単に言えば、日本は、私の呼び方ではありますが、「国際環境平和国家」を目指すべきだと思うのです。

 それは「飽くなき繁栄と生き残り」を根本政策とする、自分さえよければという「エゴイズム国家」から、「他の苦しみを自分の苦しみとして」、その解決に全力を尽くす「脱エゴイズム国家」への転換です。

国に「脱国家エゴイズム」の理想を掲げる
 平和憲法を持っているだけではダメなのです。それを実行する国になることが大切なのです。そういう意味で、日本は、あらためて「脱国家エゴイズム」という理想を国に掲げるべきだと思います。具体的には「国際環境平和国家を目指そう」という理想を国に掲げましょう、ということです。

 日本において、この考えに賛同する方々が増え、この輝かしい理想を掲げる国を目指そうという気運が盛り上がるにしたがって、世界中の平和を愛好する人々は必ず、この人間の真心に根ざした日本の新しい動きを背伸びして見つめるでしょう。そして、これこそが、我(われ)他人(ひと)と共に繁栄する道であることを理解するでしょう。

 そして、それぞれの国においても、脱エゴイズム国家への気運が盛り上がり、それにしたがって、現在までの、国家エゴイズムの対立による国際社会のがんじがらめの緊張体制、あるいは、恐怖体制は急速に緩和してくるに違いありません。
 そうするなかで、世界の深刻な諸問題についても、各国がそれぞれの国家エゴイズムを超えて、真の協力体制の下に根本解決を図ろうという動きが活発になってくると予想されます。
このようにして、人類はこの未曾有の危機をついに脱して、愛と共生をもとにした新しい国際社会・文明を築くことになるでしょう。

本当の生きがい・充実感はあるのか
 国に脱国家エゴイズムの理想を掲げることによって、もたらされる効果は対外的な変化だけではありません。国内においても大きな変化がもたらされます。従来、福祉関係、医療関係、あるいは、教育関係などの分野では自分の仕事や勉強といった個人の努力が、努力の対象となる人の喜びに繋がり、それが努力する本人の喜び・生きがいとなるということはあるとは思います。

 しかしながら、その他の一般の仕事や勉強においては、世の中の進歩のためと思い、どんなに一生懸命努力したとしても、その努力の対象となる人もはっきりとしないばかりでなく、その努力そのものも、この世の中のどこかに吸い込まれていってしまうような感覚をほとんどの方が抱いているのではないでしょうか。

 自分の日常の仕事や勉強、あるいは、生活が自分のため、あるいは、家族のために役に立っているというささやかな充実感はあっても、世の中全体の進歩に確実に繋がっているという実感と充実感、それに伴う人生の真の喜びや生きがいを持っている人はごく一部の方を除いてほとんどいないというのが現実ではないでしょうか。

個人の努力―国家の理想―人類の願い
 それは端的に言えば、日本という国に要となる「私たちが納得のいく理想」が掲げられていないからです。その理想とは、私たちの日常生活での努力が、国内の諸問題の解決に直結し、なおかつ、全人類の危機の回避という人類の願いに繋がるものでなくてはなりません。つまり、必須条件となるのは、「個人の努力―国家の理想―人類の願い」という三つが矛盾せず、繋がり合っているということです。

 私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活がそのまま国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結するような国を創るために、「国際環境平和国家を目指そう」という理想が日本に掲げられれば、私たちの意識は一変するに違いありません。
 この輝かしい国の理想のもとに、私たちはどんなにか生きがいと喜びを感じながら日々の生活を送ることでしょう。そのとき初めて、私たちは日本に生まれた真の喜びと誇りを感じることができるのではないでしょうか。
 以上が私の本「国の理想と憲法」の要旨です。

人間は一体何のために生まれてきたのか
 これはただ私だけの理想論、あるいは、夢物語なのでしょうか。そのように言われる方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、私は、お一人、お一人が「人間は一体何のために生まれてきたのか」ということに静かに、そして、深く思いを寄せていただければ、この考え方は、決して理想論でも夢物語でもなく、世界中の多くの方々に共感していただけるはずだと確信しているのです。

 と言いますのは、この考え方は、本来、私たち人間が持っている、みんなと共に幸せになりたいという真心(まごころ)、すなわち、利他の精神・共生の本能に深く根ざしたものであり、それを社会的な問題に具体的に適用したものだからです。いずれにしても、まず、あなたがこの考え方に賛同していただければ、そこからすべてが始まるのです。(続く)

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2008年10月8日水曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (後編-1)

人類の進化の方向 
ここまで私の生き方や体験についてお話してきましたが、次はこの本「国の理想と憲法」の背景となる人類の歴史などについて、一緒に考えていただければと思います。

地球に生命が誕生して、すでに何十億年か経ちます。最初はウィルスのようなもの、あるいは、単細胞生物が生まれ、そして多細胞生物に進化したようです。その後進化の過程を経て哺乳類が誕生し、最終的に数百万年前に最初の人類が誕生したと言われています。そして今・現在があるわけです。

人類は何を願って生きてきたか
問題はこの長い年月の間、人類は何を願い、また、人類社会はどのような方向に進化してきたのかということです。結論的に言えば、まず安全、便利、快適、高能率などを求めて人類の歴史が刻まれてきたのではないかと思います。それに付随して物質的な豊かさを求めてきたのではないでしょうか。これは安全、あるいは、生存の確保にも繋がります。

その一番の原動力は大脳の発達だと思います。大脳の発達こそが人類の先祖といわれている類人猿、あるいは、その他の動物と決定的に異なっているところだと思うのです。

科学技術への確信
とくに、有史時代、つまり、1万年か8千年前から今日まで、便利、快適、高能率を求めていく努力が段々報われてきました。要するに、科学的な合理性に対する確信のようなものが、地球上にはまだそこまで発達していない人たちもいますが、人類全体に広がってきました。

とくに、18世紀後半からの産業革命から、個人でも国家でも企業でも、便利、快適、高能率を求め、科学技術が優先され、急速に発達してきました。そういう意味で、科学的な合理性に対する確信と科学技術の急速な発達がこれまでの人類社会の一つの大きな特徴だと思います。これは人間と動物と何が違っているのかというときに、どなたも納得される人間の一大特徴ではないでしょうか。

瞬間的に人間が絶滅する可能性
私は便利、快適、安全、高能率の象徴が核兵器だと思います。最近では、タバコなど吸わないというのが、とくにアメリカでは流行していますけれども、タバコを吸いながらボタンをポンと押せば、10分後30分後に何百万・何千万の人間を殺すことが出来るという風刺画が少し前にありました。タバコを吸いながら指1本で何百人を殺しながら、自分は安全なところにいられるわけです。便利快適を求め、そのあげくに、もっとも高能率で、しかも自分は安全でいられる。こういう兵器を人類は開発してしまったわけです。

米ソ間の冷戦状態がもっとも激しかった頃には、地球上の人類全体を何十回と繰り返して殺せるだけの核爆弾が存在し、また、それを敵国に30分以内で打ち込めるミサイルが何千機も米ソ双方にありました。気ちがい沙汰です。科学技術文明の一つの象徴的な事実はそういうことです。これは、瞬間的に人間が絶滅する可能性があるということです。

慢性的に人類全体が滅びる可能性
また一方で、慢性的に人類全体が行き詰まり、滅びる可能性があると思われるのが、皆さんもご存知の、地球規模の環境破壊、人口爆発、食糧、エネルギー危機、原発問題などです。
六ヶ所村の再処理工場がフル稼働しているときに、もし大きな事故が起これば、どの程度の被害が出るだろうかという試算があります。その報告をみて愕然としたのですが、地球上の半分の地域の生物がことごとく死滅するであろうと言われています。六ヶ所だけではなく、フランスの施設でも、ヨーロッパ全体が吹っ飛んでしまうような事故がやっとのところで未然に防げたということがありました。

あまり強調されていませんが、チェルノブイリにしてもスリーマイルにしても、ほんのちょっとしたことから偶然が偶然を呼んで大事故になっています。つまり、どんなに事故防止に努めていても、思わぬことで大きな事故が起こりうるし、事実起こっているということです。そして、いったん事故になったら、とてつもなく大きな犠牲と被害がもたらされます。便利、快適、高能率を求めてきた科学技術文明が結局こういうものを生み出してしまったということです。

さらに教育の問題があります。日本だけでなくて世界全体で教育環境が破壊されています。その結果青少年が大きな精神的被害を被っています。人間的に力がない。若い人には気の毒な言い方ですが、心が歪んでしまった若者たちや子供たちが増えていることが、いろいろな調査で明らかになっています。

このままの方向では
核兵器の問題や環境問題など社会的なのことだけでなく、人間のこころ自体が蝕まれて来ている。このままの方向で、人類社会の進路・方向性を変えない限り、人類社会は本当に行き詰まってしまいます。現在は決定的な行き詰まりの寸前に来ているのではないかと思います。

ではこの行き詰まりを超える道はないのか、これが最も大切なことだと思います。私は偏った科学技術文明の合理性を変えない限りは、この行き詰まり・滅びへの方向は変わらないと思うのです。この考え方を変えないで、こうしたら、ああしたらということでは根本的に何も変わらないと思います。人類は根本的に間違った方向へ進んで来てしまったということです。その結果があらゆる面での行き詰まりとして現れているのだと思うのです。

存在の真実を自覚する
ところが、一方では、すでに2,500年前、あるいは2,000年も前から、釈迦やキリストをはじめ多くの賢人・聖人が、自分が生きることの意味に疑問を持ってさんざん苦しんだ挙句に、「自分とは何か」ということをはっきり自覚した方々がいらっしゃいます。その方たちは自覚を得た後、人間社会・人類の行き詰まりを見通して、それを超える道を自ら歩みながら、同時に人にも説いてきたと思うのです。

「自分とは何か、この世界とは何か」という自覚を体得した人たちが共通して言っていることは、人間社会は決してバラバラの他人の寄せ集めではない。人間だけでなく、全ての生物・無生物も含めて全宇宙が不可分の一体であるということです。人間の五官を通して大脳で判断すると、バラバラに見えるかもしれないけれど、その存在の真実の姿、実相は不可分一体であると言っています。

太陽光線とプリズム
常識的には、バラバラに見えているものが、本来はすべて一つのものであるということは理解しにくいのですが、それは五官を通して見ているからなのです。自覚を得た人たちはその五官を超えたところで観ています。その関係を考えてみますと、太陽光線は無色ですが、そこにプリズムを置くとそれが七色に分かれて見える。七色のそれぞれの色の間にはまたいろいろな色があるのだと思いますが、無数の色に分かれている。
 存在のあり方を私たちの五官というプリズムを通して大脳でとらえれば、バラバラに分かれて見えるけれども、存在のあり方の本当の姿・実相はこの太陽光線が無色であるように、すべてが一つなのだと、このような表現形式になるかと思います。

人間の特徴は大脳の発達
猿ともっとも異なる人間の特徴は、異常とも言える大脳の発達です。大脳は五官を通して認識・判断をします。この大脳が発達しているがゆえに、人間はなかなか本来の実相を捉えることが出来ないということになります。

少なくとも100年くらい前までは、人類の歴史の中で人類が破滅するとか、何千万もの人が死んでしまうというような大規模な戦争はありませんでした。したがって、まだ全体としてゆとりがあったために、多くの優れた賢者、聖人、自覚した人たちの言われることに多くの人々は耳を貸さなかったのだと思います。

これまでの宗教
もちろん、そうではない方々もいらっしゃいました。それらの方々が仏教やキリスト教などの真髄をずっと今日まで繋いで、伝える努力をしてきたということはとても尊いことです。しかし、社会全体としては人々はそれらの声に真剣に耳を傾けてこなかったと思います。せいぜい自分や家族のために健康や家内安全、家族の繁栄を神仏に祈るというような現世利益的なレベルで宗教というものを捉えてきたのだと思います。決してその全部が悪いことだとは思いませんが、仏教の信者、キリスト教、その他の宗教の信者であるという人でも、全体的にはそういうことだったと思います。

宗教の本質に戻る
しかしながら、この人類の行き詰まりを超えるためには、あらためて自覚を得た先人の声、真実の声を聞いて、存在の真実に目を開くしかないのだと思うのです。私たちはそういう時代に生きているのだと思います。この認識がとても大切だと思います。

もう一点は、人類社会の行き詰まりは社会全体の問題であると同時に、一人一人の生き方そのものにも関わっているということです。したがって、自分自身の本当の生き方を明らかにする、つまり、自覚することがとても重要だと思います。

人間観の転換、世界観の転換
そこで必要なことは知識でなくて智恵です。知識というのは大脳による、物事を知って細かく分析するところから出てきます。一方、智恵というのは、物事を総合的に、全体像として真実の姿をとらえることから出てきます。この智恵に基づいて考えること、具体的に言えば、人間観の転換、世界観の転換が今もっとも重要なことだと思います。それは本当のこと、存在の真実の姿を自覚するということです。

要するに、これまでのすべてはバラバラであるという見方に基づく科学的人間観から、すべては一つ、自他不可分一体と観る、いわば、宗教的人間観への転換が必要だと思います。

バラバラ観から生じるエゴイズム
バラバラ観を基にした科学的人間観では、お互いの存在は利害を異にする存在ということになります。そこから必然的にエゴイズムが生まれます。自分さえ良ければ、自分の家族さえ、自分の勤めている会社さえ、自分の国さえ良ければ、ということです。

そして、そこからいろいろな不幸なこと・不都合なことが起きてきます。孤独感、優越感、劣等感などの個人的な悩みやモノやカネ、そして、地位や名誉、あるいは権力などに執着する生き方、個人の間のいざこざ、憎しみ、恨み、奪い合い、企業間の熾烈な競争などが起こります。その結果、環境問題、人口爆発、南北問題、搾取、差別や不平等な所有形態などさまざまな問題が生じます。

国と国との間では、国家のエゴイズムの対立となります。そして、お互いの駆け引きが破れたときには戦争になります。そして、一旦戦争となった場合には、人々は自分の属する国家の生き残りのためという名の下に、命をかけて戦ってきました。少なくとも何十年間か前までは、多くの人々が戦争は仕方がないのだ、人間というのはそういうものなのだというような、諦めの中で生きてきました。

国家のエゴイズムが元凶
いろいろなエゴイズムをもっとも助長・増幅しているのが国家のエゴイズムです。国際社会は国家が単位となっています。エゴイズムの基づく国の基本的な方針は、飽くなき自国の繁栄と、危急存亡の時には自国の生き残りです。この二つを国の基本的な政策として、対外政策だけでなく、国内の教育、産業などの政策が進められているといういうのがほとんどの国家の現実の姿なのです。

自分の属している国自体の方向性がエゴイズムの方向にいっているのですから、国の対外政策はもちろん、その中に生きる個人や企業や産業、教育のあり方なども、当然、国の基本方針、つまり、エゴイズムに大きな影響を受けるということになります。

例えて言えば、京都から東京に向かっている新幹線のどの客席も、一号車も二号車も全部東京に向かっているということです。その中でどんなに自分が大阪に行きたい、京都に戻りたいと思っても、その思いを乗せた新幹線自体がまるごと東京に向かっているということです。逆に言えば、大阪に行きたい、京都に戻りたいと思うのであれば、途中の駅で下車して、大阪や京都方面に行く新幹線に乗り換えなければならない、乗り換えればよいということになります。(続く)

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2008年9月29日月曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (前編-2)

生かされている世界
 先ほど申しましたように、とにかく本当の生き方をしたい、そのためには本当の生き方とは何かを知らなければならないと思いました。そういうことで、もがきにもがいて、簡単に言えば、「悟り」というような言葉なのでしょうが、それを求めに求めました。この崖を登ってこの崖の上に出ることが出来たら、きっとそれが得られるのだと思い、もがきながらよじ登っていったのです。ところが、とうとう力尽きて手が離れて崖から落ちてしまいました。崖の下は岩がごつごつした河原でこのまま死ぬのかと思ったら、何かフワッとしたものに支えられ生きていたというのが実感です。

 そういう面では小さいときもみそっかすで、落ちこぼれでしたが、私は文字通り落ちこぼれなのでしょう。すべてのことが自分の力だとは思えないのです。「生きていた」というより、むしろ「生かされていた」と言ったほうがより実感に近いかもしれません。この世界というのは元々そうできているのだと直観的に思いました。

ただ素直な気持ちに沿って生きる
 それからはただ自分の素直な気持ちに沿って生きていけばいいのだ、そして、人生の意味を生活の中で深めていけばいいのだと思い生きてきました。その頃交流のあった友達のなかで、やはり道を求めて、出家の道、お坊さんになった友人が3,4人います。私は出家というような形ではなく、あえて普通の生き方でいこうと考えました。

 普通の生活のなかで絶えず自分の心をチェックする。いかに自分の内なる心に素直になれているか見て、素直になれていなかった場合には、なぜそうなのかと反省し、自分の内なるこころに照らして考え方や行動を修正し自分を磨く。そのためには、むしろ普通の生活のほうがいいのではないのかと思ったのです。このように生きていくのは、自分自身に甘くなってしまう可能性もあり、ある意味では出家の道よりもかえって難しい生き方かもしれません。けれども、本来人間は普通に生き、そのなかで自分を磨いていくのが本筋だと思ったのです。本当の生き方をしたいという信念自体は、自分なりに自信といいますか、これ以外ないと思いましたので、そういう道を選びました。

教育の道へ
 具体的には、研究の道をそこでストップして、自分が気がついた本当の生き方、生きる意味を若い人に、伝えていきたい。そのためには教育が一番いいのではないかと思い、中学校の教師になることにしました。その時は東大の博士課程の最終まで進んでいましたので、そういう面では、いろいろな方から、なぜわざわざそういう道を選ぶのか、もったいない、というようなことも言われました。けれども、自分としてはこれこそが最高の生き方ではないかと思ったのです。というわけで、神奈川県の田舎の公立中学校で教師として勤めることになりました。

教育者になる資格はあるか
 教師になろうと思ったとき、まず、自分は教師になる資格があるかと自分に問いました。まだその時は教員免許も取得していなかったので慌てて取ったのですが、自分は果たして教育者になる資格があるのかということです。
 どういうことかと言いますと、将来結婚して自分の子供が生まれるだろう。その自分の子どもと同じように、形は違うかもしれないが、同じ深さで人様の子供を愛せるかということです。そういう自信が自分にはあるか、そういう愛情を自分は将来の生徒たちに対して持ってやっていけるかどうか。その答えははっきりイエスと出ました。

ダメな子はいない
 それから、もう一点、自分は駄目な子がいると思ってはいないかと改めて問いました。その答えは、自分自身小さい時駄目な子という形で育ちましたが、5年生の担任の先生の「あなたはできるのよ」というその言葉によって立ち直れましたから、自分の体験を通してわかりました。また、いろいろな子どもを観察しても、本当に駄目な子はいません。

 学校の試験で点数が100点の子もいれば、10点の子もいます。 10点の子がいるということは、本当は子供の点数ではなく、教師の教え方の点数なのです。つまり、教え方が悪いからその子は10点しか取れないのだということです。また、その子に意欲がないからというのではなく、その子が興味と意欲を持つような教え方をしていない教師に責任があるのだということなのです。
 このよう本当はどうかと徹底的に見ていくと、本当は成績が悪いのは子どものせいではないのです。教師が教え方をどこまでも工夫することが筋道だと思います。このように、駄目な子はいないと自分で再確認をしたうえで教師になりました。

相手のせいにせずに、伝え方を工夫する
 ところが、教師になり実際にテストをすれば、100点の子もいれば10点の子も出てくるのです。その時に、その子に問題がある、その子が頭が悪いのだ、勉強しないからだ、ということではなくて、自分の教え方に問題があると考え、どの生徒にもわかるようにと、たえず工夫をするようにしました。おかげで、自分でも教え方も随分上手になったと思います。その態度はその後もずっと続けています。人に何かを伝えようとするときに、思うように伝わらない場合、相手のせいにしないで、自分の伝え方の工夫次第なのだと考えるようにしています。
 工夫を重ねるなかで 生徒の成績も伸び、みんな生き生きしてきました。また、授業の合間には、人間としての生き方について話し合う機会をできるだけ持つようにしました。その他、部活動も活発に指導しました。こうして、生徒との信頼関係もできて、伸び伸びと楽しく教師生活をおくることができました。

さらなる飛躍を求めて
 3年ぐらいして、公立学校でできるのはこの範囲だろうという限界がわかってきました。そこで、この後はさらに飛躍を求めて、フリーでいこうと思うようになりました。こうして、4年で中学校を退職して、勉強というより勉強の仕方を教えるとともに、人間としての生き方を伝えていくことを目的として、私塾を開きました。最初は小学校・中学校・高校の生徒が対象でしたが、段々それが大学生、そして今は社会人となってきました。

一隅を照らすだけではなく
 ところが、だんだん、一隅を照らすという言葉がありますけれども、それだけでは駄目だと思うようになってきました。一生懸命真心をこめてやって、それなりの人間関係もできて、それなりに成長する。でも世の中全体を見るとどんどんレベルが下がってきているというか、人間としてのレベル、生き方のレベルが下がってきている。そんなような流れを毎年感じていました。毎年階段を一段ずつ下がっていくように感じるのです。ただ前橋で、あるいは赤城山でただ真心を持って一生懸命やっていても、一隅を照らすことはできているかもしれないが、それだけでは駄目なのだと思いました。

本当のことは教えても伝わらない
 こうして、15年ほど前からは、世界のみんなが幸福になり、世界の平和を実現するために、どうしたら世の中全体の流れを変えることができるのだろうかという方向に重点を移行してきています。
もう一つ、このような流れのなかでわかってきたことは、「生き方の本当のことは教えることはできない」ということです。本当のことは教えても伝わらない、自分で体験により気づくしかないということです。

 そういうことで、ここ10年ほどは、本当の生き方に自分で気づき、体得することを目的として、「自覚のセミナー」と、本当の世界の平和を実現するためにどうすればよいのかということを徹底的に考える「平和のセミナー」いう合宿セミナーをやっています。自覚のセミナーも平和のセミナーも日本だけでなく、ヨーロッパでも行い、まだまだ工夫するところが多々ありますが、現在までかなりの成果が上がっていると思います。 こんなところが私のこれまでの生き方です。(続く)

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2008年8月31日日曜日

生き方への目覚め~ある講演録から (前編-1)

「国の理想と憲法」と自分の生き方
 お話に入らせていただきますが、皆さんがもう既に私の著書「国の理想と憲法ー国際環境平和国家への道」を読んで来て頂くということを前提に今日お話しすることを実は組み立てていたんです。そうでなくて初めてという方が大部分であればそういう話も一応できるようにしています。どういう方向性でも、お話できると思うのですが、私としては、一つはこの本に書かれていないこと、というのは、この本がどういう経過でできたのか、それは私自身の人生、どう生きてきたかということにとても関係があるのです。私自身そのことについて、お話できたらと思うと気持ちがわくわくしてきます。

 なぜそういうことを申しますかというと、この本は基本的には社会関係の本なのです。今日の社会的な状況の説明と、それに対する私の提案という形でできています。しかし私自身としては、これは私の生き方から出てきたもの、つまり言葉堅く言えば、生きるというのはどういうことなのか、真実の生き方とは何なのかという問題を掘り下げていったところから、この平和というものに対する一つの構想が浮かび上がってきたわけです。そのことについてお話するのが恐らくこの会で最も相応しい、それだけではないですが、大切なことかなと思うのです。皆さんにぜひ聞いていただいて、また、ご批判なりご指導いただければと思うのです。そういうことで、そこから話しを始めさせていただきたいと思います。

 この会に参加されている皆様の多くが、これまで真実の生き方をそれぞれが追求されてきたのではないでしょうか。私自身農業と教育、そういうことをやっておりますので、やはり生き方の問題というものが、皆さんにとって最も根本的な、そして共通の話になるだろうと思うのです。そしてそれがまた、この本の内容を検討するときに、大切な共通理解ではないかと思います。

 私の生い立ちを細かく話すのは時間の関係もありますので省きますが、実は私は、二十歳までは、世間で言うごく普通の生き方をしていました。家は父親が海軍の軍人でしたので、戦争が終わって熊本の田舎に引っ込んで細々と百姓をやっているという状態、それがどんどんジリ貧になりまして、今の基準から言えば、最も貧しい人たちの一人だというような育ち方をしました。
 子供の頃からのことを考えてみますと、おもちゃひとつ買ってもらった記憶がありません。そういうような家に育ちまして、性格も内気で人見知りをする。頭の回転も非常に遅れていたらしくて、小学校4年生までは今の5段階で下から1と2というような成績を続けていました。

やればできる
 そのうちに、私の生き方の最初の転機が訪れたのです。5年生の担任の先生がある時「野村さんちょっといらっしゃい。」と端の方へ呼ばれました。そして、「あなたはできるのよ。」と言われました。それまでは本当に落ちこぼれの典型で、登校拒否みたいなこともやっておりましたので、まさかと思うのが普通なのかもしれません。けれども、その時の自分の気持ちを思い返して、今でも涙が出るような感じがするのは、その時の自分の反応なのです。
 「あなたはできるのよ。」と言われたときに、私は「あ、そうなのか。」とこう思ってしまったのです。「僕はできるのか。」と。この単純さといいますか、純真さということ、これがなかったら恐らく、この後の自分の人生は全く違った、ある意味では惨めなものになっていたと思います。そこから、「じゃあ、やってみよう。」ということで勉強を始めました。ただ、学校の授業というのがどうもわからない。そういう面で駄目な部分がありました。そこで授業の前日に殆どのところを自分で調べて勉強する。国語の教科書も一つ一つ辞書を引いて調べるので自分でわかる。それで授業を受ける前までに、そこのところはすでに自分でわかっていた、というような勉強方法をなぜか編み出してしまったのです。その先生に「あなたはできるのよ。」と言われたのが5年生の一学期末です。一学期の時の通信簿は50人のクラスで下から1、2番なんです。 ところがその方法が非常に良かったのか、5年生の2学期末、12月の末には今度は上から5番になっていたのです。そのくらい急激な変化がありました。

 それ以来「やれば出来るのだな。」ということでやってきました。ところが家が貧乏なのと、体が非常に病気がちで、体力がないのでいろいろ考えました。結局自分には勉強しかないということで、その地方の進学校の高校へ行き、それから大学に進んだわけです。勉強ということに自分の中では価値をおいており、これで世に出るのだと考えていました。とにかく貧乏でしたので、なんとか自分の力で生活を安定させたい。それも出来るだけ安定させたい。学校の成績をよくして、一流の大企業にあるいは大きな会社に入れば、それなりに生活が安定し、自分の力を発揮できるのではないかと、そういうこと以外には考えておりませんでした。

既製品の生き方でなく
 ところがある時、丁度二十歳になったときなのですが、ハッと気がついたのです。その時ある小説を読んでおりました。スタンダールの『赤と黒』という小説なのですが、その主人公の生き方に非常に強烈なものがあるのです。その主人公の生き方に憧れたわけではないのです。野心をもってあくどく生きていく、貧乏な青年の姿を描いた小説なのです。ただその小説を読んで思いましたことは、「なんだ自分は今まで生きて来なかったのだな」ということです。丁度デパートのショウウインドウの中にある、いろんな品物の中でどれがいいかなという形で自分の職業、自分の人生を選択しようとしていた。つまり既製品が並んでいるその中のどれがいいのだろうかということです。決して自分の中から、心の奥から出てきた生き方ではなかったのだなということに気がつきまして、愕然としました。
 そして、その時思ったことは、人生というのはこの150億年の宇宙の歴史の中でたった1回きりなのだということです。自分というのはこの広大な宇宙の中で、そして永遠の宇宙の時の流れの中でたった50年100年生きるだけなのだ。たった一回きりの人生なんだなという事実にはっきりそこで直面することが出来ました。それで、この人生を最高最善に生きなくてはと思いました。

最高・最善の生き方とは
 その時から、では何が最高なのか、何が最善なのかということが問題になりました。いろいろ本を読んだりするのですが、結局わからない。いろいろ考えてみるがわからない。それで大学の3年生、4年生、最終学年になりまして、いよいよ就職活動の時期になりました。このままいけば、一応の一流の会社には入れる。けれども、どうも納得がいかない。非常に焦りました。それで時間の余裕が欲しいということで、大学院に進んだのです。ただそれだけです。名目だけは生物の研究をして生命の神秘を解き明かすという建前にしておりましたけれども、とにかくもっと考える時間が欲しい、ということで、東京の大学院に出てきました。

 その時に丁度あるご縁がありまして、この本の提案の原案者である、小田原の和田重正先生という方にお目にかかりました。この提案の原案の本を読んだり、和田先生のお話をお聞きしまして、「あぁこういう壮大な、しかも魂を、心の底から揺さぶるような考え方を提案している人がいるんだ」ということで、この提案を世に広めることを一生の仕事にしたいなと思ったのです。それが22歳の時です。
 丁度同じ時期に、まだ結婚していなかったのですが、女房の睦子がやはりその本を読んで、それから夜も眠れなくなってしまったくらい感激したのだそうです。そういうことを後になって知りました。そういうような過程があったのですが、社会の本来のあるべき姿、また、この提案の趣旨に関してはその時期に自分の考えがはっきりしました。ところが、一方の自分はどう生きたらいいのか、自分が最高に生きるということはどういうことか、本当の生き方、真実の生き方とは何かということは、依然として進展がなかったのです。和田先生のお話をお聞きしたり、いろいろな本を読んだりしました。

 その中で、段々はっきりしてきたことは、自分が何をどういうことをやっていきたいのかということでした。本も参考になりました。それを読むことによって自分が共鳴するということがありますので、自分はこういうことを望んでいるなということは段々はっきりはしてきました。
 ところが一方では、その道を行くとなると、その道がどういうものかというのは、この後お話しようと思いますが、その道を行くとなると、今まで築いてきた自分の人生、自分の口で言うのも憚られますが、もう自分にはこれしかないと、一流の大学でトップの成績でやってきていたわけです。ですからそのままいけば、研究室に残って、助手、助教授、教授となっていくだろうと、自分も考えていましたし、周りの人たちも見ていたと思います。ところが、その生き方は先ほどのショウウインドウの話から言えば、既製品を選んでいるのです。いろいろな既製品の中で世間では上等のものと思われている生き方です。それに対して、自分の心が本当に望んでいることは、そういうことに全くとらわれないで、ただひたすら道を求めて生きたい、そして自由でありたい、全てに自分の心が素直に納得する生き方、ただそういうことで生きて生きたい。そう生きていくのが一番いいのだと思っていたのです。それは一切の手がかり足がかり、地位、財産、家、そういうものに、一切依存しないで生きていこうということです。

白と黒の葛藤と苦悩
 このようにして、段々はっきりしてきたのは、とにかく世の中の世界中の人が幸せになり、世界が本当に生き生きとして平和になっていく、そういうようなことを願いながら一切の地位や財産、そういうものに関係なしに生きていくことが自分が本当に望んでいるのだということがはっきりしてきました。
 ところが、自分の中に二つの考えがあるのです。自分の中の白の部分と黒の部分がものすごく葛藤するのです。自分は本当は思い通りに生きて生きたいと思います。だけどそういう風に生きている人がまわりにいないのです。自分の世代やちょっと上の世代でもいない。そういうこともあり、この自分が持っているもの、世間的な名声とか地位とか安定、これを手放すのが非常に怖いのです。どこまでも怖いのです。白で生きたいと思う、頭ではそう思う、また感情的にも思うけれども、それをもっと大きな力で、黒の恐怖が押さえつけるのですね。そういうことで、23歳ぐらいからは、本当に悩みに悩み、考えに考えました。仏陀の言葉をまとめた本を読んでみたり、聖書を読んでみたりということもありました。

 自分にとっては命がけで問題なのです。自分の一生を最高に生きる。生きたい。そういうところでの葛藤ですから、殆ど生き死にの問題になっているわけです。自分が生きる価値、意味が一体あるのかないのか、というところまで考えました。こうして、もがきにもがいているうちに、ノイローゼではないのですが、とうとう体の方が参ってきました。どのように考えても解決が見出せない。いくらいろんな本を読んでも解決しない。読んでも頭ではわかるのです。けれども怖い。そういうようなことをやっていますと、体が参ってきます。このままでは、死の方向へ向かっていくのではないか、という恐怖もありました。
 そのうちに、心も参ってきました。また、心身の消耗と同時に、研究所で微生物を研究しており、顕微鏡などを頻繁に使っていたせいだと思いますが、目が真っ赤なって、猛烈に痛み始めたのです。どうしたのだろうということで、医学書なども本屋で立ち読みしたりして、いろいろ調べてみました。

 その結果わかったのは、どうも緑内障らしいのです。それでもなかなか医者に行きませんでした。本当のことを知るのが怖かったのです。しかし、とうとう25歳の12月の末に、私は1月7日が誕生日なので26歳になる直前で、丁度今ぐらいの時期です。東大病院に行って診察と検査をしてもらいました。半日ぐらいかかったのですが、もう本当にドキドキしていました。本当に緑内障だったら、今までやってきた、子供の時から積み重ねてきた努力はすべて駄目になる。そうなれば、目が見えない中で生きていかなければならないのだと思うと怖くてしかたがありませんでした。ですからドキドキしながら検査を受けて、検査の結果が出るまで本当に不安一杯で待っていました。

絶望の果てにあったもの
 そのうちに、先生が呼びに来られました。「検査の結果をご報告します。緑内障です。6ヶ月で失明するでしょう。」こう言われたのです。まさに、悪い方の予感が100%以上的中してしまったのですが、実はその時に、今までの私の人生の中で一番大きな奇跡が起こったのです。それはどういうことかと言いますと、先生が「6ヶ月で失明します。」と言われて、その後の説明に移られた時に、まったく意外なことに、私の心がとても安らいでいたのです。「あぁそうなのか」と、ただそれだけなのです。 そして一切の不安も感じませんでした。虚脱状態ではないのです。

 10分ぐらい説明をお聞きして、それでその部屋を出たのですが、本当の奇跡は病院のドアを開けて何気なく空を見上げたときに起こったのです。「あぁそうか、今まで自分が見てきた世界はみんな間違いだったな」ということです。今まで自分は、目が見える自分の人生と、目が見えない自分の人生というのは、全く違うものだと思ってきたのだけれども、目が見えなくても自分の生きる意味は全く違わない。目が見えようが見えまいが、一切の自分の人生の価値と意味は変わらない。本来そういうものなのだなということが、わかりました。これは天啓、天からの啓示のようなものだったのですが、それまでの人生の悩みが、それから1週間の間に全部解決しました。どういう解決の仕方をしたのかといいますと、それまで人生に対するいろんな深刻な疑問があったわけです。 ところが、その一週間のうちに人生についてのいろいろな問い対する答えが一つ一つ出たというよりも、その問い自体がなくなってしまったのです。

 そういう形で非常にすっきりしまして、その1週間の間に段々とこの世界が明るく見えてきました。もともと何もない、例えば「誰々のもの」とかそういうものもない。優劣もない。目が見える見えない。成績がいい悪いも含めて、差別もない。そして全てこの世界は自由なのだ。そして、それまで自分の中にあった、頭の中にあるもやもやした思いというのでしょうか、そういう霧のようなものがすっきり晴れた状態になって、自分の心が非常に澄んだ状態になっていました。「あ、この気持ちでいけばいい。」それは今まで経験したことのない透明さなのです。自分の心というよりも、本来の人間の心というのはそういうものだったのだ、ということがはっきりわかったのです。

真心に沿って手放しで生きる
 その時だけわかったということではなくて、これから「ここで生きていけばいい」ということなのです。わかりやすい言葉で言えば、俗な言い方ですけれども、「まごころ、本当の心」そのままで生きていけば、たとえ野垂れ死にすることであろうと、自分は構わない。それが最高の生き方だ。一切のものを持たずに生きていくのだ。ただあえて言えば、人のため世のために自分の全てを出していくいき方、これは自分の心の中にもともとあるものであり、ただそれだけでいいのです。結果が世間的にどういう風になろうと、それは自分の問題とするものではない。悲壮な決意でもなんでもなくて、非常に自由で軽やかなのです。そういうことで、自分はそれ以来、お金のために働いたということは、一切しておりません。その生き方はしない。得るために生きるということではない。そして何かを所有したり、持ったりするために生きるのではない。手放しで全部出していく。それで生きられればいい。そういう風にしてこれまで生きてきました。それまで自分は貧乏でしたから、家もないし、お金もない。失礼な言い方かもしれませんが、頼るべき宗教もない、お寺もない。ただ一つ頼りにするとすれば、天とつながっている自分の心の奥の天心、自分で言うのもおこがましいですが、自分のものとは思えないようなものが自分の中にあることに気がついたのです。

 そこに立つと自分の利己的な欲望などが自然に浮き上がって問題でなくなる。お医者さんに「失明です」と宣告される前は、自分の利己的な思いと本当に願うことの二つが対等の力で葛藤していたのですが、自分の利己的な思いというのは、所詮頭の中の考えや感情だったのです。目のことについて宣告された後に気がついたのは、もっとその奥にある、もともとあるもの、そういうような違いなのです。

 私が生きていこうと思ったのは、もともと自分の中にある心で生きていくということです。それ以来、その生き方で生きてきました。幸いにちゃんと食えてきたのです。道中衣食有りです。私は道を求めました。宗教者としては私は素人ですが、確かに自分なりに道を求め、その道を歩んで来ました。そうすると、衣食は自然に与えられる。この世界はそういう風になっているのだなと体験的に思うのです。ですから、キリストが山上の垂訓で言っているように、飛ぶ鳥蒔かず刈らず、病むこともなく、また思いわずらわうこともなし。何も心配することはないのだと、わかったので、非常に気持ちが安らぎました。気がついてみると、それからものすごく活動的になりました。

 こんなふうに生きればいいのだ、やっとわかったということで、毎日が楽しくて楽しくてしょうがないという人生をずっとやってきました。気がついてみたら緑内障もその半年後には良くなっていました。もちろんまだ、目自体は、疲れやすいなどということがありますが、まだ今でもちゃんと見えています。若い時にそんなことがありました。もちろんそれは悟りとか、そういう立派なものではありません。仮に「悟り」と言うにしても、その第一歩にしかすぎません。その後、まあまあの方向に歩み始めたと自分では思います。40年前に自分でわかっていたのは、大体人間というのはこういうものか、自分というのはこういうものか、世界というはこういうものかなという、大まかな見取り図が見えたような気がしていました。それが段々40年の中で、実際の生活を通して、少しずつ精密になってきているような人生だったと思います。

本当の生き方と本当の社会のあり方
 それが丁度暮の今ぐらいの時期から正月の自分の26歳の誕生日ぐらいの間に起こった一連の出来事です。自分はこの道を歩んでいけばいいのだということははっきりしました。だけれど、自分自身の問題は卒業ということではありませんが、それがさらに、「国に理想を掲げることによって世界に平和を」、という和田先生の提案と、どういう風に結びつくのか、ということを課題にしてその後生きてきました。最近、その二つは、両方が非常に絡み合っているというのでしょうか、平和というのは、「自覚」、自分とは何か、あるいはこの世界とは何か、この自覚なしには、本当の平和は創れないなということが、ここ20年ぐらいの間に非常にはっきりしてきました。(続く)

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