2011年8月5日金曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(付録編)

福島の原発大事故から見えてくるもの(附録編)
ある講演会の記録より


CO2温暖化説は正しいか
 もう一つ原発推進の根拠として「原発は温暖化の原因である二酸化炭素、CO2を出さない」とよく言われます。しかし、前に述べましたように、原発は決して石油を節約することにはなりません。したがって、「原発はCO2を出さない」とは言えないのです。

 実は、特に最近になって「CO2温暖化説は間違っている」という声がいろいろなところから出てきています。もし、本当にCO2温暖化説が間違っているのだとしたら、これは大問題です。歴史的なスキャンダルということになるかもしれません。

 CO2温暖化説が本当に間違っているのなら、各国のエネルギー政策は根本的に間違っていることになります。また、CO2削減を主要なテーマとする数々の国際会議もまったく見当違いのものだということになります。すなわち、もし、CO2が温暖化の原因でない、ということが真実であれば、将来的な資源不足や資源枯渇の可能性は別として、石油や石炭、あるいは、天然ガスなどの化石燃料を思う存分使っても、温暖化は起きないことになります。

 正直に言えば、実は、私自身もすでに数年前に、「CO2温暖化説は間違っている」という意見があることを知って「もしかしたら、それが真実なのかもしれない」という思いがなかったわけではありません。

 しかしながら、それでも、結局、世界中で「CO2が温暖化している」と言っているのだから、やはり、CO2温暖化説は正しいのだろうとこれまでは思ってきました。

 ところが、最近になって「CO2温暖化説は間違っている」とする本が何冊も出版されるようになりました。そこで私もあらためてそれらの本を読んでみたり、インターネットで情報を集めて検討してみたのです。

 その結果、この問題に関して、どうしても見過ごしにできないいくつかの事実があることが分かりました。これから書いていくことは、それらの事実のうち、もっとも私たちに分かりやすいものだけをまとめたものです。詳しいことについては関連する本などを読まれることを望みます。

CO2温暖化説はどのようにして広まったか
 1980年代の前半までは「地球は寒冷化している」というのが学会の定説でした。ところが、1988年にアメリカのNASAの研究員であったジェームス・ハンセンという人が、アメリカ上院の公聴会で次のような証言をしたのが「CO2温暖化説」の事実上の始まりです。

 「最近の異常気象、特に、暑い気象が地球温暖化と関係していることは99%の確率で正しい。人間の活動によるCO2が大気中に増え、地球を温暖化している。温暖化が進めば、異常気象が多発したり、海面が上昇するなど、不都合なことが地球を見舞う。」とハンセンは主張したのです。しかし、この主張は発表当初は科学者などからも単なる一つの仮説にすぎないとして、それほど注目はされなかったようです。

 ところが、この仮説にフランスが飛びつきました。当時、フランスは国策として原発を推進していました。ところが、スリーマイル島の原発事故、それからチェルノブイリの原発事故などが起こり、原発に対して風当たりが非常に強くなりました。その結果、このままでは、もはや原発をやっていくことは困難であるという状況があったのです。そこに、CO2温暖化説が発表されたというわけです。

 フランスは政府も電力会社も一丸となって「原発はCO2を出さない。(本当は、原発は決して石油の節約にならないので、CO2を出さないとは言えないということは、これまでに繰り返し述べてきたとおりですが・・・)したがって、地球を温暖化しない。だから、地球環境を守るためには原発がもっとも望ましい。」というキャンペーンを大々的に繰り広げ、国を挙げて原発を強力に推進していったのです。なぜ、原発を推進したいのか、それは前にも述べましたように、莫大な利権が絡んでいるからです。

 それが欧米の各国に広まっていきました。ドイツを中心として国際的な政治問題にまで発展しました。その中心となったのが国連のIPCC、すなわち「気候変動に関する政府間パネル」です。

 この動きは欧米だけではなく、世界中に広がっていきました。日本も例外ではありませんでした。当時の環境庁は国内の企業各社による公害問題が一応収まって、環境庁への予算も大幅に削られかねない、そして環境庁の存在意義そのものが問われていたと言われています。

 そこに、CO2温暖化説が欧米から伝わってきたのです。どこまで本当か分かりませんが、当時の環境庁の上層部のある人が「これで行ける!このCO2温暖化説でこれからも環境庁はやっていける!」と言ったという話があります。いかにもありそうな話です。

 いずれにしても、世界中で同じような動機でこのCO2温暖化説がもてはやされるようになったのではないかと推察します。その辺の事情について、現在の環境省に関わる人が、CO2温暖化説は最初あくまで一つの仮説だったのだが、それがいつの間にか事実である、ということになってしまっていた、と話されています。

 それまではずっと地球は寒冷化しているという説が定説のようになっていたので、突然、地球は温暖化していると言われて、少し戸惑った方も、科学者だけでなく、多かったようです。当時、私も少し違和感を抱いたことを今でも覚えています。

 しかしながら「産業革命以来、石炭や石油などの化石燃料を大量に消費するようになった。そのために、毎年、保温効果のあるCO2が増え続けている。その結果、温暖化が進んでいる」という説明は、それなりに理屈に合っているように思えたのは事実です。

 また、その説明とともに提示された「毎年のCO2濃度の変化と気温の変化を記録したグラフ」を見ると、確かに、20世紀の後半より気温が急激に上昇してきているように見えます。そして、それがCO2濃度の増加とよく符合しているように見えるのですから、科学者を含めて多くの方が、CO2温暖化説を認めるようになりました。現在では、CO2温暖化説はほとんど定説であると言ってもよいほどです。

CO2温暖化説を検証する
 ところが、その定説だと思われ、多くの人々が信じ切っていたCO2温暖化説に、最近とくに、はっきりと異論を唱える人々が出てきたのです。私もそれらの人々が書かれた本などを読んでみました。 ここでは、それらの本に書いてあることの中で、誰にでも分かりやすいいくつかの事実についてのみ説明いたします。

1 気象学者のキーリングは30年にわたり南極とハワイでCO2濃度を測定して、CO2温暖化説に根拠を与えた一人です。しかし、その当人が後になってCO2温暖化説を覆す事実を発表したのです。

 彼は長年にわたる気温変化とCO2濃度変化の関係をグラフにしています。それを全体的にざっと見ますと、一見、気温の変化とCO2濃度の変化がよく符合しているように見え、CO2温暖化説を裏付けているように見えます。

 ところが、そのグラフを詳細に見てみると、明らかに「気温の変化が先に起こり、その後にCO2濃度が変化している」ことが分かります。実は、私も4、5年前にそのことに気が付いて、何だか変だな~と思ってはいたのです。

 要するに、これは「何事も先に原因があって、その原因によって結果が引き起こされる」というこの世界の鉄則から言えば、「気温の変化によってCO2濃度の変化が引き起こされる」ということなのです。

 つまり、キーリングのグラフによれば、「まず、気温が上昇する。その結果、CO2の濃度が増加する」ということです。このことから言えることは、明らかにCO2濃度の増加が気温の上昇をもたらしたのではない」ということです。

 「まず、気温が上昇する。その結果、CO2の濃度が増加する」というのは、一応次のように説明できるのではないでしょうか。

 (例えば、太陽の活動が活発になることによって、あるいは、他の原因で)太陽光の入射量が増えることによって、まず気温が上昇する。その結果、海水の温度が上がり、海水中に含まれているCO2が蒸発して、空気中のCO2濃度が増加する。

 確かに、現段階では、これも仮説には違いありません。しかし、「CO2温暖化説は絶対正しい」という固定観念を一応横において考えてみれば、大いに説得力があるのではないでしょうか。

2 人間の産業活動や生活活動は年々増加しているので、CO2の排出も年々増加しています。それにもかかわらず、世界的に1992年と93年は空気中のCO2濃度は増加していません。これは1991年に起きたフィリピンのピナツボ火山の大噴火のために、太陽の光が遮られたために世界的に気温が下がったためだと考えられます。つまり、「気温が下がったために、CO2の濃度が減少した」ということなのです。

3 エルニーニョは太平洋の赤道付近の海面温度が上昇する現象です。エルニーニョの発生とCO2濃度の変化を調べてみると、エルニーニョが発生した1年後にCO2濃度が増加することが分かっています。つまり、海水の温度の上昇がCO2濃度の上昇の原因となっているということなのです。

4 1940年から1970年までの30年間に人間の活動により排出されたCO2の量は急激に増えています。しかしながら、その間、地球の平均気温は下がっています。

 もし、1から4のことが真実であるとすれば、そこから導き出される結論は、「気温の上昇・下降によって、空気中のCO2濃度が増加・減少」するということです。CO2温暖化説ではこれらの事実を納得の行くように説明することはできません。すなわち、「CO2が原因で、気温が結果である」ということではなく、「気温が原因で、CO2濃度は結果である」 ということのほうが真実なのではないでしょうか。

5 ここで少し理論的に考えてみましょう。大気中に含まれているCO2はたかだか約0.04%でしかありません。そして、大気中のCO2は毎年1から1.4ppmずつ増加しています。つまり、最大でも1.4ppmです。ここ100年を平均すると、年に1ppmずつ増えているということになります。

 ところで、1ppmというのは100万分の1を表す単位です。つまり、毎年平均して大気中の100万分の1だけCO2が増加しているということです。 もう少し分かりやすく説明しましょう。大気が100万あるとすると、そのうちの0.04%、すなわち400がCO2いうことになります。それが毎年1だけ増えるというわけです。

 もっと分りやすく、お金に例えてみましょう。親は100万円持っているのに、子供は400円しか持っていません。そして、毎年親から1円だけ小遣いをもらっているということです。子供のお金は毎年、親の持っているお金の100万分の1ずつしか増えていないのです。これでは何もできません。

 話しをCO2に戻しましょう。計算をしてみると、毎年、CO2が1ppm増えるとすれば、地球の平均気温はわずか0.004℃ずつしか上がらないという結果になるそうです。これでは、「人間の活動によって排出されるCO2が温暖化の原因だ」と説明するのはかなり難しいのではないでしょうか。

クライメートゲート事件
 国連のIPCCには中心になるメンバーがいて、世界中の多くの学者たちがそのデータを共有し合っているそうです。したがって、IPCCのデータは信用性があるということになっていました。

 ところが、2009年11月に、IPCCの中心的な研究員の人々のメールのやり取りが暴露されてしまったのです。これらの何百通から何千通というメールはインターネット上でも読むことができます。

 この暴露事件はウオーターゲート事件と結びつけて、クライメートゲート事件と呼ばれています。「クライメート」というのは「気候」と言う意味ですが、要するに、気候に関する大スキャンダル事件という意味合いが込められているのでしょう。

 IPCCはこれまで、「この1000年間、20世紀の後半以外は温度が非常に高くなったことはない」と主張してきました。要するに、20世紀の後半から地球の温度が異常に高くなっている、というわけです。それがCO2温暖化説の根拠となっていました。

 IPCCによれば、この1000年間ずっと気温は低かったのに、産業革命以来、急に地球の温度が上がってきた。それは、産業革命以来、人間の活動によって大気中のCO2の量が増えてきたためであるということです。過去の気温を調べて、それをグラフで示しています。ある時点までは、毎年の報告にもそういうグラフが発表されていました。

 実は、いろいろな研究結果から、中世においては非常に気温が高かったと言われていたのです。ところが、IPCCは「産業革命以後はじめて気温が上昇してきた。とくに20世紀の後半になって急に気温が上昇している」と主張したのです。IPCCのグラフでもそういうことになっていました。

IPCCがデータを捏造していた
 ところが大量のメールが暴露されて、結局、IPCCのメンバーが気温のデータを捏造していたということが分かったのです。同僚の研究員にあてたメールには「中世温暖期のデータを捏造するトリックを完了した」という内容の記載があったそうです。さらに、メールを書いた本人がその事実を認めたということです。

 このことによって、「ここ1000年間で20世紀だけが温度が高くなった」というのは事実でなく、捏造されたデータだったことが明らかになったのです。

 それだけではありません。その他に、北極海の海面温度などもが捏造されていたことがわかりました。

 もう一つはっきりしたのは、これは捏造というよりも、気温のデータの取り方が、国によっては非常にずさんであることも明らかになりました。例えば、日の当たる建物から1メートルぐらいのところに温度計が設置してある、というようなことです。日本ではこういうデータの取り方はしないと思うのですが、アメリカなどではかなりいい加減にやっているそうです。その他に、海面温度の測定なども、かなり杜撰(ずさん)であったことなどもはっきりしてきました。

 データの捏造は話しにもなりませんが、いずれにしても、このような杜撰なデータでは、決して正しい結論を導くことはできません。したがって、IPCCの報告自体が全面的には信頼に値するものではないということになります。

 それにしても、なぜ、「中世の気温は高かった」ということを否定するようなデータの改ざんをしたのでしょうか?何かはっきりした意図があったに違いありません。要するに、世界中の人々に「大気中のCO2濃度の増加が温暖化の原因である」と信じ込ませる必要があったのでしょう。ということは、もしかしたら、そうすることによって、大儲けをしたり、権力を維持・強固にすることのできる人たちやグループが存在するのかもしれません。そうでなければ、誰もこんな馬鹿なことをするはずはないと思うのですが、果たして真相はどうなのでしょうか。

温暖化は起きているのか
 これまでの説明だけでも、CO2温暖化説にはかなり疑わしいところがと言えるのではないのでしょうか。それらの事実だけではなく、それを証明する事実がその他にもいくつもあると言われています。そこで、次に「CO2が原因でなくとも、温暖化そのものは起こっているのだろうか?」ということが、あらためて問われることになります。

 これについては、CO2温暖化説に疑問を持つ人々の中には、今のところ3つの考え方があるようです。

 一つ目の考え方は「北半球では温度が上昇している。しかし、南半球では温度が下がっている。そして、地球全体では温度が上がっているとは言えない。宇宙から衛星で観測した結果によれば、大気中の温度は上がっていない。このようなことから、地球は温暖化していない」というものです。

 二つ目の考え方は「CO2が原因ではないかもしれないが、いずれにしても、人間の活動による何らかの結果、例えば、メタンその他の温暖化ガスの増加などにより、温暖化が起こっている」というものです。

 三つ目の考え方は「多数の測定結果や人々の実感から言えば、近年になって地球の温度が上昇しているというのは事実である。しかし、上昇しているといっても、あくまで自然現象の結果である。したがって、それを、いわゆる、人間の活動の結果による温暖化とは区別しなければならない」というものです。

 私自身の実感としては、昔に比べると、冬でも夏でも随分気温が上がっているのではないかと思います。短絡的かもしれませんが、そういうことから、やはり、地球全体の平均気温が上昇しているのではないかという気もしています。しかしながら、その原因がCO2であるという説については、疑いの気持ちが強いというのが正直な気持ちです。

 一方、CO2温暖化説懐疑論に対する反論や批判も出されています。要するに、現段階ではこの問題に関して「これが真実である」と、はっきり決め付けることはできないのではないでしょうか。地球の気候は色々な要因が組み合わさって成立しています。したがって、CO2を含めた温室効果ガスが地球の温暖化の原因となっているかどうかは、いまだはっきりとは結論は出ていない、と言ってもよいのかもしれません。したがって、今の段階では、CO2温暖化説が間違いだとも、逆に、正しいと断言もできない、あるいは、どちらと断定するのは早計であるのかもしれません。

 いずれにしても、現在、そして、これからの私たち人類社会にとって、CO2温暖化説が真実であるかどうかという問題は、ある意味では「天動説が真実か、それとも、地動説が真実か」という問題に匹敵する大問題です。なぜならば、今後の日本、そして、世界中の原発問題を含めたエネルギーの基本政策、そして、人類社会のすべての活動が正しく営まれるかどうかが、その結果に掛かっているからです。

 この問題の重要性を考慮すれば、何が真実であるにしても、今後、私たちはあらためて事実をしっかりと調べることにより、真実をはっきり見極めることが絶対に必要だと私は思うのです。 (付録の終り)


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2011年8月3日水曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(後編)

福島の原発大事故から見えてくるもの(後編)
     ある講演会の記録より


電力供給力の範囲内で需要を調整する
 前編で「原発なしでも電力は不足しない」と述べましたが、確かに、現在の火力と水力で一応電力が間に合っていることは事実です。それに加えて、産業界や家庭において、世界一と言われている日本の省エネ技術を有効に活用し。さらに、節電などを心がけるべきでしょう。

 私自身は、将来的に経済成長が必要かどうか、ということについては非常に疑問を持っています。私は今後の経済活動や生活活動は、省エネ、節電などを含めて、いろいろ工夫して、現在の電力の供給力の範囲内に電力の需要を調整し収めるということを基本的な政策とすべきだと考えています。

 これまでの日本の電力政策は、電力の需要を無制限に伸ばしながら、それをカバーするために新たな発電所を次々に建設して供給力を伸ばしていくというものでした。しかし、この電力政策は日本の電気料金が国々に比べてかなり高い主要な原因であり、同時に、環境破壊やエネルギー資源の浪費をもたらす原因ともなっています。

原発なしに電力供給力を増やすとしたら
 ただ、現実には、産業界などには、経済成長を続けていくために今後もっと電力が必要だという意見は多いようです。では、今後原発なしで電力を増やす必要があると仮定した場合にはどうしたらいいのでしょうか。この点についてさらに詳しく考えてみたいと思います。

 私は、もし、電力を増やす必要があるのであれば、簡単に言えば、火力をもっと増やせばよいと思っています。従来の石油や天然ガスの火力発電、それに加えて、地域分散型の小型で高性能の火力発電です。なぜ、火力発電がよいかと言えば、それは火力発電が他の発電方式に比べて圧倒的に効率がよいからです。

 もちろん、自然エネルギーという考え方もあります。しかし、現在の技術では自然エネルギーによる発電はあまり効率がよいとは言えません。今後の技術革新に大いに期待するところです。それについては後ほど触れることにして、もう少し火力発電について述べてみたいと思います。
  
従来型の大型火力発電の問題点
 今までの火力や原子力や水力による大型発電所は、ほとんど大都市から離れた地方に建設されています。都会まで電力を送電線で何百キロという距離を引っ張ってくるわけです。ところが、電気が遠くから送電線を伝わってくる間に、大量の電力ロスが起きてしまいます。その他に送電の費用、さらに配電の費用などにかなりお金がかかります。

 また、原発もそうですが、火力発電所で発電する時に出る熱はほとんど捨てられています。本当は熱エネルギーとして、物を暖めたり、暖房や冷房にも利用できる貴重な熱が捨てられているのです。実に、もったいない話しです。

 もし、都市近郊、あるいは都市のど真ん中や、工場の中に小型の発電所を作れば、その熱をそのまま冷暖房などの熱エネルギーとして利用することができます。そうすれば、90%から100%は電気と熱源として有効利用できるようになります。

地産地消型の電気の需要供給システム
 エネルギー全般について、地域分散型の活用法がもっとも効率的なのです。そういう意味でも、地産地消型の電気の需要供給システムの普及・拡大が期待されます。

 実は、天然ガスを使って、エネルギー変換60%ぐらいの高性能の小型発電システムがすでに開発され、実際に稼動しています。東京近辺では川崎にあります。それだけで原発一基分ぐらいの発電能力があります。そういうものを、どんどん大都市や中都市などの近郊に作っていけば、狭い土地であっても、効率の高い発電をすることが出来ます。

 天然ガスは、幸いにも、日本の周りにも大量に存在するということが分かってきていますので、それをパイプで引いてくればいいのです。これから60年から70年間は天然ガスを採掘することは可能であると言われています。

 石油も一時は後20~30年しか持たないという説も流れていましたが、今のところは少なくとも50年間くらいは大丈夫だろうという説が有力で、近い将来に石油が枯渇するということはなさそうです。石油と天然ガスを有効に使うことによって、十分これからのエネルギー需要に対応していけると考えられているのです。

自然エネルギー発電
 次に、自然エネルギーによる発電について詳しく考えてみましょう。自然エネルギーによる発電方式としては、従来の大型水力発電の他に、太陽光発電や風力発電、地熱発電、小型水力発電などがあります。福島の原発事故の後、原発に替わる発電方式として自然エネルギーによる発電が注目されています。

 「原子力」あるいは「放射能」と言えば、最初から危険なイメージが伴います。それに比べて「自然」というと何か安全でクリーンというイメージが浮かんでくるのは、それこそ「自然」なことだと思います。

 また「自然」と言うと、何だか「ただ」あるいは「安い」というようなイメージも浮かんできそうです。けれども、自然エネルギーによる発電は、少なくとも現在の技術水準では、決して「ただ」でも「安く」もありません。どちらかと言えば、かなり高いのです。また、実際には、石油の節約にもなりません。

太陽光発電の問題点
 現在、日本では太陽光発電が盛んに宣伝されています。ただ、最近は技術が随分進んできましたが、太陽電池の材料であるシリコンを作るには、大量の電力が必要です。その電力は元の元をたどれば石油だということになるのです。

 太陽光発電は夜間は発電できません。また、ずっと野外に設置しておくために、当然埃(ほこり)が溜まり、日光を遮ります。さらに、1年中晴れて太陽の光に恵まれている砂漠のような気候の国々とは異なり、日本の場合は雨の日や曇りの日が多いため日射量がかなり少ないのです。したがって、稼働率や発電効率はかなり落ちます。

 このようなことから、太陽光発電はかなり高価なものとなっています。設置費用を取り戻すのに10年はかかり、それ以降やっと収支がプラスになると言われています。まだまだ太陽電池も大幅な技術革新が必要な段階だと言えるのではないでしょうか。

補助金には問題がある
 それに関していくつかの問題点があります。まず、太陽光発電を設置すると国や地方自治体などから、かなりの補助金が出ます。その分、太陽光を設置する人々は、例えば、半額だけを自己負担すればよいので、大助かりなのです。

 しかしながら、その補助金の出所は、結局は、私たちの税金です。少なくとも現段階では、太陽光発電を導入しない人々が、太陽光を導入する人々のために補助金を出しているということになります。これは太陽光発電を普及するという意味では意味があるのかもしれませんが、大きな矛盾と言えるのではないでしょうか。

 しかも、その補助金は太陽光を導入する人々ではなく、結局は、太陽光発電の設備の生産者や業者の懐に入るということになります。ということは、太陽光発電の普及政策によって、結局、誰が儲かっているというのでしょうか。


再生エネルギー法案の問題点
 現在、「再生エネ法」が注目をあびています。これは、電力会社に太陽光発電などの再生可能な自然エネルギーを一定期間、通常の電気料金より高い固定価格で買い取らせるという制度です。

 すでに、電力会社による太陽光発電の買い取りは実施されています。現在、家庭の電気料金は1キロワット時あたり23円です。2011年の4月からは電力会社は1キロワット時あたり42円で買い取っています。およそ、2倍の値段で買い取っているということです。

 高くなった差額分19円は、結局、電力会社が電気料金に上乗せして一般の私たちに請求することになります。ですから、いくら高く買い取ることになっても、電力会社はまったく損することはないのです。損をするのは、太陽光発電の設備を設置していない多くの私たちということになります。

 さらに、一定期間、通常の電気料金より高い固定価格で買い取らせるということになれば、次のような問題が出てくることが予想されます。すなわち、大量のソーラーパネルを設置して、余分に発電した大量の電気を電力会社に買い取ってもらうことによって金儲けを企む人たちが大勢出てくるのではないでしょうか。

 そうすれば、例えば、金持ちが一度大量のパネルを設置すれば、自動的に大きな収入を継続的に得られることになります。そして、パネルを設置することもできない貧乏人がそのおカネを支払い続けなければならないことになります。

 ですから、ただ「自然エネルギーは素晴らしい」とムード的に浸っていないで、自然エネルギーを普及しようという政策が大きな矛盾を引き起こす可能性があることを充分考慮にいれて、将来の方針を決めていかなければなりません。 繰り返しになりますが、それをしっかり監視するのは私たち一人ひとりなのです。

風力発電や小型水力発電の可能性と問題点
 次に、風力発電について考えてみましょう。4月22日の朝日新聞によりますと、日本全国で適切な風の条件があるところを調査したところ、風力発電の低い稼働率を考慮に入れても、原発の7~40基分がまかなえるだけの風力発電設備を作ることができる、と環境省が発表しています。

 ただ、太陽光発電もまだまだ不安定であり、風力発電もいつも風が吹いているわけではありません。スマートグリッドのようにコンピューターできちんと制御して、安定した電力の供給をもたらすシステムが必要です。その面では、日本の技術はかなり進んでいます。
 
 太陽光、風力の他に有効な発電方式は小規模の水力発電システムです。農業用水や工業用水、上水道や下水処理場放流水、オフィスビルや工場の空調設備に使う冷却水、などを利用し、小型水車を回して発電するものです。

 農業用水路だけをとってみても、全国で数十万キロメートルあります。また、川崎市・横浜市をはじめ各地で、水道局が小規模の水力発電システムを、上水道の送水管に設置して発電を行っています。

 エネルギー問題の解決を図ろうとするとき、その大前提となるのは、個人の生活の仕組みや企業の生産システムを、エネルギー資源をできるだけ無駄使いしないものへ転換していくことです。その上で、小規模でも可能な限り自然エネルギーを利用すれば、日本全体では多量の発電ができ、大規模発電システムに比べ環境に対する負荷がずっと少なくなります。

自然エネルギー発電を普及させるためには
 自然エネルギーを普及・促進するためには、それぞれの発電方式自体をより効率的にするためには、いっそう技術を革新をしていかなければなりません。しかしながら、これまで、自然エネルギーによる発電方式が本当に有効に利用されていないのは、根本的には、ほとんどの電力を大手の電力会社が独占してきたのと同時に、原発推進を国策としてきたという背景があるからです。です。

 ですから、今後の方向性としては、東電をはじめとする大手電力会社を解体して、送電・発電の部分などに分割して、一般の民間電力会社と自由に競争させることが絶対必要だと思います。そうすれば、電気の料金もかなり下がり、もっと能率的にサービスを提供できるようになると思います。

 原発に関しては、早急に全廃して、原発につぎ込んでいた国からのカネを、自然エネルギーの研究開発・技術革新の補助金にまわせば、近い将来、自然エネルギーは火力、水力と並んで電力供給の主要な柱と成長させることができるのではないでしょうか。

原発を廃止すると電気料金は高くなるのか
 ついでですが、原発を廃止して、自然エネルギーを代替で使うようになると、日本の電気料金が高くなる。そうなると、日本に生産拠点を持つ企業は国際的な価格競争に非常に不利になる。したがって、海外に生産拠点を移さなければならなくなる、という意見が財界筋には多いようです。

 これは確かに大きな問題点です。しかしながら、原発を廃止しても「火力と水力で」必要な電力はまかなえるのですから、基本的には電気料金を上げなくても済むと思うのです。もちろん、最初の調整期間には多少の問題が起こる可能性はあるでしょうが、それを工夫して乗り越えていくことが必要なのだと思います。

 また、この問題は、もともとこれまでの他の国々に比べて、日本の電気料金がかなり高すぎるところに問題があるのです。その根本原因は大手の電力会社が独断的に電力料金を設定してきたこと。また、電力の需要が少しでも増えれば、巨額のカネを投資して大型発電所を次々に建設してきたこと。その巨額のカネを電気料金に上乗せしてきたことなどにあります。

 この問題を根本的に解決するためにも、前に述べましたように、国のレベルで供給量の範囲内で需要をまかなう新しい考え方を導入する。大手電力会社の発電部門と送電部門を分割する。さらに、電力会社の自由競争を促進することなどの方向性が考えられます。

 いずれにしても、これまでの国や電力会社のあり方自体がとても異常だったということではないでしょうか。電力会社がすべてを独占して、データを捏造し、原発の事故を隠蔽し、ヤラセを指示してきたのが、福島の原発事故の後かなり表に出てきました。でも、まだまだ隠されてきたものがたくさんあるのでしょうね。

 今回の事故の背後には、電力会社、政府、官僚、政治家、財界、そういうところから研究費を貰っている御用学者や御用メデイアなど、誰とは言わないまでも、電力というものの背後にある利権に群がり、密かに徒党を組んで、国民を意のままに騙し、利用し、巨額の利権を得てきた構造があるということなのでしょう。

原発続行賛成の裏にあるもの
 ここでさらに突っこんで考えてみたいと思います。例えば、原発関連の施設がある地域では、原発は危険だから止めようという方ももちろんいます。しかしながら、原発関連の施設で働いている方は、たとえ原発は危険であったとしても、生活のために原発は必要だと考えている人々もかなりいるようです。

 子供もいるし、家族もいる。他には仕事がない。生活がかかっているのだ。原発が危険だと承知しながら、そこでやっていくしかない、ということなのでしょう。これは非常に悲しい現実です。

 しかしながら、もう一つ裏を考えてみると、生活のために、本当に止むを得ず、原発続行を支持することが、国全体として原発が維持されていくことに繋がっていくとすれば、これは大変な問題です。再び大きな事故が起こる可能性があるのです。それでもよい、ということなのでしょうか。その他の人たちはどうなるのでしょうか。

 こんなことを言えば、所詮、他人だからそんなことを言うのだ。そんなことは百も承知だ。しかし、そんなことは言っていられないのだ。他に選択の余地がないのだ、と言われてしまうかもしれませんね。やむを得ず生活のために原発が必要だと言う人たちがいるということなのです。

 ある意味では、これはギリギリのところなんですね。自分の生活、あるいは自分の家族が生きていくためには、他の人々のことを考えている余裕がない。これはお互いにそうなのではないでしょうか。自分がその立場だったらと考えてみればよく分かります。本当に厳しい悲しい現実です。

 原発関連の施設から遠く離れた地域、例えば、東京や名古屋や大阪などに住んでいる人の中には、今現在でも原発賛成という方がかなりいます。では、もし東京に原発を持ってくるということになれば、それでも賛成するのでしょうか。その方々は原発賛成と言うことなのですが、自分たちの住んでいるところに原発ができたとしても賛成なのでしょうか。おそらくそうではないと思います。

 今現在、原発賛成と言っている人たちの中でも、原発が自分の住んでいるところから離れたとことにあれば、原発に賛成するけれども、正直、自分たちのところに原発を持ってこられては困るという方が大部分なのではないでしょうか。

普天間基地の移転問題との類似
 この問題はなんとなく、普天間基地の移転問題と似ていますね。当時の首相は普天間基地を日本国外に移したい。もしそれがダメなら、少なくとも県外に移したいと言いました。

 ところがアメリカにノーと言われてしまったわけですね。それでは、他の県で引き受けてくれませんかと言っても、結局、どこも引き受け手がありません。どこの県の人びとも自分のところに新たに基地を持ってこられると困るというわけです。そうやって、結局、全部沖縄の人たちに押し付けてしまっているのです。

 この問題に関連して、多くの方々が沖縄の人たちに同情するような発言をしています。しかし、それだったら自分たちのところで引き受けるべきではないでしょうか。自分たちは沖縄の方々の苦しみを分かち合う気持ちも覚悟もなく、前首相の力不足ばかり責めるという人が多かったように思います。

 では、私たちはどうしたらよかったのでしょうか。私は、日本国民が結束して、日本政府に訴え、場合によっては、直接にアメリカ政府に普天間基地の海外移転を要求すべきだと思います。

 現在の国際情勢を考えれば、私たち自身が結束して「日本にはアメリカの基地はいらない」ということをはっきりとアメリカ政府に言うべきだ、と私は思います。しかし、あらためて充分議論を尽くした結果、もし「日本にアメリカの基地が必要だ」ということになれば、沖縄にばかりに基地を押し付けるのではなくて、日本全国で基地を分担して引き受けるべきだと思います。

エゴイズムが諸問題の根源
 いずれにしても、原発にしても、普天間基地の移転問題にしても、私たち自身の置かれた立場はいろいろ異なり、微妙な問題が背景にありますが、そこに見えてくるものは、それぞれの「自分さえよければ」という身勝手さ、あるいは、エゴイズムです。

 私は、結局、日本や世界のいろいろな深刻な諸問題の根源は「自分さえよければ」というエゴイズムにあると言ってよいと思うのです。エゴイズムを解消することなしには、日本や世界の深刻な諸問題は解決することはできないと思います。そういうことが、福島の原発大事故によってますます明確になってきたのではないでしょうか。

 福島の原発事故については、今後どのように収束していくかということは大問題です。同時に、私は、この機会を逃しては二度と原発を永久に廃止することも、日本を本当によい方向に変えていくこともできないのではないかと思います。そういう意味では、今がビッグチャンスだと思うのです。

日本と世界の未来は私たち一人一人の手の中に
ここまでで、原発関係のことについては、みなさんご承知のことが多かったと思います。問題は、結局「これからどうしたらいいか」ということです。

 ここまではっきりすれば、原発は全廃するしかありません。全廃するためには、私たち一人ひとりがその事実をはっきりデータとして確認をして、それを他の方々に確実に伝えていくということです。

 私たちは実は圧倒的多数なんですね、私たち一般の民衆は国民の99%を占めているのです。それなのに、これまでは1%の方々に完全に牛耳られてきたのです。私たち一人ひとりがもっと賢くなって、もっと力をつけて行動していくことが大切だと思います。

 私がここで言う「確実に伝える」ということの意味は、ある人に原発の真実を事実をもって伝える、ということだけでなく、このメッセージを99%の私たち全員に伝えるために、このメッセージを伝えられた人が、さらに他の人々に伝えていくという連鎖が起こらなければならないこと。その重要性をきちんと次から次へと伝えていくということです。

 この連鎖が起きなければ、原発を永久に廃止するということはいつまでたっても実現できないと思います。ましてや、本当に平和でみんなが幸福な社会を創っていくことはできません。このことは私たちが行動していくうえでもっとも大切なことだと思います。


原発だけ変えようとしても不十分
 ただ、果たして原発のことだけでいいのでしょうか。この社会で原発だけがポツンと異常なのではありません。政治、経済、福祉、教育、生活の問題など全部が密接に絡み合っているのです。

 ですから、原発の問題を原発という枠の中だけで解決しようと思っても、究極的には不可能だということなのです。この問題を解決しようと思えば、あっちの問題が出てくる。それを解決しようと思ったら、また他の問題が出てくる。というふうに、「もぐらたたき」みたいなことになっていると思うんですね。

 例えば、教育にはいろいろ問題があるから、変えなくてはいけない、と思っても、問題が大きければ大きいほど、教育という枠組み中だけでは変えることはできないのです。この社会全体がそういう仕組みになっているのであり、すべてが互いに密接に絡み合っているからです。

 この社会全体が競争社会です。その競争社会の中で、競争的教育でなく、本当に人間的な教育というものを目指すということ自体が非常に難しいということです。教育が変わるためには、特に、産業や経済のあり方が変わらなくてはいけません。そして、同時に政治も変わらなくてはいけません。

社会全体の方向性を考えることが重要
 この社会では、このようにすべてが密接に関わりあっているわけですから、 結局は、私たちはこの社会全体がどの方向に進んでいくのか、ということを考えなくてはいけない時期に来ているのだと思います。

 言葉を変えれば、私たちの文明は一体どういう方向に向かっているのでしょうか。そういうことを、これからお話してみたいと思います。

 例えば、今この社会は競争社会であると言いましたが、なぜ競争社会になっているのでしょうか。この社会の中になぜ、原発なんて危険なものが出てきたのか。なぜ、経済成長が大切だと言われるのか。こういうことを別の面から考えてみたいと思います。

エゴイズムがこの社会の基盤
 別の言い方をすれば、こういう原発の事故が起きてきた一番の根本的な原因は何なのか、ということです。その根本原因を探り当てて、それを取り除くことなしには、本当の意味で、この原発問題は解決していかないということです。さらには、それに付随した他の問題も解決していかないと思うのです。

 なぜ原発事故がおこったのか。その根本原因は何なのか。先ほども触れましたが、私たち自身の身勝手さというか、エゴイズムがこの社会の根底にあるのではないでしょうか。簡単に言えば、この社会自体がエゴというものをベースにして出来ているのではないでしょうか。

バラバラ観からエゴイズムが出てくる
 このエゴイズムというのは、結局は、お互いの存在がバラバラであるという思いから出てくるのだと思うのです。私たちは普段は表立って互いに対立したり、ケンカしたりしないけれども、結局は、元々お互いにみんなバラバラの存在なのだ。結局、一番大切なのは自分であり、自分の家族である。根本的にはみんな利害の対立する存在なんだという「バラバラ観」がこの社会の基本となっているのではないでしょうか。

 このバラバラ観から、最終的には、自分さえ良ければ、自分の家族さえよければ、あるいは自分の会社、あるいは自分の組織さえ良ければ、あるいは自分の国さえ良ければ、というエゴイズムが出てきているのだと思います。

 このエゴイズム社会の中で、企業であれば、他の企業よりも自分の企業が栄えることがなにより大切だとなるわけです。そして、そこには自分の生活もかかっていますので、なおさら自分の企業さえよければ、ということになります。

 エゴイズムはお互いがバラバラであるという観念から出てきます。そして、エゴイズムからいろんなことが出てきます。過剰な競争意識、すなわち、他よりももっと自分の方が物質的に豊かにならなければ、もっと高い地位や肩書きがなければ安定できないなどという意識です。常に「もっともっと」と求めます。それにもかかわらず、いつまでも心が不安で不安定な生き方です。

 人と意見が違えば、そこで怒りや妬みや憎しみが出てくる。自分ひとりになれば、孤独感にさいなまれたり、自分自身を責める。これらのマイナス感情はすべて、基本的には人間の存在がバラバラであるという考え方から出てきています。

本当はみんな一体である
 ただ、ちょっと考えてみればわかることですけが、人間は本当はバラバラではありません。当たり前のことです。みんな、一つのいのちを生きているのです。もともとはみんな同じ先祖から出来ているのです。ある科学的な研究によると、現在地球上に生きているすべての人々は、今から15万年ほど前に東アフリカに住んでいたある一人の女性の子孫だということです。

 それだけの事実を取ってみても、私たちはみんな「一つのいのち」を共有しているんだということですね。英語で言えばワンネス、日本語で言えば分けることのできない一体。みんなお互い切っても切れない存在だということが、私たちの真実なのです。

 人間の体はいろいろな組織とか細胞とか器官が、バラバラではなくて、みんな協力し合って一つのいのちを生きています。それと同じように、私たちはみんな分けることの出来ない密接な関係を持った、一体関係にあるのです。これが人間の存在の真実の姿だと思います。

 その証拠に、誰でもちょっと冷静になってみれば、私たちの中にみんなと仲良くしたいという気持ちがあることに気がつきます。人とケンカすると気持ちが悪い、仲良くしたい、みんなと共に幸せになりたいということは、誰でも持っている本能です。そういう共生本能が私たちにはもともと備わっています。この個体の自分を守ろうという本能もあると同時に、みんなが共に幸せになっていこうという共生本能もあるわけですね。

エゴイズムからの脱却
 この一体の真実は、人間だけのことではありません。すべての動物、植物、大自然や宇宙とぶっ続きのいのちを私たち一人ひとりが生きているのです。私たちが自然の中で、本能的に安らぎを感じるのは、もともと私たちが自然と一体だからなのだと思います。

 人間がバラバラであるというのは、非常に表面的な考え方で、本当はみんな一つなのですね。この「みんな一体だ」という見方に立ったときに、いろんなことが変わってくると思うのです。簡単に言えば、エゴイズムからの脱却が始まるのです。

 エゴイズムには個人エゴイズムだけでなく、家族、企業などの組織、地域、国家などの集団エゴイズムがあります。ある意味では、人類の文明をここまで発展?させてきた原動力はエゴイズムだということができるでしょう。

 しかしながら、このように人類社会がいろいろな深刻な問題でほとんど行き詰まりに瀕している現実をみれば、もはや、人類社会はエゴイズムでは発展することはできない。それどころか、エゴイズムによって自分たち自身を滅ぼしかねないところまでに至ってしまったと言えるのではないかと思います。

 要するに、これまでの人類社会のエゴイズムに基づく生き方や考え方が根本的に間違っているということなのです。およそ人間の個人的、あるいは社会的な苦しみや争いの根本原因はエゴイズムにあると言っても過言ではありません。

 この原発問題を含めて、この困難を乗り越え、平和でみんなが幸福な社会を実現するためには、私たちは今こそ腹を据えて本気でエゴイズムからの脱却を図らなければならないのだと思います。

個人のエゴイズム・団体のエゴイズム・国家のエゴイズム
 しかしながら、個人としてのエゴイズムからの脱却、あるいはエゴイズムを解消するということは昔から正しい宗教が目指してきたことです。宗教ではなくとも、良識ある方々が苦心し心を砕いてきた重要な課題です。そして、確かに、一人の人間として、自分のエゴイズムから脱却、あるいはそれを解消することほど難しいことはない、というのも厳然たる事実です。

 ところで、いろいろなエゴイズムの中で、人類社会の行き詰まりをもたらした最大のエゴイズムは国家エゴイズムです。現代の国際社会は国家を単位として行動しており、それぞれの国家の基本方針は「自分の国さえよければ」というエゴイズムに置かれています。それによって、国家間の猜疑と不信と競争と対立が起きるのです。

 それに加えて、国家エゴイズムによって、その国家の中に生きる個人や活動する企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても、「もっともっと」と物質的欲望が増大し、企業間の競争も激しくなります。

 企業間の競争や国家間の対立や戦争などにより、科学技術文明は急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、科学技術を進歩させます。さらには、資源獲得競争の結果、自然破壊も進むことになります。こうしたことの総合の結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているのです。

国家エゴイズムが諸問題の元凶
 このように、国家エゴイズムの対立が国際、あるいは国内のいろいろな深刻な問題の元凶なのです。同時に、深刻な諸問題の根本的な解決をするために、国際環境会議や軍縮会議などを開催しても、国家エゴイズムの対立のもとでは、互いに自国に有利に運ぼうとして駆け引きに終始して、一向に解決への合意に至らないなどの大きな障壁となっています。

 これまでも国家エゴイズムの解消の必要性が説かれることはありましたが、すべての国が話し合って一斉に国家エゴイズムを放棄することは机上の空論でしかありません。これは国際会議での駆け引きを見ても明らかです。

 人類社会、あるいは日本社会の危機を乗り越えるためには、これまでの人類社会の歴史の流れの中で解決しようとしても絶対に不可能だと思います。根本的に解決するためには、どうしてもこれまでの人類社会の歴史の流れの外に出るしかないと思います。

日本が率先して国家エゴイズムを放棄する
 それが、国際社会において、これまで自明のこととされてきた国家エゴイズムを、日本が他の国々に先駆けて一方的に率先して放棄するということです。前に述べましたように、個人的にエゴイズムを完全に脱却、あるいは、解消することは非常に難しいことです。それゆえに、それを国家に託すことに大きな意味があるのです。

 個人としては実現が困難なことも、国家に託すことはできると思うのです。国家エゴイズムが個人や団体などのエゴイズムを助長しているのならば、国家のエゴイズムを解消することによって、個人や団体のエゴイズムのレベルが下がってくることが予想されます。

日本にみんなに納得のいく理想を掲げましょう
それが私の提案する「国家エゴイズムを超えて、日本に脱国家エゴイズムの理想を掲げましょう」ということです。具体的には「日本が国際環境平和国家を目指す」ということです。この輝かしい理想のもとに、日本が国力をあげて平和的な手段で世界の困難な諸問題のために尽くそう、というのです。

 幸いにも、日本の現行憲法は人類史上初めての脱国家エゴイズム憲法です。これは、世界の国々の中でも、日本が脱エゴイズム国家を目指すという理想を掲げるのにもっとも有利な条件に恵まれているということです。

 国内的には、この素晴らしい脱国家エゴイズムの理想のもとで、産業、教育、福祉、環境対策などにおいて大きな変化がもたらされます。同時に、私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活が国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結することによって、私たちは日々生きがいと充実感を感じながら、個人的にも組織的にも、脱エゴイズム社会を急速に築いていけるでしょう。

 そうすれば、平和を愛する世界の心ある多くの人々は、これこそ人類社会が諸問題を解決するのにもっとも現実的な方策であり、正道であることを改めて納得することでしょう。そうすれば、世界のそれぞれの国において、国家エゴイズム放棄への気運が大きく盛り上がっていくに違いありません。そうすれば、意外に短期間でこの世界が脱エゴイズム世界になるのではないか、と私は考えています。

 あらためて述べますが、脱エゴイズム国家、脱エゴイズム社会を実現しようという方向、あるいはビジョンの中でこそ、原発問題も根本的に解決し、教育や環境問題などの深刻な社会的問題も根本的解決に確実に向かうのだと思います。これが拙著『国の理想と憲法』において提案した要旨です。

 最後に、より深くこの提案を理解していただくために、ぜひともこの『国の理想と憲法』を読んでいただ きますよう、皆様にお願いしまして、今回の話を終わります。


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2011年8月1日月曜日

福島の原発大事故から見えてくるもの(前編)

福島の原発大事故から見えてくるもの (前編) ある講演会の記録より

人類社会の行き詰まりと福島の原発事故
 私は2007年に『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』という本を出版いたしました。私は22歳のときにこの考えに出会いました。それ以来40年以上思索を重ねてまとめ上げた本です。

 現在世界は、戦争・紛争・テロ、環境問題・食料不足・貧困・飢餓、あるいはエネルギー不足などいろいろな困難な問題で行き詰まりに瀕しています。かつてない危機を人類社会は迎えています。

 また、その中で日本においても環境問題だけではなく、イジメ、不登校、学級崩壊などの教育問題、また、若い人たちを見ていましても、この社会において、手ごたえのある生きがいが持てないという人が多いようです。もちろん頑張っている若い人たちもいますけども、全体としては非常に無気力な傾向が見られる。これは、日本の将来にとっても非常に憂うべきことだと思います。

 その他、日米同盟を強化して日本がアメリカと一緒に戦争に参加するという方向性も段々傾向としては強くなってきております。その中で、あらためて日本の将来のキーポイントとなる憲法を果たして改正すべきかどうかなど、いろんなことで日本も行き詰まりに来ているようです。

 この人類史上かつてない危機は最近始まったのではありません。米ソが人類を数十回も皆殺しができると言われた数万発の核兵器を保持し、全面核戦争の可能性という極度の緊張状態の中で互いに対峙していた数十年に渡る冷戦時代には、まさに人類の生存そのものが危機に瀕していました。

 幸いにも、ソ連の崩壊で冷戦は終わりを告げました。しかしながら、以前ほどの緊張状態はなくなりましたが、依然として、米ロが多量の核兵器を保持しております。その後も、米ロだけでなく、中国をはじめとして核兵器を保持・増強する国々が増えています。確かに、全面核戦争の脅威は当面なくなったと思われますが、核戦争の危機は必ずしも去ったわけではありません。

 それに加えて、30年ほど前から地球規模の環境破壊の問題が大きく浮上してきました。このままの形態で生産活動と経済成長を続けていくと、将来この地球環境そのものが崩壊し、人類の生存そのものが脅かされかねないということが分かってきたのです。

 私は青年時代に私たちは自分たち自身を滅ぼそうとしてしまうかもしれないということを知った時に「人間は何と愚かなのだ」と大きな衝撃を受けました。同時に「人間は絶対そんな愚かな存在であるはずはない。人間はかならず自らの過ちに気がつき、自らの手でそれを改めて、みんなが幸せで平和な世界を実現することができるはずだ」と思いました。それ以来、日本および世界の行き詰まりを解決し、幸福で平和な世界を実現するということが私の一生のテーマとして思索を重ねてきました。

 その思索の主なテーマは、人類社会の行き詰まりを解消するために、人類社会が行き詰ってきたその一番の根本原因を見つけ、それを取り除くにはどうしたらよいかということです。このようにして、まとめ上げたのが「国の理想と憲法」という本です。

たびたび警告されていた原発の大事故
 この本の中では、日本を含めて人類社会全体が行き詰りの状況をいろいろな面から説明しております。原発事故の危険性についてもかなり詳しく書いております。

 今年の3月11日に福島第一原発の事故が起こってから、すでに2ヶ月ほど経過しましたが、当日我が家も震度6弱という大きな揺れを感じました。その後しばらくして、この原発事故の報に接したわけですが、私がまず最初に感じたことは、「やっぱり起こってしまった」ということです。その時の心境を表すとしたら、まさに「無念」という言葉しか浮かんできません。

 というのは、私はすでに4・5年前にこの本の中で、原発事故の危険性が非常に大きいこと。そして事故が起こるとすれば、このような形で起こるに違いないということを書いております。まさに、その通りのことが起こってしまったのです。

 実は私自身、自分の予想が当たったということに、逆にとても戸惑いを感じました。それはどういうことかと言いますと、私は原子力関係の専門家ではありませんし、社会科学の専門家でもありません

 私はかつて米ソが互いに数万発もの核兵器を擁して対峙するという人類史上かつてなかった危機的状況の中で、「核のない世界」を実現するにはどうしたらよいのかということを真剣に考え始めました。そういうことから核兵器や原発に関してはいろいろと調べ、世の中にも発信してきました。

 この『国の理想と憲法』という本をまとめるに際して、あらためて関連するいろんな分野の本を読んでみました。 これまでに原発関係の本はおそらく数十冊は目を通しているとは思います。それらの本を読んであらためて思ったことは、すでに数十年前から、数は決して多いとは言えないまでも、真面目な研究者や心ある識者によって、科学的な知識や研究に基づいて「原発は非常に危険性である」ということが継続的に警告されてきたということです。

 それらの警告にも関わらず、とうとう今回のような大きな原発事故が起こってしまったのです。私は自分たちはいったいこれまで何をしてきたのかと改めて思い愕然としました。

 これまでいろいろな人が原発の危険性について熱心に警告してきました。もちろん、それらの人たちの警告に耳を傾け、懸命に脱原発への声を挙げ、活動してこられた多くの人々がいらっしゃるわけです。こうした努力や活動にも関わらず、今回大きな事故が起きてしまいました。

 ということは、全体としてはそれらの警告に本気で耳を傾け、それに基づいて積極的に行動する人々がまだまだ少なかった。その結果、この日本を動かしていく決定的な力になり得なかったということではないでしょうか。

福島原発事故の本質を探る
 すでに福島において大きな原発事故が起きてしまいましたが、このようなことを二度と起こさないためにも、私たちは今こそあらためて「本気で考え、本気で行動する」ということの重要性を問い直してみるべきだと思うのです。

 先ほど申しましたように、私は原発関係の専門家ではありません。そういう面では全くの素人です。ただ、少なくとも4年前の時点では、『国の理想と憲法』を執筆するためにいろいろな本を読んで勉強をしたおかげで、原発に関しては一般レベルの人たちよりは詳しかったと思います。

 ところが、福島の原発事故が起こって、テレビ、新聞、インターネット等でいろんな人が原発について発言されております。いままで声が小さかった人の声もかなり大きく取り上げられるようになっています。したがって、これからお話申し上げることは、皆さんも、もうすでに十分ご承知のことが多いのではないかかと思います。

 そうではあるのですけども、改めてもう一度それを確認にしながら、問題の本質を探って行きたいというのが今日の講演の主題なのです。

原発の安全神話が覆された
 まず、ここまではっきりしてきた最も大きなことは、電力会社と政府、あるいは経済産業省が、これまで原発は絶対安全だと言ってきたこと、原発の安全神話が完璧に覆されたということです。

 それに付随して、これまで電力会社が嘘に嘘を重ねていたということがはっきりしたということですね。ということは、これから東京電力、中部電力、あるいは関西電力などの電力会社が何を言おうと、信じきれないものがあるという状況になってきたということです。

 簡単に言えば、私たちは国からも電力会社からも騙されてきた。言葉を変えれば、完全になめられていたんだなということです。分かってはいたことですけれども、あらためて非常に悔しい思いをしております。

 それから、東電や政府関係の発表において「想定外」という言葉が非常に多く使われましたね。これについてはいろんなことが言われていますけども、私のような素人でさえもちょっと勉強しただけで、こういう事故が起こる可能性があるということを「想定」できたわけです。

 このように素人にも分かるようなことを、専門家と言われる人たちが、想定外という言葉を使うのはいったいどういうことなのでしょうか。

 実は、私も原発については素人なのですが、以前は一応理系の研究者でした。その立場から言えば、専門家が想定外という言葉を乱発するのは非常にみっともないと感じてしまうのです。なんとか言い逃れをして、これからも原発を続けていきたいという意図が見え見えですね。

原発はコストが安いか
 もう一つ、これまで政府や電力会社などは原発推進の根拠の一つとして、原子力発電は火力その他の発電方式に比べると価格が安いということをずっと言ってきました。

 例えば、経済産業省の「エネルギー白書」(2010年版)によると、液化天然ガス火力の発電コストは1キロワット時あたり7~8円、水力は8~13円、さらに風力は10~14円、太陽光は何と49円となっています。それに比べて、原子力は5~6円となっています。

 しかし、これもこれまでも何人かの専門家が、原発は決して安くはない、火力に比べても安いものではないとういうことをデータに基づいて言ってきているのです。

 最近では4月30日の東京新聞に、立命館大学の大島堅一教授が、これまでの原子力発電のコストを、火力・水力などと比較したデータを挙げておられます。これはインターネットでも検索することもできます。大島教授は電力会社自身の報告書を下に、経済産業省の試算には入れてなかった原発開発を促進するための税金や使用済み核燃料の再処理費用などを加えて、コストをより精密に計算をしました。

 それによりますと、1キロワット時で火力が9.90円、水力が7.26円、原子力が10.68円となり、原子力が一番高くなっています。また、これは先の「エネルギー白書」で国が使う試算5~6円の約2倍になっています。
 また、原子力発電をするためには、揚水発電所が必要です。つまり、原子力発電と揚水発電のセットになっておりますが、その場合には12.23円となっています。つまり、原子力は決して安いものではないのです。

原発は石油の節約になるか
 原発推進論のもう一つの根拠は「原発は石油の節約になる」という主張です。果たしてそれは真実なのでしょうか?

 それを確かめるためには、ある発電方式で発電をするために投入したすべての石油のエネルギー量と発電された電力を石油に換算したエネルギー量の比、すなわち、電力産出比を計算すればよいということになります。

 石油に換算された産出エネルギーが投入エネルギーよりも大きい場合、つまり、電力産出比が1より大きい場合にはエネルギー収支はプラスとなり、その発電方式には実施する意味があるということになります。そして、電力産出比が大きければ大きいほど、エネルギー収支から見て、その発電方式が効率的だということになります。つまり、経済的にも得ということであり、石油を節約できているということになります。

 逆に、電力産出比が1より小さければ、エネルギー収支はマイナスと言うことになり、その発電方式自体実施する意味がないと言うことになります。それどころか、実施すれば、経済的にも損だということであり、石油の無駄使いということになります。

 例えば、石炭火力発電の場合は、石油を1使って掘った石炭で作れる電力は石油に換算して100ぐらいだそうです。つまり、電力産出比は100で、石炭火力発電は意味があるということです。

 ところが、石油を使って石油を掘り、それを燃やして発電する、いわゆる、石油火力発電の場合は、電力産出比は100よりもずっと大きいのです。ということは、エネルギー収支から見ると、石油火力発電の方が石炭火力発電よりもずっと効率がよいということになります。そのために、石炭火力発電が衰退したというわけです。

 では、原子力発電の場合はどうなのでしょうか。1976年のアメリカ・エネルギー開発庁の試算によれば、電力産出比は3.8となっています。1991年に日本の電力中央研究所の発表によれば、計算の内訳は未公開ですが、4.0となっています。二つの値がほとんど同じであるのは、モデルの組み方や途中の過程などどちらも同じような前提に基づいて計算したためだと思われます。

 当然のことですが、エネルギー収支を計算するためには、計算の前提となる条件に漏れ、つまり、積み残しがあっては正確な計算結果を導くことはできません。

 まず、投入エネルギーを計算するためには、発電するために投入したすべてのエネルギーを合計しなければなりません。例えば、ウランの採掘・精製、発電所の建設費、発電作業自体のコスト、原発を動かすための揚水発電所の建設費など全部組み入れます。産出エネルギーからは、揚水発電所の夜間電力や送電によるロスや、原発の廃棄物の処理にかかる費用なども差し引く必要があります。

 物理学者の槌田敦氏は、米国エネルギー開発局の計算には、かなりの積み残しがあると指摘し、それらを補正して、次のような計算結果を出しています。

 「投入エネルギー」については、積み残しとして、原発の稼動に必要な揚水発電所の建設、発電所の建設や運転に使う電力、遠距離の送電設備の建設を加えます。また、「産出エネルギー」からは、揚水発電の夜間電力のロスや送電での損失を差し引きます。そうすると、エネルギー収支はほとんど1となるのだそうです。

 これだけでも原発をやる意味はないということになるのですが、さらに、長年にわたって放射性廃棄物の処理などにかなりのエネルギーを消費することを加味すると、どう楽観的にみても、エネルギー収支は1以下になってしまいます。数理経済学者の室田武氏も、ほぼ同様の計算結果を出しています。

 これらの結果から言えることは、原子力発電は発電所としてはまったく意味をなさないということです。それどころか、原子力発電は石油の節約にならないどころか、大きな無駄使いだということです。

 要するに真実は、原発はまず超危険である、原発は高くつく、原発は石油の節約にもならない、ということなのです。

原発なしでやっていけるのか
 それからもう一点ですね、よく言われるのが「原発なしでやっていけるのか」ということです。確かに、電力が不足すれば、家庭生活をはじめ、産業・経済活動その他、生存にともなうすべての活動に支障をきたすことになるわけですから、これは大変大きな問題だと言えるでしょう。したがって、今なお多くの人々が「原発がなければ電力不足になる」と言って、それを原発続行あるいは推進の大きな根拠とされているようです。

 それは果たして真実はどうなのでしょうか? 実際の数字で見てみましょう。京都大学原子炉実験所の小出裕章さんも指摘されていますが、日本全体では火力発電の稼働率は50%、水力発電の稼働率は19%です。つまり、原発を稼動しなくても、火力と水力の稼働率を上げれば、まだまだ発電能力に十分な余力があるのです。

 事実、火力と水力の発電能力の合計は17000万キロワット(KW)で、真夏の昼間の数時間を除いて、原子力なしでも火力と水力の合計で需要電力量をまかなえています。日本のこれまでの最大消費電力の記録は18200万キロワットなので、火力発電と水力発電の合計を上まわるのは、差し引きした約1200万キロワットになります。

 わずかですが、電力不足になるのは、冷房を使う夏の一時期に消費電力がピークとなる数時間だけです。したがって、このピーク時の電気の総使用量を抑える効果的な対策をとることにより、脱原発は充分可能なのです。

 ピーク時の電気の総使用量を抑えるためには、冷房の温度設定を少しだけ高めに設定し、冷房による消費電力を抑える。あるいは、工場などにおいてピーク時における電力消費を抑えるために、機械類の稼働時間をずらすなどの生産調整をする。さらには、フランスのようにピーク時の料金を高く設定することにより、電気の総使用量を抑えることなどが充分効果的な対策となります。つまり、原発なしでも充分やっていけるのです。
 
 もう少し具体的な事例を参考に考えてみましょう。
現在、浜岡原発が一時的に差し止め、つまり中止になっておりますけども、中部電力のHPの平成23年度「電力供給計画」によりますと、22年度の供給予備力は295万キロワットとなります。ところが、猛暑だった去年の真夏に稼働していたのは浜岡3号機と4号機だけで、その供給力は223.7万kWでした。

 ということは、浜岡3・4号機がもし止まっていても供給予備力は295万kW-223.7万kW=71.3万 kW余っていたということです。
 さらに、今年の供給予備力は439万キロワット。 浜岡原発を全部止めて361.7万kW分減らしても、77.3万kW以上余ると中部電力自身が予想しています。原発なしでも火力、水力、あるいはその他のエネルギーによって十分間に合っているんですね。

 また、2011年6月12日の朝日新聞には「夏の電力需要、供給力確保か 東電、広野発電所再開へ」という見出しで、次のような記事が出ています。

 「東日本大震災の津波で被害を受けて停止した東京電力広野火力発電所(福島県広野町)の全5基(出力計380万キロワット)が、7月中旬にも運転再開できる見通しになった。これにより、東電は5500万キロワットと予想する今夏の最大需要を上回る供給力を確保できる可能性が高まってきた。(中略)
広野火力が立ち上がれば、夜間に余った電力で水をくみ上げて発電する揚水式発電による上積みも可能になる。」

 つまり、東電管区内においても、今年の夏も原発はなくてもやっていけそうだという記事です。ですから、例えば、みんなが冷房の温度設定を一度くらい上げれば、原発一基分ぐらいの節電は簡単にできるそうですから、企業を含めて私たちが仕事や生活の中で節電を心がければ、とくに大きなガマンを強いられるということもなく、電力不足を回避することは充分可能なのです。

 要するに、これからはこれまでのように電力を湯水のように使うことは改めて、できるだけ節電を心がける必要があります。そうすれば、原発はなくとも、火力や水力、あるいは自然エネルギーだけで、現在の生活のレベルや企業の作業能率を落とすことなく、また、生産コストを上げることなくやっていけるということです。

 政府はここ数十年にわたって原発推進を国策としてきました。そのために、火力と並んで原子力を発電の2本の大きな柱としてきました。つまり、もともと、発電の主力を原発以外の火力などでやっていれば、それだけで充分必要な電力はまかなえていたにもかかわらず、国の政策として、原発が現実の日々の発電のシステムにしっかりと組み込まれ、私たちの生活や経済活動などが原発に依存せざるをえないような仕組みにしてきたのです。

 したがって、今急に原発をすべて廃止するということになれば、現実問題としては、調整が追いつかずに、一部の地域において一時的に電力不足になる可能性はあるかもしれません。そういう意味では、電力が不足するかもしれないこの期間をどう凌いでいくかということは大きな問題であることは確かであり、慎重に対処しなければならないことは当然のことです。
 

テロ攻撃などによる大事故の可能性
 もう一つ、今回の事故は地震と津波によって起こったわけですけども、もう一つ考えておかなくていけないことがあります。
これはあまり言われていないのですけども、実は、原発の事故は飛行機の墜落、あるいは、ミサイル攻撃やテロ攻撃を受ければ、大事故が起こる可能性が非常に強いということです。

  原発の原理的あるいは構造的なことから言って、飛行機の墜落や武力攻撃を受けた場合には原発の大事故を防ぎきれないということです。
つまり、原発は飛行機の墜落や武力攻撃されることを想定して設計・建築されているのではなく、あくまで、戦争とかテロの無い、いわゆる「平和といわれる時代」において稼動することを前提として、構造が設計されて建設されているということなのです。

 ということは、日本の場合には原発が54基あるということですが、ほとんど全国的に、その沿岸に原発が配置されているわけですね。もし日本を攻撃する意図を持った国があるとすれば、これは日本全国に仕掛けた核爆弾と全く同じなわけですね。

 もし、飛行機、ミサイル、あるいはその他のテロによって、原発を攻撃をすれば、日本に何発もの原爆を落とされたことになります。そうなれば、日本は事実上壊滅して、日本にはもはや人が住めるところがなくなってしまいます。これは非常に大変な状況ですね。

 その意味では、日本が原発を保持しているかぎり、どれだけ軍事力を増強しても、原発に対する他の国々からの攻撃を防ぐことは不可能です。ということは、これはブラック・ユーモアにしかなりませんが、日本が今後も原発を保持していくのなら、軍事力を全廃して、絶対に他の国々から攻撃を受けない絶対平和友好国家を目指すしか、日本が生き残る道はありません。

 ちなみに、欧米諸国は原発テロを想定した研究や訓練を実施しています。1981年には実際にイスラエルによってイラクの原子炉が爆撃されました。

 (付記:2011年7月31日の朝日新聞によると、イラクの原子炉爆撃事件を受けて、外務省は極秘に国内の原発が攻撃を受けた場合の被害予測の研究に着手しました。そして、1984年に、原発攻撃により多大な被害が引き起こされるという報告書が提出されました。しかしながら、反原発運動の拡大を恐れて公表しなかったとのことです。)

全部騙されてきた
 さてここで、ここまでいろいろ検討してきたことをまとめてみたいと思います。一言で言えば、結局は、私たちは全部騙されていたんだなと、ということではないでしょうか。

 これまで、電力会社や国によって、絶対安全だと言われていた原発が、今回の福島原発の大事故で、原発は超危険だということが事実によって証明されてしまっただけでなく、これまでメリットとされ、原発推進の根拠とされていたことのすべてが、本当はデメリットでしかなかった、ということです。

 これは一体どういうことでしょうか。簡単に言えば、つまり、最初から原発をやる意味がまったくなかった。原発によって一般の私たちは大損するばかりであり、超危険だということです。それが今回の福島の原発事故を通じて多くの方々に明らかになってきたということでしょう。

 ここでもうひとつ大切なことは、先ほども言いましたが、これらの事実は何十年も前から心ある人たちが繰り返し警告してきた事実であるということです。

 同時に、それらの警告の声を封じ込めてきた電力会社や政府、官僚、政治家、あるいは財界、あるいは研究費ほしさの御用学者や御用メデイアなどの勢力があったということです。そして、私たちの多くは「お上」すなわち、国や電力会社などが言うことを無条件に信じ込み、また、どこかで疑いながらも、それを見て見ぬ振りをしたり、あるいは、それらのことにまったく無関心で生きてきた。それらが相まって、今回の大事故に繋がったと言えるのではないでしょうか。

無知・無関心・他人任せ・あきらめ根本原因
 要するに、私が言いたいことは、一方的に電力会社とか国を批判するというだけで、この問題を済ませようとするのではなく、ここで私たちは私たち自身の生きる姿勢をきちんと反省するべきではないかということです。

 例えば、情けない話ですけれも、今回の福島の原発事故があるまで、日本に54基もの原発があるということを知らなかったという人も結構多いのです。また、今回の事故ではじめて原発は危険だということが分かった、という声も随分聞こえてきます。

 つまり、原発に関しては国や電力会社などが悪いということは明らかな事実ですが、同時に、私たちも足りないところが多々あったと思うのです。結局、結果としては、私たちがこのような電力会社や国などを支えてきたのだということです。

 この事実をきちんと反省しなければ、今後、本当の意味で平和で幸福な日本を創っていくことはできません。きちんとした自己反省なしには、原発問題にしても、今後状況しだいでどのように判断が狂ってくるかもしれませんし、原発以外の深刻な社会問題、例えば、憲法改正問題などについても間違った道を選択する可能性が出てくると思うのです。そういう意味でも、今私たちは大きな岐路に立っていると言えるのではないでしょうか。

 逆に言えば、私たちは今こそ全力をあげて、この困難な状況を一日でも早く復旧しなければならないと同時に、原発だけでなく、2度とこのような惨事が起きないように、この困難な状況を引き起こした根本原因を探り、国や社会のあり方はもちろん、私たちの個人としての生き方に徹底的な根本療法を施し、本当に平和でみんなが幸福な日本を創っていく契機としなければならないと思います。

お上信仰ではダメ
 もう少しこの辺のところについて考えてみましょう。日本人の一般的傾向として「お上信仰」というものがあるんですね。お上の言うこと、例えば、政府のお偉方、大学の教授、大会社の社長が何かを言うと、何となくそれを鵜呑みにする傾向があるようです。

 もちろん、政治家については、例えば、今の首相はどうのこうのと文句をつけるような会話も聞こえます。でも全体的には、日本人の体質として、本当は上も下もないので「上の」と言い方はおかしいのですが、「上の方」から言われたことは、そのまま鵜呑みにしてしまう傾向があるように思います。それが、この原発問題の根本的な原因のひとつとして、私たちの側にあったのではないでしょうか。

 もう一面から言えば、そういうことを詳しく、というか、正しく知ろうとしない。そういうことはお偉方の考えることで、私には関係ないという無関心。そして、自分にできることでもないとする他人任せ。その無関心と他人任せから来る無知。何だか偉そうに言っていますけども、私自身にもその傾向がないとは言えません。

 もう一つはあきらめですね。心のどこかで「そういうことは結局どうにもならないんだ」と思っている人が非常に多いのではないでしょうか。「私たち一人ひとりが声をあげても、結局、どうにもならないのだ」というあきらめです。

 この無知と無関心と他人任せとあきらめ。これが福島の原発事故を起こした、一番の原因である。電力会社や国の姿勢を責める前に、私たち自身が一人ひとりが反省しなくてはいけない、と言えば、言い過ぎになるでしょうか。

 私は私自身、今このように言ってみて、決して言い過ぎなどではなく、あらためて、この「無知と無関心と他人任せとあきらめ」こそ、今回の福島原発の大事故の根本原因だという感を深くしています。

 つまり、一般的に私たち一人ひとりに「この社会、この国、この世界が自分たちのものだ」という当たり前の認識が欠けているということだと思います。そのために「自分たちが、自分たちの手で、この社会を、この国を、この世界を創っていくのだ」という自覚が私たち自身に欠けていたということです。国に関して言えば「将来どういう日本を創っていくのかという明確なビジョン、誰にでも納得できる本当の理想が日本という国に掲げられていない」ということではないでしょうか。

まだまだ原発賛成者は多い
 これまでお話してきたことから、みなさんもお分かりになっていると思いますけども、例えば「原発は決して安くない」ことなどについては、少し調べるだけで誰でもわかることですね。


 原発や放射能は何となく怖い。現実に事故も起こってしまった。だから自分は原発には反対だと思っているとします。ところが、実際に話してみると、自分の周りには原発賛成者、原発推進者がたくさんいるんです。

 原発はどういう状況になっても絶対反対、つまり、これから脱原発社会を創っていくのだという人はまだまだ少数だというのが実感です。新聞などのアンケートでは、原発反対が70%ぐらいになっているみたいですけども、実際、日常的にいろんな人に聞いてみると、何が何でも脱原発という方々は全体の4分の1ぐらいです。

 残りの4分の3は、今は原発がないほうがよいと思っているのだが、もし原発なしで電力不足になるのなら、あるいは、自分の仕事に不利な影響が出るのなら、あるいは、経済成長を維持できないのなら、原発続行もやむをえないのではないかなどと思っているようです。要するに、今は原発反対という気持ちが強いけれども、状況次第では、原発続行、あるいは推進に変わる人が結構多いように思います。

 ということは、仮に4分の1の人たちがどんな状況においても絶対反対だと言っても、状況しだいで、残りの4分の3の人たちが賛成すれば、やはり原発は続いていくのです。

 おそらく電力会社、あるいは政府関係、あるいは官僚とか原発続行したり推進することで得する人たちがいて、それらの人たちが結束して、原発を推進してきたのだと思うのですが、そういう人たちは人数的には国民全体の1%ぐらい、あるいは、それ以下なのだと思います。

 残りの99%、これが一般の民衆です。つまり一般の民衆である私たちが、原発は本当に意味がないし、何のメリットもない。もちろん、石油の節約にもならないし、二酸化炭素排出の削減にもならない。そのうえ、とてつもなく危険だ、ということをはっきり理解しさえすれば、原発を永久に廃止することができることになります。

原発にメリットは一つもない
 ここは大切なところなので、もう一度繰り返します。多くの人々が原発にはメリットとデメリットがあると思っています。そして、メリットとデメリットを天秤に掛けて、どちらが重いかと比べてみて、原発賛成、反対を決めようとしています。

 デメリットのなかでもっとも大きなものは原発は超危険だということです。仮に、原発にいくつかのメリットがあるとしても、この超危険だというデメリットだけでも、メリットのすべてをあわせたものよりはるかに重いので、私自身は直ちに原発は廃止にすべきだと思います。

 ところが、そこに価値観の違いという問題があるのです。例えば、ある人は次のように言うのです。「何よりも大切なことは経済成長である。経済成長には電力が必要だ。原発が危険であったとしても、必要な電力を供給するために原発は必要だ。」

 要するに、経済成長のためには、たとえ原発に危険な面があったとしても、原発は必要だという理論です。「経済成長」という言葉を「現在の生活維持」あるいは「現在の仕事の継続」あるいは「現在の収入の継続的確保」と言い換えてもよいでしょう。

 こうなれば、一人ひとりの価値観によって原発賛成、反対が違うということになり、また、その時その時の社会状況により人々の考えが変わってしまいます。これでは何時までたってもはっきりした結論は出るはずがありません。また、そこで無理やりに結論を出しても、その結論が間違っていれば、将来に禍根を残すことになってしまいます。 

 ところが、私がこれまで述べてきたことは、「実は、原発にはメリットはまったくない」ということです。これまで、メリットと言われていたこともすべてその実態を調べてみると、原発ならではのメリットとは言えない、むしろデメリットだということです。

 このように、原発にまったくメリットはないということがはっきりすれば、後に残るのは原発は超危険だというデメリットだけということになります。ということは、原発は何が何でも早急に、そして永久に廃止にするべきだということです。

自分が分かっただけではダメ
 ここまで述べてきたことは皆さんにもすでに納得していただけたと思います。 ただ、それだけでは、何も変わっていかないと思うのです。

 原発に関する本も読んでみた。サイトも覗いてみた。講演会にも行って話を聞いた。なるほど、原発は危険だ。原発にはなんのメリットもない。原発をやる意味はないことがよくわかった。だから、私は原発には反対だ。これはひとつの進歩だと言ってもよいのかもしれませんが、これだけでは、原発を早急にかつ永久に全廃することはできないと思うのです。

 要するに、「自分は原発には反対だ」と自分だけで終わっていては何も変わらないのです。これは過去の歴史が数多くの事実をもって証明しています。簡単に言えば、「平和は祈るだけでは実現しない」とうことです。

 私たちは真の平和の実現に向かって、確かな具体的な手段をもって、果敢に他の人たちに自分の思いを伝え、賛同者を増やしていかなければならないのだと思います。つまり、私たち一人ひとりが「真に行動する人」にならなければ、この社会は何も変わらないということが、私たちが今回の原発事故から学ぶべきもっとも重要な教訓ではないでしょうか。

他の人に伝える力をつける
 そのためには、まず、私たち一人ひとりが「なぜ、原発は早急に全廃しなければならないか」ということを理論的にも、事実としてもきちんと理解しなければなりません。そして、それを他の人たちにきちんと確実な理論と事実をもって説明していける実力を付ける必要があります。そして、機会を見つけては積極果敢に他の人にその真実を伝えていくことだと思います。

 そのために、心がけて関連する本を読んだり、サイトを覗いたり、講演会や学習会に参加することは自分の実力をつけるためにも大変有効です。また、知人によい本やサイトを紹介したり、講演会や学習会に誘うこともとても有効なやり方だと思います。

 ここで、例えば、「経済成長を続けるために原発が必要だ」あるいは「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」あるいは「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」などという意見に対して、あなたはどう答えますか。

 最初の「経済成長を続けるために原発が必要だ」という意見に関しては、すでに述べたように、発表されているデータの数字をあげて「原発がなくても、火力や水力で電力は足りている」ことを示せばよいでしょう。

 二番目の「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」という意見については、確かに、現在の段階では、自然エネルギーによる発電が不安定で、発電効率が大きくないということは事実です。

 自然エネルギー発電を普及・拡大するには、今後大幅な技術革新により発電効率を上げることと同時に、スマート・グリッドのようにコンピューター技術による安定・制御技術の向上が望まれるところです。そうすれば、将来的に有望な発電方式として自然エネルギー発電はますます重要なものとなっていくでしょう。

 また、原発の発電効率は火力や水力に比べても決して高いものではないので、その面からも火力や水力、さらに自然エネルギーで充分必要な電力はまかなえるのです。

 三番目の「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」という意見については、ちょっと考えると「それはすごいな」と思ってしまうかもしれません。しかし、これは数字のトリックですね。

 確かに、ウラン1グラムで石油の2トン分のエネルギーが出るというのはすごいですね。ところが、最初からウランの精製されたその1グラムがあるわけじゃないのです。地中を深く掘って、そこからウランを含んだ土であるとか岩石を取り出してくるわけですね。その中にごく一部分ウランが含まれており、またそのウランのまたごく一部分0.07パーセントがウラン235で、それが原発に使われているのです。
 ということは、最初の土や岩石などに含まれていた段階からずーっと濃縮を繰り返してきた最後の1グラムが石油2トンのエネルギーに相当すると言っているだけなのです。ですから、最初の地中で土や岩石の状態で石油と比べれば、決してそれだけのパワーをもっているわけではないのです。

 濃縮・精製されたウランは持っているに違いないのですが、そこまで濃縮・精製するまでには大量の石油あるいは石油で作った電気が必要だというわけです

 以上のように、一つひとつ事実を検証していくと、いろんな人が原発は必要だと言われるその根拠を、一つ一つ確実に論破して説得することができます。

確実に他の人に伝える
 このように、原発の真実について、一人ひとりが他の人たちに確実に伝えていく。確実に5人でも10人でも100人にでも伝えていく。伝えられた人がまた5人でも10人でも100人にでも伝えていく。その連鎖が最終目的までずっと続いていくということでなければ、本当に原発を廃止することはもちろん、本当に平和でみんなが幸福な社会を実現していくことは不可能だろうと思います。

 私たち一人ひとりが、これまでそうできなかったことが、福島原発の大事故を引き起こしてしまうような日本にしてしまった一番の原因だと思います。その意味で、私たち一人ひとりにとって、「本当の幸福とは何か」ということを真剣に考え、「本気で行動する人となる」ということが、今もっとも必要なことではないでしょうか。

(前編の終り。後編に続く。)

2011年1月10日月曜日

徒然抄 幸せの法則ー2

本当に幸せになるために

実践的角度から

* 本当に幸せになりたければ、まず人を幸せにする
ことです。

* 欲しければ、まず人に与えることです。

* 本当に自由になりたければ、人を自由にすることで
す。

* 愛してほしければ、まず人を愛することです。

* 心から安心したければ、人を安心させることです。

* 本当に仲良しになりたければ、自分から仲良くする
   ことです。

* 自分を理解して欲しければ、まず人の言うことをよ
く聴くことです。

別の角度から

* 本当は何も心配することはないのです。

* 本当は何も恐れるものはないのです。

* 本当は自分だけの幸せなどないのです。


人生の宝庫を開く三つの鍵 
(和田重正先生のお言葉)

1 ケチな根性はいけない

2 イヤなことはさけないで

3 ヨイことはする

この三つの鍵をいつも胸のポケットに入れて携帯し、
その活用を工夫してください。


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2010年12月20日月曜日

まごころを丸出しにして生きようーーーある講演会の記録から

まごころを丸出しにして生きよう

はじめに

 今回私がここでお話をさせていただくことになりましたのは、一昨年に出版しました『国の理想と憲法』という拙著がきっかけです。後でこの本の内容にも少し触れたいと思いますが、おかげさまで、聖路加国際病院の日野原重明先生をはじめ、多くの方々から大変好意的なお言葉をいただいております。数名の著名な方々からは「この本は現代のバイブルである」などと過分なお言葉も頂戴いたしました。この本のご縁で、いろいろな方々とご縁ができ、今日ここでお話をさせていただくことになったわけです。改めて、皆様にこころより御礼申し上げます。

どこに心を据えて生きるか

 さて、お釈迦様は菩提樹の下で明けの明星をご覧になり、大悟徹底されました。これから私の話をお聞きになられて、お釈迦様の悟られた内容を、体得はともかくとして、少なくとも、知的になるほどそうだなあと納得される方がかなり出てくるかもしれません。そういうことを狙って、今日はお話させていただきます。それは要するに、私たちはどの辺に心を据えて生きていけば、安心して幸せな人生を送れるのか、ということです。これから私の体験と思索を通して得たものをお話しさせていただきたいと思います。その結論が、今回のお話のタイトルである「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということです。

 「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということは、簡単と言えば、簡単な生き方だと思います。と、同時に、あぶなっかしい生き方だなと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私がそのように生きようとはっきりこころが決まったのは26歳の時でした。それ以来今日まで40年間一度も迷わずにこの道を歩いてきましたが、今でもこれで正解だったと思っています。私は、仏教的生き方のエッセンスは「まごころ丸出しで、安心して生きよう」ということではないかと考えています。しかし、この単純なところに私の腰が据わる26歳の時までには、長い苦しみと葛藤がありました。まず、その辺りの経緯をお話ししてみたいと思います。

生への目覚め

 私は体力もなく、他に何も頼るものもないということから、中学、高校時代はとにかく学校の成績を上げて、将来は安定した会社にでも就職できればと考えていました。幸いにも大学にも進学でき、このまま行けば、卒業後それなりの仕事には就くことができそうだということで、大学生活をエンジョイしていました。

 ところが、20歳のある日、突然「長い宇宙の歴史の中で、この自分の人生は一回きりなのだ」ということに、気がつきました。これは本当に衝撃でした。そして、「自分の人生は一回きり」ということならば、「その人生を最高の人生、こころから納得の行く人生にしたい、しなければ」と思ったのです。振り返ってみると、それまで自分が考えていた将来の生き方は、お店のショ-ウインドーのなかのいくつかの品物の中から、どれがよいかと選んでいるようなもので、既製品の生き方でしかない。自分の中から、どうしてもこう生きたいというという生き方ではなかった。それでは本当には「自分が生きている」とは言えないということに気が付いて、愕然としました。

 その時以来、では、自分はどのように生きたいのか、どのように生きれば、こころから納得がいくのか、ということが私にとって大問題となりました。いろいろな本を読んだりしては、懸命に考えるのですが、結局分かりません。勉強の方も以前ほどは熱心にしなくなりました。そうこうしているうちに4年生になり、就職活動の時期がきました。それでも、自分のこころが定まりません。自分が本当に望んでいるものが分からない状態で、就職を決めてしまうことに大きな抵抗があったのです。結局、もっと考える時間がほしいという思いだけで、東京の大学院に進学することにしました。

自由に生きることの恐怖

 しかし、大学院で勉強も一応はやってはいるのですが、身が入りません。自分はどう生きればいいのか、ということばかり考えていました。人生論、宗教関係の本も読みました。それでもなかなか分かりません。最高の人生を生きたいと思いながら、それだけに内心とても苦しい日々でした。それでも、そうこうしているうちに、自分が本当に望んでいる生き方が次第にはっきりしてきました。それは「世間の何物にも捉われずに、自由に生きたい」ということです。

 こうして、自分が本当に望む生き方がはっきりすると、今度はとても怖くなってしまいました。というのは、「何物にも捉われずに生きる」ということは、「世間的なレールに捉われずに生きる」ということだからです。「レールから外れててでも自由に生きたい」と思えば思うほど、いざとなると、怖くて、怖くて仕方がないのです。これまでの人生で、この時ほど苦しかったことはありません。前に進むに進めない、後ろに退くに退けない、という状態で、本当に切羽詰まってしまいました。

 そうこうしているうちに、眼が充血し、ものすごく痛むようになりました。体力も急激に落ちてきて、このままでは死んでしまうのではないかと思うような状態でした。眼はますますひどい状態になっていきました。医学関係の本で調べると、症状が緑内障にそっくりです。当時は大学院の博士課程に在学中でしたが、本当に緑内障のようなひどい眼病だったら、これまでの長年の努力はすべて無駄になってしまう、と思うと、たまらない気持ちでした。とうとう意を決して、大学病院で診察を受けました。診察後診断結果の説明までかなり待たされましたが、その時は、もう本当にパニック状態でした。

 そうして、やっと先生に呼ばれました。先生の前に行くまで、怖くて怖くて胸がドキドキしていました。そして、先生がいきなり「かなり進行した緑内障です。半年ぐらいで失明するでしょう」と言われました。不安がまさに100%的中したわけです。ところが、不思議なことに、その時、私は非常に冷静に先生の説明を聞いている自分に気がつきました。別に虚脱状態ではありませんでした。ただ、「やはりそうか」と思っただけです。ただ淡々と先生の説明を聞いている自分がとても不思議でした。

自分は変わらない

 その後、病院の玄関を出て、何気なく空を見上げたのです。その時、私の人生最大の奇跡が起きました。「そうか、眼が見えても、見えなくても、自分の人生の意味は何も変わらない。本当の自分というものは変わらないのだ。」ということに気が付いたのです。その瞬間、何かすっきりした感じがして、そのまま、家に帰りました。

 なぜ、そのようなことが自分に起こったのか、後で考えてみました。先生が診断の説明をされている時は、多分、ほとんど自分の思考が停止していたのではないかと思います。考えに考えて、死をも予感するように切羽詰って、前にも進むに進めず、後ろに退くにも退けないと状況が極限に達した時に、自分の大脳が破壊寸前の危機を感知し、大脳自体の安全確保のために、緊急措置として、思考という活動を自動的に停止したのだろうと思うのです。そして、思考が停止することによって、かえって、五感を超えて、それまで見えなかった真実がはっきり見えたのではないかと思います。

 そういう意味では、この気づきは決して誰かに自慢できるようなことではありません。業の深い私を何かの力が救ってくれたのだと思います。業の深い自分はこのようなことでしか、救われなかったのだと思います。

まごころ丸出しで生きる

 その後、1週間ほどの間にいろいろな気づきが次々に起こりました。その時の自分のこころは非常に透明になっていました。そして、はっきりと思ったのは「この透明なこころで生きればいい。安心してまごころ丸出しで生きればいいのだ。それだけでいいのだ。この生き方で、将来、たとえ乞食になり、野垂れ死にすることがあっても、何の悔いもない。もう一つはっきりとこころが決まったことは「事実をただ、そのままそっくり受け止めればよいのだ」ということです。

 仏教では心というのはいろいろな意味で使われているようですが、私の言う「まごころ丸出しで」という場合の「まごころ」というのは、通常の思考や感情などの通常の心を超えたところに、元々存在する自分の本体から湧き出てきているのだと思います。

 当時は、この気づきは、それまでの私にとっては人生最大の出来事でした。すべてが180度変わり、生きることが俄然楽しくなりました。本来、自分は何一つ欠けるところのない存在である。状況がどんなに変わっても、自分は変わらない。事実は事実として、そのまま受けいれればよい。恐れるものも心配するものも、何もない。当時は、生死の問題そのものを突き詰めたわけではありませんでしたが、死さえもまったく怖くないという心境になりました。「生は生、死は死」という事実があるだけで、よけいな感情は一切入る余地はないと思いました。

 こういうことがあって、その後、毎日が光り輝いて、楽しくてしょうがないという日々を送っていました。緑内障のこともまったく気にならなくなっていました。そして、何もしていないのにもかかわらず、半年ぐらいして、気が付いてみたら、緑内障が治っていたのです。体の状態も回復していきました。人間の体とこころの関係は実に不思議なものです。このことがあり、人間の体には、本来自分の体を整え、異常を調整する偉大な力が備わっているのだ、ということをはっきりと知ることができました。それはその直後に野口整体に出会い、その実習を通して絶対の確信となりました。

 私は自分の問題は片がついた、後はその心境を日々の生活の中で深めていけばよいと考えました。そして、これからは、真心丸出しで、世のため人のために生きようと思いました。私は博士課程修了とともに、何のためらいもなく、希望に燃えて、中学校の教師となりました。自分がやっと気が付いたことを若い人たちに伝えたい。そのために教育者になろうと思ったのです。その後、人間のための教育を主眼として、私塾を開き、一貫して教育の道を歩んで来ました。

自分とは何か

 26歳の時は、体や心を超えたところに、自分が存在する、ということに気が付いたわけです。しかし、なぜか、その「自分とは何か」という疑問は自分の中から出てこなかったので、それ以上追求しようとも思いませんでした。それだけで、迷うこともなく生きてきました。しかし30歳の時に、26歳の時の気づきは確かなものではあるけれども、ほんの一部の気づきであり、まったく不十分であったことに深く思い至りました。考えてみると、自分というものは、多くの存在と様々に関係しながら、存在しているわけですから、自分、そして諸々の存在の真実を知らなければならないということに、やっと気づいたのです。

 そんなことを考えている時に、たまたま「自分とは何か、この世界とは何か」ということを、1週間と期間を限定して、徹底的に極めようという機会に恵まれました。毎日朝早くから夜遅くまで食事の時間も惜しんで取り組みました。考えに考え続けました。どんどん自分が追い込まれていきました。その中で、ハッとするような気づきがいくつかありました。しかし、それらは断片的なもので、何か一番大切なことがはっきりしてないという感じで、結局もやもやした感じで1週間が終わってしまいました。ところが、その直後に、突然、何だか自分の体と心の底が抜けるような体感を伴って、存在するものの真実の姿「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」ということが直感的に閃いたのです。「いのち」というのは「この宇宙全体を成り立たせ、そのすべてに働いている力」です。

不可分一体の世界

 「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」ということをイメージ的に掴みにくいかもしれませんが、坐禅一筋に生きた名僧・内山興正老師がご著書の中で次のような解説をされています。少し長くなりますが、それをご紹介いたしましょう。

 江戸時代の話です。あるお寺の裏にカボチャ畑があり、カボチャが沢山なっていました。ところが、ある時何が原因かわかりませんが、カボチャの仲間で喧嘩が始まり、あちこちで、ののしり合いの大騒ぎとなりました。お寺の和尚さんは何事が起こったのかと裏の畑に行ってみると、カボチャたちが大喧嘩をしています。和尚さんは大声でカボチャたちを叱りつけました。「こらっ、おまえたちはとんでもない奴だ。カボチャのくせに喧嘩するなんて。みんな坐禅をしなさい」。

 そして和尚さんはカボチャたちに「こうして足を組んで、腰を立て、背骨と首筋をぐっとのばすのじゃ」と坐禅の仕方を教えました。カボチャたちは和尚さんに教えられたとおりに坐禅をしているうちに、だんだんアタマの興奮がしずまり、気持ちが落ち着いてきました。

 しばらくして和尚さんが静かに言いました。「さあ、みんな、自分のアタマのてっぺんへ手をやってごらん」。カボチャたちはみんな、言われたとおりに自分のアタマの先っぽを手でさわってみると、何かヘンなものがついています。「あれっ。ヘンなものがついているぞ。一体、何んだろう」と言いながら、その先をずっとたどってみました。すると、元の蔓にみんな繋がっていたではありませんか。

 「そうだったのか。本当はみんな繋がっていたんだ。みんなたった一つの生命を生きているんだ。それなのに喧嘩するなんて大問違いだった。」と言って、それからはみんな仲好くしたということです。

 たしかにふだん私たちは、この自分と言っている小さな個体を生きていることは事実です。そのために、私たちはこの小さな個体を自分だと思っています。しかし、本来の自己は、決してこの単なる個体ではありません。個体以上のものなのです。

 例えば、自分の体において心臓がうごき、血液が全身に流れ、一分間にいくつの割で呼吸している力などは、すべて自分自身がそうしようと思い、自分自身が働かせている力ではありません。まったく「自分の思い以上のところで働いている力」によるものです。けれども「自分の思い以上の力」であるからといって、この力は自分ではないのかというと、事実自分において働いているかぎりは、これこそ自己の生命そのものであります。

 このような体の働きだけでなく、自分のアタマにいろいろな思いが浮かんだり、考えたりするのも、なるほどその思いや、考えの内容についていえば、いかにも自分の思い、自分の考えであるように思えるかもしれませんが、その思いや考えを働かせる力そのものは、自分の思いをはるかに超えた力なのです。

 しかし、たとえ、それが自分の思いをはるかに超えた力だといっても、事実自分において働いているかぎりは、やはり自己の生命そのものであることは間違いありません。つまり、自己の生命の実物とは、小さな個体的な自分の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的自分に働いている力なのです。

 これは、私においても、あなたにおいても同じです。思いや考えの内容というものは、おのおの別であるわけですが、しかし、おのおのの個体に働いて、いろいろと考えさせている生命の力というものは、いずれも「小さな自分の思い以上の力」であり、ぶっつづいているわけです。簡単に言えば、同じ一つの生命力なのです。このように、生きとし生けるもの、在りてあるものは、すべてぶっつづきの一つの大きな生命の力を生きているのです。それを私は「すべての存在は不可分一体であり、その本体はいのちである」と表現しています。

 仏教的に表現すれば、尽一切不二、すべての存在は二つに分かれる以前のぶっつづきの生命を生きているということです。禅の世界では、本来の自己のことを尽十法界自己、尽一切自己などと言っております。お釈迦さまが悟りを開かれたときに「我大地有情とともに成道す。山川草木ことごとく皆成仏す」という言葉も、まさしくこの尽一切自己を悟られた言葉だということができましょう。自分がそう思っても、思わなくても、事実は、その思いを超えたところで、「天地一杯の我がいのち」なのです。

 以上の解説を「なるほどな」と心から納得されたならば、皆さんもお釈迦様と同じことを、少なくとも知的に理解・納得されたということだと思います。もちろん、お釈迦様のように体得するに越したことはないのですが、私は、この存在の真実を少なくとも、知的にでも理解することはとても大切だと思うのです。その上で、そういうことだと、心を定める、つまり、決定(けつじょう)して、あるいは、信じて、日々こころがけて生きれば、そのうち、いつの間にか体得されている自分を見出されることでしょう。

いのちの世界

 この辺のところをもう少し、説明してみたいと思います。この宇宙は140億年ほど前に、何もないところから、突然ビッグバンによって始まったと言われています。一番最初に素粒子ができ、それからいろいろな原子、分子ができていきます。そして、長い長い時を経て、無数の星や星雲ができ、今日の宇宙になったと言われてれています。その中に太陽系があり、その惑星の中の一つが地球です。

 地球の誕生は40億年以上前と言われていますが、10億年ほど前に最初の生命が誕生し、最初の単細胞生物から進化によって少しずつ複雑な生物が生まれました。そして、長い年月を経て、現在のこの大自然、その中に、動物や植物たち、そして、私がいて、あなたが、そして、すべての人々が存在しているというわけです。

 このように宇宙は変化しています。それもでたらめに変化しているのではありません。そういう意味で、宇宙は生きていると言うこともできるでしょう。この宇宙が始まるまで、もともと何もなかった、と言っても、まったくの空っぽということではなく、眼には見えない無限のエネルギーがもともとあり、それが何かで突然現象化して、この宇宙ができた、ということです。であれば、現在も変化し続けているこの宇宙に存在するものは、無生物であろうと、生物であろうと、すべてこの一つの無限のエネルギーの表れであり、働きである、と言えるのではないでしょうか。

 この宇宙を創り、宇宙にはたらいている無限の力、あるいは、この宇宙自身の無限の力は、無数の星を創り、大地や山や川、海など大自然を創り、大自然にはたらいている力、すべての動植物、そして、私たち一人ひとりを生み出し、生かしている力です。それを私は「いのち」と呼んでいます。ということで、私がここで言う「いのち」とは、生物的いのちだけを言うのではありません。

もともと一つのいのち

 一人一人の人間の生命は1個の受精卵から始まります。その1個の受精卵が細胞分裂して2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、何回も細胞分裂を繰り返し、結局60兆以上の細胞、各種の機能を持つ組織、器官が生み出され、それらの各要素が全体として、人間という一つの生命体を構成しています。これらの細胞、組織、器官はもともと一つのものであり、人間の体全体が1個の受精卵の別の表現と言うことができます。そして、最初の1個の受精卵の中にもともと、一人の人間の体を創るすべての遺伝子情報、あるいは、能力が含まれていた、ということになります。

 現在地球上のすべての人間の共通の先祖は、15万年前にアフリカに生存していたある一人の女性である、という研究報告があります。もちろん、男性もいたわけです。ということは、私たちの最初の共通の先祖の中に、現在地球上のすべての人間を創る情報が含まれていたということになります。そういう意味でも、すべての人間はもともと一つのものであるのです。

 現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物はもともと一種類の単細胞生物が多様に変化したもので、もともと一つのものです。人間の体と同じように、最初の一種類の単細胞生物の中に、現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物を創り出すすべての情報、あるいは、能力が含まれていたということになります。そもそも、現在の宇宙の中に存在するすべてのものは、もともと一つのもの、すなわち、「いのち」の現れです。

調和と共生の世界

 「いのち」には形も色も大きさもありません。見ることも、聞くことも、感じることもできません。この「いのち」が仏教で言う「空」ということだと思います。般若心経は仏教の真髄を説くお経だと言われています。私は般若心経のエッセンスは「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という言葉だと思います。「色」というのは、この現象界、私たちの認識できる物質的存在のすべてということです。「色と空という別々の二つのものがあるというのでなく、色は空そのものであり、空は色そのものである」という意味です。さらに、色だけでなく、私たちの思考や感情も同じことだと言っています。

 「いのち」の顕われであるすべての存在は不可分一体であると申しましたが、不可分一体というのは、「お互いに密接な関係がある」というような言葉だけではとても言い足りません。人間の体について考えてみましょう。人間の体を構成する細胞、組織、器官それぞれの関係は、互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係であり、互いに循環し、それぞれの特性や役割を果たすことによって、全体である一つの生命体(いのち)が生きることができるのです。つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。人体を構成する各要素は、このようにして調和・共生の世界を形成しています。

 大自然も山、川、雲、雨、海、太陽、鉱物などの各要素が、互いになくてはならない関係であり、補い合う関係であり、それが互いに循環し、一つの大自然という調和・共生の世界を構成しています。大宇宙も同じです。恒星や惑星などが眼に見えない宇宙の法則に従って、整然と循環・運行している調和・共生の世界です。このように、この世界の本質は調和・共生であり、眼に見えない大宇宙の力、すなわち、「いのち」は万物を創造し、生かす無限のエネルギーを持つだけでなく、そのはたらきは、万物に調和と共生をもたらすことである、と言えるのではないでしょうか。

 そういうわけで、「いのち」を仏教では仏性と呼び、その象徴である観音様に帰依すれば、すべての苦しみや煩いから救われる、と言われるのだと思います。般若心経には「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という言葉があります。この思いや感情を含めたこの私たちの世界、つまり、現象界にあるものは、本来すべて「空」であることを明らかに知れば、すべての苦しみや災いがなくなる、ということですが、それは本当です。

 仏教では、個人や世の中の苦しみはすべて無明によると言っています。存在を私たちの五感、そして大きな大脳で認識すると、本当は不可分一体の存在がすべてバラバラに見え、感じられます。大脳はどうしても相対的な思考しかできないので、そこから自と他というように、バラバラに見えてしまうのだと思うのです。そのバラバラ観による認識・判断、そしてそこから出てくるエゴイズムが無明の正体ではないかと思うのです。

生死も所有も優劣もない

 こうして、すべての存在は「いのち」であり、不可分一体なのだ、ということが分かったのですが、そこからいろいろなことが一気にはっきりとしてきました。例えば、生は生、死は死です。同時に、この世界には本来、本当は生死はありません。優劣、差別もありません、誰のものという所有もありません。本来、すべてのものは誰のものでもなく、誰でも使えるのです。したがって、何かに執着することもありません。本来自分を縛るものはなく、人間はどこまでも自由な存在であり、何でもできるのです。もともと自分の思いと事実は違うものですから、思い通りにならなくても腹を立てることもありません。たとえ体が病気になったとしても、こころまで悩ませる必要はないわけで、悲観したり心配したりしないで、明るい気持ちで体を治すことに専念すればいいのです。

 仕事や家庭などで、物事が思うとおりにいかなくても、悲観したり心配したりしないで、明るく方策を練り、実行に移すことです。思いごとを叶えたければ、叶うかなあなどとくよくよ迷ったりせずに、明るく叶うように、叶うようにしていくだけです。そして、もし結果が思いどうりにならなかったとしても、もともと思いと事実は違うのだということを納得していれば、結果に捉われることもありません。その事実をすっきりと受け止めて、明るく生きていくだけではないでしょうか。

不生

 26歳と30歳の時の直感的な気づきがより鮮明になったのは、その後『盤珪禅師語録』という本を読んだ時です。盤珪禅師というのは江戸時代の禅のお坊さんです。その本の中で「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。仏心は不生であり、霊明なものである。一切は不生で整う。不生が一切の本である。不生が一切の始めである。」という言葉で出会い、本当にはっきりと自分の体験を整理することができました。

 「不生」というのは、もともと初めからこの宇宙にある「いのち」ということです。そして、「不生の仏心」こそ、私の言うところの「まごころ」なのです。また、盤珪禅師は「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。」と決定して、不生の仏心のままに生きなさい、と説かれています。「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。」ということは、真実の自分は「いのち」である、ということです。

 そしてさらに「すべての迷い、苦しみ、争い、憎しみ、怒りなどは、我が身の身びいきにより起こる」と言われております。「我が身の身びいき」というのは、自分と他人をバラバラのものと分けて考えるところから出てくる「自分さえよければ」という「ケチな根性」、言い換えれば、エゴイズム、利己主義ということです。要するに、盤珪禅師が言われることを平たく言えば、「いのち」の要請に従って、まごころ丸出しで、生きなさい。そうすれば、すべてが上手くいき、安心して生きることができるのだ、ということだと思います。

決定して生きる

 盤珪禅師は悟りを開くために、何年も苦しい修行をする必要はない、と言われています。そして、親が産み付けたものは不生の仏心一つであると「決定して」という言葉を使われています。「決定して」という意味は文字通り、そのように決めて、定めるということです。要するに、そのように納得し、思い定めて、そのように生きなさい、ということだと思います。私は業が深く、長年もがきにもがいた末にやっと、本当のことに気がついたわけですが、確かにそう言われれば、その通りです。素直にそう思えれば、それでいいのです。

 この世の中には、悟りや見性の体験はなくても、こころの優しい、思いやりに溢れた方々がたくさんいらっしゃいます。これは、悟ろうが、悟るまいが、不生の仏心がもともと一人ひとりに備わっているということです。不生の仏心が共生本能として、人間にはもともと備わっていると言ってもいいでしょう。いずれにしても、それが自然に、あるいは、本人の心がけによって、外に出てくるのだと思います。ということであれば、そのような方々はすでに不生の仏心で生きておられるということです。

 もちろん、悟りや見性すれば、それに越したことはないと思いますが、そうでない方は改めて決定し、日々そのこころを見失いように努力をすればよいということです。そうすれば、まず自分が狭いケチな根性から脱して、いつの間にか広い明るい気持ちで生きられるようになっているでしょう。そして、自分の周りに信頼と思いやりの輪が広まっていくことを体験され、これこそ、人も自分もともに幸せに安心して平和に生きる近道であり、正道であることに気づかれるでしょう。そしてまた、その体験を通して、存在の真実をいつの間にか体得していることに気づかれることでしょう。なぜなら、その真実はもともと私たちに備わっているものですから、そう生きるように心がけていれば、自然に中からますます納得が深まり、まごころが湧き出てくるようになっているからです。

 繰り返しますが、まごころ丸出しで、安心して生きることは、本当はもっとも楽な生き方であり、決して難しいことではありません。しかし、この現実世界の中において、果して自分一人まごころ丸出しで、実際に安心して生きていけるのか、それは現実離れした空想にすぎないのではないか、という疑問も出てくるかもしれません。確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。それだけしかないのであれば、つねに不信や対立の心を持って生きていかなければならないでしょう。そこからは必ず不安や焦燥、奪い合いや争いが出て来ます。その中で時には、一時的な幸福感を得ることもあるかもしれませんが、永続する真の幸福はありえません。他に対して不信や対立の心があれば、本当に安心して平和に生きていくことはできないのです。

 確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。しかし、それらは表面的な現実でしかありません。深い真実の愛こそ「より確かな現実」であり、心の眼を開けばそれは明らかです。深い現実の事実は愛と信頼に基づく自他共に伸び栄える共生と調和の世界です。この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして、生きていくことこそ「いのち」の求めるところです。この「いのちの世界」には常に調和と共生の世界を実現し、維持しようとする力がはたらいています。それがこの宇宙、「いのち」の世界の法則です。この法則に沿って生きることこそ、より確かな現実に生きるということなのです。そして、これこそ幸福に生きるもっとも確かな道なのです。

 要するに、自分はこころの一番深いところで、どう生きたいのかということを見極め、それに決定して従えばいいのです。従うかどうか、これは「信」の問題であり、本当の宗教、あるいは本当の信仰に入れるかどうかの分岐点でもあります。

社会の諸問題の解決の鍵

 この生き方は個人と個人の間だけのものではありません。社会の諸問題の解決についても、原理はまったく同じことなのです。それは決して無謀なことでも夢のような理想論でもなく、最も確実な平和への道なのです。現代の世界や日本は、環境破壊や戦争、貧困、食料不足など、いろいろな非常に深刻な問題を抱えて、文字通り行き詰っています。私たちは人類史上もっとも深刻な危機に直面しています。このままの方向で進めば、何十億という人々が大きな被害を被るだろうと、識者は警告しています。日本を含めて、人類社会は破滅へ向かってどんどん進んでいるというのです。

 では、この流れを食い止める方策はないのでしょうか。これまで各問題に対する方策はいろいろと講じられていますが、根本的解決の方策は提示されてはいません。諸問題の根本的解決は、このような危機に至った根本原因を明らかにし、それを取り除かなければなりません。本来、不可分一体、調和・共生ということは、自然界においては当たり前の姿です。そして、人間の社会本来のあるべき姿なのです。

根本原因はエゴイズム

 それにもかかわらず、人類社会がこのような事態に至ったのは、これまでの人類の生き方、考え方の基盤が根本的に間違っているということなのです。それは、自他バラバラの存在であり、自他は競争・対立する存在であるとするバラバラ観に基づくエゴイズムということです。すでに2500年前にお釈迦様が喝破されましたように、およそ人間の個人的、あるいは社会的な苦しみや争いの根本原因はエゴイズムにあるのです。

 エゴイズムには個人エゴイズムだけでなく、家族、企業などの組織、地域、国家などの集団エゴイズムがあります。人類社会はこのエゴイズムを基盤として、ある意味では発展してきましたが、今やそれが根本的に誤りであり、破滅への道であったことが事実によって証明されたわけです。

国家エゴイズム

このいろいろなエゴイズムの中で、人類社会の行き詰まりをもたらした最大のものは国家のエゴイズムです。現代の国際社会は国家を単位として行動しており、それぞれの国家の基本方針、国是はエゴイズムに置かれています。要するに、自分の国が一番大切、自分の国さえよければ、ということです。そこにあるのは、猜疑と不信と競争と対立です。

 それに加えて、国家エゴイズムによって、個人や企業などのエゴイズムも増幅されます。そのために、個人としても物質的欲望が増大し、企業間の競争が激しくなります。それとともに、科学技術文明は急速に発展します。その結果、戦争の規模も大きくなり、それがまた、科学技術を進歩させます。こうしたことの総合の結果、現在人類社会がいろいろな面で行き詰っているのです。国家エゴイズムの対立が先に述べました、国際、あるいは国内のいろいろな深刻な問題の元凶であり、同時に、国際環境会議や軍縮会議などでお互いに自国に有利に運ぼうとする、駆け引きに終始して、一向に解決への合意に至らないなど、深刻な諸問題の根本的な解決の大きな障壁となっています。

国家エゴイズムを超えて

 ということは、この人類社会の危機を乗り越えるためには、これまで自明のこととされてきた国際社会における国家エゴイズムの対立を解消する以外にはありません。しかしながら、これまでも国家エゴイズムの解消の必要性が説かれることはありましたが、すべての国が話し合って一斉に国家エゴイズムを放棄することは机上の空論でしかないことは、先に述べた国際会議での駆け引きを見ても明らかです。

 では、どうしたら国際社会における国家エゴイズムの対立を解消できるのでしょうか。それは個人の場合とまったく同じだと思います。愛と信頼に基づく自他共に伸び栄える共生と調和の世界。この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして生きていくこと、すなわち、まずいずれかの国が一方的に率先して国家エゴイズムを放棄することです。そうすれば、平和を愛する世界の心ある多くの人々は、これこそ人類社会が諸問題を解決できる、もっとも現実的な方策であり、正道であることを改めて納得することでしょう。そうすれば、世界のそれぞれの国において、国家エゴイズム放棄への気運が大きく盛り上がっていくに違いありません。

現行日本国憲法は脱エゴイズム憲法

 では、世界に先駆けて率先して国家エゴイズムを放棄する国は、どこの国であったらよいのでしょうか。これも個人の場合に、まず自分がまごころ丸出しで生きなければならないのと同じように、まず自分の国、日本がそうするということでなければなりません。実は、日本には、一方的に国家エゴイズムを放棄することを宣言した平和憲法があるのです。最初に国家エゴイズムを放棄する国として、日本ほど有利な条件に恵まれた国はありません。平和憲法の精神は前文と第9条です。

* [日本国憲法 前文]

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

* この前文は意味があいまいだという方もいますが、決してそうではありません。素直に読めば意味は大変明瞭です。少し整理・解説してみると、次のようになります。

  「日本国民は恒久の平和、つまり一時的でなく、本当の平和を念願する。そのために、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意した。そしてまた、われわれは、永遠の世界の平和と人類の幸福を実現しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。そのために、平和的な手段によって、世界の様々な深刻な問題の根本的解決に貢献する。本来、すべての国は自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないのである。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」

* ご承知のように、第9条は軍備の撤廃と戦争放棄を謳っています。
 前文と第9条をまとめると、つぎのようになります。

 「私たちは恒久の世界の平和と人類の幸福を念願します。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、つまり、武力によってではなく、われらの安全と生存を保持しようと決意しました。そのために、自分の国さえよければいい、という国家エゴイズムを放棄し、世界の諸国民の飢餓や貧困などの解決とその繁栄のために、国家をあげて全力で努力し、世界の国々にとって、なくてはならない存在になります。そうすることによって私たちは、国の平和と存立を図り、国を守ります。したがって、一切の武力を持たず、自衛のための戦争を含めて一切の戦争を行いません。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓います。」

 これは人類史上初めて、そして、唯一の国家エゴイズム放棄宣言です。長い人類の歴史のなかで、いろいろな経緯によって、私たち日本に国家エゴイズムの放棄を謳った平和憲法が与えられたということは、私は決して偶然ではなく、必然的なものであると思います。平和憲法は大きな犠牲者をもたらした度重なる戦争の悲惨さを直接体験し、二度とそういうことがあってはいけないという深い反省の中から生まれた人類のまごころ、叡智が結集して、日本に与えられたのだと確信しています。私は日本人にはこの人類の歴史の中でもかつてない危機を乗り越えるための先駆けとなる人類史的使命が与えられているのだと確信しています。

 しかしながら、平和憲法発布後これまで、日本の国もほとんどの日本の人々も平和憲法の精神に沿って、努力してはきませんでした。そこで私はこの憲法の精神をより能動的に理解し、あらためてそれを活性化させるために、「日本に新たな理想を掲げよう」と提案しているのです。具体的には、平和憲法の精神を積極的に活かし、まず日本が、国内の問題と同じように、地球環境問題や途上国の貧困対策など国際的な福祉問題のために、平和的な手段で国力をあげて貢献するということです。簡単に言えば、国際環境平和国家」の実現です。平和憲法を持っているだけではダメなのです。それを実行する国になることが大切なのです

国際環境平和国家を目指す

 人類社会、あるいは日本社会の危機を乗り越えるためには、これまでの流れの中で解決しようとしても、それは無理だと思うのです。根本的に解決するためには、これまでの人類社会の流れの外に出るしかないのです。そのためにはまず一番に、従来の国の基本的な方向性を根本的に変えることが肝心です。それは利己・対立から利他・共生の方向に変えるということです。それが「国際環境平和国家を目指すという理想を国に掲げよう」ということです。仏教的に言えば、「大乗菩薩国」を創ろうということです。

 前に述べましたように、日本において、この考えに賛同する方々が増え、この輝かしい理想を掲げる国を目指そうという気運が盛り上がるにしたがって、世界中の平和を愛好する人々は必ず、この人間の真心に根ざした日本の新しい動きを見て、これこそが、我(われ)他人(ひと)と共に繁栄する道であることを理解するでしょう。そして、それぞれの国においても、脱エゴイズム国家への気運が盛り上がり、やがて、各国がそれぞれの国家エゴイズムを超えて、真の協力体制の下に根本解決を図ろうという動きが活発になってくると思うのです。

日本に真の理想を掲げよう

 国に脱国家エゴイズムの理想を掲げることによって、対外的な変化だけでなく、国内においても産業、教育、福祉、環境対策などにおいて大きな変化がもたらされます。同時に、この輝かしい理想が日本に掲げられれば、私たちの意識は一変するに違いありません。私たちの日々の仕事や勉強が、あるいは、生活がそのまま国民全体の幸福、そして、恒久の世界の平和と人類の幸福という人類の願いに直結することは私たちにどんなに大きな生きがいと喜びを与えてくれることでしょう。そのとき初めて、私たちは日本に生まれた真の喜びと誇りを感じることができるのではないでしょうか。

 これはただ私だけの理想論、夢物語なのでしょうか。そのように言われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、この考え方は、本来、私たち人間が持っている、みんなと共に幸せになりたいというまごころ、すなわち、利他・共生の本能に深く根ざしたものであり、それを社会的な問題に具体的に適用したにすぎません。私はこれこそ存在の真実に深く根ざしたもっとも現実的な考え方だと思います。

自分も国もまごころ丸出しで

 まず、自分がまごころ丸出しで、安心して生きていこうと決定すること。そして、自分の国が、まごころ丸出しで、世界の恒久の平和実現の先駆けとなること。それらは決して別々のものではありません。「自分は一体何のために生まれてきたのか」ということに静かに、深く思いを寄せていただければ、必ずこころから納得していただけるものと確信しています。

 それでも、いつでも「まごころ丸出しで、安心して生きたい」とは思っても、現在のことや先のことを心配するから、人間は努力するのではないか、と思われる方もおられるでしょう。しかし、心配だから努力するというのは、悪い結果を予想して、それからのがれるための努力です。そういう努力は、頑張った割には、それほど素晴らしい成果を上げることはできません。こころの根本がマイナスに向かっているからです。あせったりして、こころが冷静でなければ。アタマもフルには働きません。それに対して、無知の楽観主義ではだめですが、こころの根本で安心してする努力は、努力が空回りすることもなく、思考や判断も冷静であるので、自分の力をすべて出し切ることができるのです。

 それでも、私はどうも心配性で、という方もいらっしゃるでしょう。確かに、心配や取り越し苦労は苦しみや不幸の原因です。ですから、そういうことがないに越したことはありません。人生の達人というわけではないのですから、そういう方は、何か惨めだとお思いになる状況では、何も心配しなくてもいいのだ、と言っても、心配や不安になってしまうのは仕方がないかもしれません。

本当は何も心配しなくてよい

それでも、心配や不安の底に、本当は何も心配しなくてもいいのだ、心配する必要はないのだ、というどっしりしたものがあれば、心配しながらも安心して生きていけるのです。「本当は何も心配することはない」と言うことは、本当に素晴らしいこの世界の真実なのです。この世界はそういうようにできているのです。これは間違いのない真実です。

 そして、私たちはこの肉体が死ぬ時には、にっこり笑って死にたいものです。そのためには、にっこり笑って今を生きることです。どんな状況でも「よしきた」と明るく受け止め、まごころ丸出しで、全力で生ききることです。全力で生ききったものにのみ、安らかな死があるのです。生きることは本来難しいものであるはずがありません。

 人生は苦しいものなどと、一体誰が言ったのでしょうか。苦しみは自分が作り出した錯覚です。人生、楽しく幸せなのが本当なのです。それは誰にでもできることです。今からでもすぐにできることです。長時間ご清聴ありがとうございます。

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自分は存在するか?

自分は存在するか?

1 まず、「自分は存在する」と仮定してみよう。
 眼はいろいろなものを見ることができる。しかしながら、眼は眼自身を見ることはできない。それと同じように、自分は自分以外のものは見ることができるが、自分は自分自身を見ることはできない。

 つまり、「自分は自分以外のものは対象として認識できるが、自分は自分自身を対象として、これが自分自身だとは認識できない」のである。すなわち、「自分は何々である」と考えたとしたら、すでに、その何々は自分以外のもの、すなわち、自分ではない、ということである。これは自己矛盾そのものである。
たとえば、もし、「この体と心が自分である」と(自分が)考えるならば、すでに、この体と心を自分以外の対象物としている。すなわち、この体と心は自分ではない、ということである。したがって、「この体と心が自分である」ということ自体が間違いなのである。

 同じように、もし「自分は宇宙である」と考えるならば、宇宙は自分以外の存在、自分と宇宙は異なったもの、つまり、「宇宙は自分でない」と言っていることになる。体や心、宇宙だけでなく、この世界のすべてのものについて、同じことが言える。

 要するに、仮に、「自分は存在する」としても、自分は自分自身を認識できない、したがって、これを自分だ、と特定することはできない。したがって、「自分は存在するかどうか」は知りようがない、ということになる。

2 フランスの有名な哲学者デカルトは次のように言っている。「我思う、故に我在り」と。
 彼は正しいと言えるだろうか? 端的に言えば、まったくの間違いである。その根拠を書いてみよう。このテーマは「我は存在するか?」ということである。それにもかかわらず、彼はまず「我思う」と言っている。つまり、我の存在を最初から前提にしているのだ。そして、結論として「故に、我在り」と言っている。ということは、「我が在る、故に、我が在る」と、理屈にもならないことを言っているにすぎない。最初から論理に矛盾があるのだ。

 しかし、彼の本当に言いたいことを推察してみると、おそらく、それは、「考えが存在する。だとすれば、考えている主体があるはずだ。それが自分である」ということであろう。もし、この推察が正しければ、彼の考えは一見筋が通っているように思えるかもしれない。デカルトだけでなく、多くの人は哲学的には思考しなくとも、ほとんど無意識のうちに同じように考えているのではないだろうか。しかし、ここにいくつかの疑問が出てくる。

 まず第一に、「考え」は事実として存在する。ここまではその通りである。しかし、彼は次に、当然のこととして、「考えている主体がある」としている。しかしながら、「考えている主体」が本当に事実として存在するのか?ということはまったく問われていないのである。

 第二に、「考えている主体」というものがあるとして、それはどこにあるのであろうか? 多くの人は「それは脳である」というかもしれない。あるいは、脳は体の一部であるから、「それは体である」というかもしれない。確かに、科学的な研究によれば、考えている時には脳の特定の部分が活発に働いていると言われている。であれば、これは科学的事実と言ってよい。

 しかし、それ故に、「考えている主体は脳である」と言えるだろうか。考えることに脳が関与していることは事実としても、体や脳以外のどこかに存在する「何か」から何かの刺激を脳が受け取って働いているのかもしれない。だとすれば、脳がコンピューターのようなものとして働いている可能性もある。だとすれば、脳を動かせている「何か」こそが考えている主体と言えないだろうか。

 第三に、仮に、「考えている主体」が存在するとしても、あるいは、存在しないとしても、どこから「自分」というものを持ち出してきたのであろうか? そのどこに「自分」があるのか? 

3 仮に、「考える主体」が存在するとし、「考える主体が自分」であるとしよう。「考える主体」が、仮に、脳、あるいは体、あるいはその他の何であったとして、「これ」が自分だと考えたとする。しかし、前に述べたように、「これは自分ではない」。

 つまり、「これが自分である」と考えたものが「自分」であるはずだ。そうであるなら、「これは自分ではない」と考えるものが「自分」であると考えざるをえない。そうであるなら、さらに、「これは自分ではない、と考えるものが自分である」と考えるものが「自分」ということになる。

 この思考の連鎖はどこまでも続く。これではアタマの中だけで、自分は何か?と追い続けているだけで、いつまでも「自分は何か?自分はどこにあるのか?」という答えは見つからない。「自分というものは当然あるはずだ」という思い込みから、「自分」というラベルを何かに付けているだけである。それが何であれ、「自分」というラベルを付ければ、それが「自分」になるわけではないのだ。

 多くの人は「自分はある」という単純な思い込みから、知識や記憶、感覚、あるいは、考え(思い)、「生きている」というような意識を含めた心や脳や体、あるいは、アタマで想像した何か、例えば、宇宙、空など、何かに「自分」というラベルを勝手につけて、それを自分と思い込んでいるだけである。そして、多くの場合、「この体と心が自分である」と決め付けている。

 「自分はある」としたとしても、「自分は何か?」と問うもの自身がソレなのだから、「自分」以外の何かに「自分」というラベルをつけることは矛盾している。それだけでなく、そもそも、「自分」は自分自身に「自分」というラベルをつけることはできないのである。

4 要するに、「自分」というものは、いくら考えてみても、理屈では見つけることができないということだ。「自分というものがあるか?」「自分は何か?」「自分はどこにあるか?」などというものは、アタマで追い求めることから抜け出して、体験的事実を捉まえるしかないのである。「在るか?ないか?」は理屈ではない、事実はどうか?ということである。

 例えば、時計がテーブルの上にあるかどうか? ということを事実として確認するのと同じレベルである。「自分」があるかどうか?という事実を体験的に捉えることは実は決して難しいことではない。瞑想して、アタマのはたらきを静めて、「自分はあるか?」ということをただ確かめればよい。

 考え(思い)もある、意識もある、感覚もある、体もある、呼吸もある、どこからともなく、風の音や鳥の声が聴こえてくる、自動車の音も聞こえる、眼を開けば、木や花や、壁や、テーブルも見える。空の雲も見える、夜空の星や月も見える。それは事実である。しかし、どこにも考える主体というものはなく、どこにも「自分」はない。それが事実である。

 繰り返すが、たとえば、考え、あるいは、思いはどこからともなく現れ、そして、一時的に存在しているかのように見え、そして、消えていくものである。考え、あるいは、思いは(たとえ一時的にせよ)存在する。それは事実である。しかし、ただそれだけである。

 このように言っても分かりにくいかもしれない。しかし、正しく瞑想すれば、「自分というものがある」という思い込みに惑わされることなく、事実を体験的に捉まえることができるのだ。すなわち、無意識のうちに分別し、ラベルを貼ろうとするアタマのはたらきが、瞑想をすることによって静まれば、これはすぐに分かる事実である。デカルト流に表現すれば、「思う、されど我なし」である。
といっても、かならず瞑想しなければ分からないということではない。「自分はある」という思い込みを棚上げすることができれば、いつでも容易に確認できる事実である。

5 もう少し考えてみよう。あなたの友人が時計を買ったとしよう。もし、彼に、「その時計は誰のものか?」と問えば、彼は何も考えることなく、「この時計は自分のものである」と当然のこととして答えるであろう。「買った時計は当然自分のもの(所有物)である」と多くの人が決め付けている。

 多くの人は何についてであれ、「それは誰のものか?」と問われれば、「自分のもの」「誰々のもの」「みんなのもの」などと答える。それは所有観念を持っているためである。それでも、「あの星は誰のものか?」と問われれば、「あの星は誰のものでもない」と答えるであろう。

 しかしながら、物でも何でも、本来は誰のものでもない。「誰々のもの」というのは、社会において作られた概念、あるいは、個人的な観念にすぎない。したがって、同じ物であっても、社会のあり方によって、「自分のもの」、「国家のもの」、あるいは「みんなのもの」などと一応の約束ごととして規定されているだけなのだ。

 「所有」というものが本来的事実として存在しているわけではない。「所有」というものは人間が便宜的に作り出した概念にすぎない。その物自体はもともと「誰々のもの」ということとは関係なくただ存在しているだけである。

 時計はあの星と同じように、本来、「誰のものでもない」。ただ時計である。「所有」などない。すべてのものは、そのもの自体として、ただ存在しているだけである。同じように、考えや思いは、ただ考えや思いとして存在しているだけである。「所有」はもちろん、「その主体」もないのだ。所有という意味ではなく、主体という意味の「誰々の」ということはないのだ。

 同じように、この体は存在する。それは事実である。しかし、それだけである。「誰々の」ということはない。心についても同じである。すべてのものはただ存在している。それだけである。「自分」というものはどこにも存在しない。主体という意味では、「あなた」も「彼も」「彼女」もどこにも存在しない。誰も存在しないのだ。

6 体、心、感覚、意識、自然、風、雲、空、大地、海、山、川、太陽、星、木、花、ネコ、犬、家、テーブル、本などなど、すべては存在する。しかし、それらはバラバラ、つまり、互いに分離した存在ではない。それらは見えない、聞こえない、五感では捉えることのできない、名も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形で顕現した姿であり、すべての存在の真実は不可分一体である。

 「すべては不可分一体である」という存在の真実については、別の機会にあらためて詳しく述べたいと思うが、すべての存在はバラバラであるという思い込み、すなわち、バラバラ観を手放すことさえできれば、誰にでもすぐに分かる事実である。バラバラ観を手放すためには正しい瞑想をするのが近道である。しかし、瞑想しなくとも、日常の生活の中でバラバラ観をちょっと棚上げして、事実を見れば、不可分一体の存在の真実に気がつくことができるだろう。決して難しいことではないのだ。気がついてみれば、ごく当たり前の事実である。

7 例えば、庭に出てみる。そこに一匹の小さなアリが動いている。このアリはちっぽけな虫けらなのであろうか? たとえば、この小さなアリを消すことはできるだろうか? たとえこのアリを踏み潰してみても、姿が変わるだけで、アリを消すことは絶対にできない。このアリは厳然として眼の前に存在している。
このアリを宇宙のすべての存在が支えているのだ。そして、この小さなアリが宇宙のすべての存在を支えている。もし、このアリが消えれば、その瞬間にすべての存在が消えてしまうだろう。それどころか、宇宙そのものが消えてしまうのだ。このアリがすべての存在であり、宇宙そのものである。そのようなものとして、アリは厳然として存在している。

 このアリは肉眼で見れば小さな存在である、しかし、心の眼で見れば宇宙大である。このアリは小さくも大きくもない。大きい小さいというのは人間の近視眼的な勝手な分別でしかないのだ。

 「大小というものさし」で測って「大きい、小さい」というのは、我々の限界のある五感に映った事実の皮相な一面にすぎない。本質的には、大小というものはない。アリだけではない。一人ひとりの人間の存在についても同じである。すべての存在が不可分一体という絶対的な事実の中に存在しているのだから。しかし、そこにも「自分」というコロッとしたものがあるわけではない。

8 このように、すべての存在は不可分一体で、もともと一つのものではあるが、その不可分一体のこの部分、あの部分という意味で、例えば、「この木、あの木」、あるいは、「この身体、あの身体」と言うことはできる。そこにはバラバラであるという意味はない。

 しかしながら、「自分」という観念は、「自分はもともと他の人々や物から切り離された存在である」という意味を含んでいる。したがって、多くの場合、そこに「自分」あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言ったり、思った途端、無意識のうちに、「自分」は他から分離した存在であるという意識が生まれてくる。

 したがって、「自分というものはあるか?」ということは「他から分離した自分」というものはあるか?ということを確かめようとすることになる。しかし、「他から分離した自分」であろうと、「不可分一体の自分」であろうと、もともと「自分」というものは存在しない。

9 この宇宙のすべてが、五感では捉えられない、名前も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形やはたらきとして顕現した姿である。
どうしても「自分」という言葉を使いたければ、もともと「自分」といものはないのだから、すべてが「自分」であるということである。すなわち、「あなた」も「自分」、「彼」も「自分」、「彼女」も「自分」、みんな「自分」である。
そして、この花も、あの木も、山も川も、鳥の声も、自動車の音も、あの星も、目の前にある本も、テーブルも、この宇宙のすべてが「自分」である。すべてが一つのもの(Oneness)であり、その一つのもの(Oneness)が「自分」である。
出会うものすべてが「自分」である。他から切り離された「自分」などというものは存在しない。「自分」は宇宙とぶっ続きの生命である。これは理屈ではない、事実だ。

10 しかしながら、前述のように、「自分」という言葉は「他から切り離された自分」という意味を濃厚に持っているので、「本来、自分はすべてと不可分一体である」という意味では、「自分」と言うよりも、「自己」、あるいは「本来の自己」、あるいは「真実の自己」などと表現するほうが分かりやすいであろう。
もちろん、日常の生活においては、バラバラ観さえ持っていなければ、便宜上、「自分」、あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言う言葉を使うことは一向に差し支えない。要するに、不可分一体の存在の真実をどこまではっきりと体験的に自覚しているかが問題なのだ。     

11 禅の語録から。
 釈尊何日にもわたる瞑想の後、ふと明けの明星を見て、曰く。「奇なるかな、奇なるかな。我一切衆生(すべての存在)とともに成道す(悟った)」。

 白隠禅師曰く。「衆生本来仏なり」。

 達磨大師「そこにいる者は誰か?」と問われ、答えて曰く。「不識(知らない)」。

 南嶽懐譲禅師「ここに来たものは何か?」と問われ、答えて曰く。「説似一物即不中(何か一言でもこれだと言ったら、すでに当たらない)」。

趙州禅師「如何なるか祖師西来の意(達磨大師がわざわざインドから中国にやってきた真意は何か? すなわち、釈尊の発見した世界とはどんなものか?)と問われて、曰く。「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」。

南陽慧忠国師「何が仏心か?」と問われて、曰く。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく。土塀や瓦け)」。

 これ以上説明は必要ないだろう。しかし、最後に、少しだけ付け加えておこう。
 実は、釈尊も、白隠禅師も、誰も、今も昔もどこにもいないのだ。さらに言えば、柏樹子も障壁瓦礫もない。まさに、奇なるかな、奇なるかな。
 どこからともなく声が聞こえてくるようだ。「今そう言っているものは一体何ものなんだ?」。しかし、答えるものはどこにもいない。
どうやらこの辺で止めておいたほうが無難らしい。

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赤城山自然牧場は何を目指しているか

赤城山自然牧場は何を目指しているか

食の自立に向けて

 私たちは20数年来「赤城山自然牧場」(畑1町2反、田んぼ4反)で自然農法を目指して活動しています。

発足
 赤城山自然牧場というのは、今から20数年前に私の考えに共鳴した数名の若者たちと共に、畑も田んぼもなく、資金さえも全くないという文字通りゼロの状態から、それこそ、寝食さえも犠牲にするような状況の中で、いっさい他からの資金的援助を受けずに、汗水を垂らし、自らの労力で資金を稼ぎ、土地や農機具を購入し、ここまで築きあげてきたものです。しかしながら、これまでに達成できたことは、当初、私が掲げた目標のごく一部にしか過ぎなく、そういう意味で、まだまだ今も発展途上にあります。

地飼い養鶏法
 赤城山自然牧場の目標については、おいおい説明していきますが、最小限の土地を購入した後、最初に手掛けたことは素人にも金をかけずにできる地飼養鶏法のモデル作りでした。廃材や中古のトタンをあちこちから貰い受けて、鶏舎を建設し、廃鶏を安く譲ってもらって、2,3か月かけて、それらの廃鶏を蘇らせることから始めたのです。私自身農業の経験がなく、まったくの素人でしたが、私には素人だからこそプロにできないような考え方もできるはずだという確信めいたものがあったのです。無駄なことや失敗もありましたが、数年間でこれはというものができました。

 最初は10羽の廃鶏から始めましたが、徐々に食卵用のニワトリを増やし、1000羽ぐらい飼うようになりました。その結果わずか1年ほどで収入的にも十分採算が取れるようになりました。卵の品質や味も大変好評で、東京の有名寿司店へも出荷していました。独特のやり方と卵の品質が評判となり、新聞の記事になったり、ラジオの番組でインタビューを受けたり、他の市町村からも視察団が来るほどになりました。

 私は日本の将来を考えたときに、どうしても農業従事者がもっともっと増えていかなければならないとずっと考えてきました。そして、素人が農業者を目指すときに、どうしたら経済的にも労力的にもスムーズに転向できるか、農業者として一家の生活を維持し、発展させていけるかということを考えてきました。その結果、そのために最も良い方法は地飼いの養鶏からスタートすることではないかと思い至りました。野菜や米づくりなどはどうしても技術や経験がないと難しく、ましてやそれで十分な収入を得ることができるようになるまでには相当の年月が必要です。その点、地飼いの養鶏は正しい知識と簡単な技術がありさえすれば、2,3か月で一家を支えるに足る収入を得ることができるのではないか、その収入で生活を維持しながら、徐々に野菜や米づくりに手を広げて行けばよいのではないかと考えたのです。このような考えに基づいて、実験的にモデル作りをゼロからやってみたのです。

 このモデルを一応完成させるために、私たちは筆舌に尽くせないほどの苦労もしましたが、一方では希望に満ちた楽しい日々でもありました。モデルづくりが完成すれば、新しく農業者を目指す人は、資金がほとんどなくとも、土地さえ使えれば(借りてでも)、私たちの作りあげたモデルをそのままマネしてやってゆけば、農業者として充分生きて行ける。そうすれば、農業者を志す人達がどんどん増えてくるだろうという希望と祈りがあったからです。

無農薬イネづくりーー深水法
 地飼い養鶏法のモデルが一応完成して、ある程度の収入が入るようになってからも、できるだけ生活は質素にして切り詰め、収入の大部分を新しい土地の購入資金に回しました。そして、次に手掛けたことは、素人にも簡単にできる無農薬のイネづくりのモデル作りです。最初は、本を頼りにすべて人力で田を起こし、代かきをし、苗床で苗を育て、手植えで田植えをしました。もちろん、いっさいの農薬や除草剤は使いません。ところが、ヒエや雑草が大量に繁殖して、イネづくりをやっているのかヒエづくりをやっているのか、雑草を育てているのか分からないような状態になり、近くで田んぼをやっているお百姓さんたちもあきれていたようです。それでもその年どうにかそこそこ収穫することができました。

 それにしても、真夏の太陽の下での連日の雑草やヒエ取りには参りました。これではダメだということで本格的に研究を始めましたが、結局、これという解決策が出なくて、翌年も悲惨な結果となりました。そうこうしているうちに、不思議なご縁で、深水法の数少ない伝承者である松村平八郎さんと知り合い、早速翌年、平八郎さんの指導で深水法を実践することにしました。おかげでその年からは田植えの後イネ刈りまで、一度も田んぼに入る必要がなくなりました。深水法のおかげで、ほとんど完全に雑草やヒエが押えられるようになったのです。収量もこの地域ではほとんど一番というほどになりました。それ以来、毎年深水法でやっていますが、最初笑っていた近所のお百姓さんたちにも感心されるほどになりました。米の品質も、お世辞抜きで、魚沼産のコシヒカリよりもおいしいと数多くの人達から賞賛をいただいています。

 これで、素人にも簡単にできるイネづくりのモデルが一応できました。一応というのは、私にはプロの人達と張り合う気持ちはなく、ただ、素人であっても、それほど手をかけることもなく、ほどほどの結果が出れば大成功だと考えているからです。マニア的になれば、イネづくりにしても養鶏にしても完成度はもっともっと上げることができると思いますし、そのようにやっている人もいます。しかし、そのために費やす労力や費用を考え、トータルな視野に立って見ると、どうも帳尻が合わなくなってくるような感じがするのです。

 深水法はこのように簡単で素晴らしい方法なので、もっともっと普及することを心から望んでいます。深水法では長苗を使います。最近の田植え機は調整すれば長苗でも植えられるようになっており、除草剤を使わず、しかも丈夫なイネが育ち、農薬の量も減らせるわけですから、深水法は一般の農家でも歓迎されて、全国に広がって行く可能性があります。また、長苗専用の田植え機の開発は技術的にはそんなに難しくはないと思います。そうなれば、深水法が日本の自然環境を守るために大変効果的方法だと広く認識されるでしょう。多くの人達に深水法の素晴らしさを知っていただきたいと思います。

 将来的には直蒔き法と陸稲づくりの実験もやってみたいと考えています。というのは、手植えによる田植えも人手さえあれば何とかなりますが、一人や二人でやるとなると結構大変な作業となります。機械植えは簡単ですが、おカネがかかります。この問題をクリアーするために、ぜひ直蒔き法を完成させたいと思っているのです。

 直蒔き法は福岡正信先生の粘土ダンゴ法をはじめ、幾人かの先人の業績があります。それらの方法を実験的に研究して、一般に普及できるモデルができればと考えています。陸稲づくりも、ちょっとした空き地を活用して、イネ作りができる道が開けたら、とても素晴らしいことになると思うのです。

野菜づくり
 野菜作りは究極的には「種さえも蒔かなくてもよい野菜づくり」を目指しています。つ まり、野草や山菜は人問が種を蒔かなくても、毎年自然に生えて育ちます。このように必 要な野菜が庭や畑に毎年自然に生えて育ってゆけば、これが本当の自然農法だと思うので す。要するに、人間ができるだけ手をかけなくて済む農法のモデルができれば、日本、そ して、世界の食料問題(さらには地球の砂漠化防止)の解決にとても有効だと考えられるのです。前述の福岡先生はこのモデルを野菜づくりだけでなく、イネづくりや麦づくり、ミカンづくりなどでほとんど成功されているようです。

 その意味で、福岡先生の思想と業績は世界的に本当に偉大です。もっともっと多くの人が福岡先生の考えを知って欲しいと願っています。私たちは福岡先生の「エデンの園」を私たちの気象条件と地形条件の中で、追試的に実験して、一般に普及しやすいモデルを作りたいと思っています。

 しかしながら、現実はなかなか思うようには進んでいません。今の段階は有機農法に毛が生えたぐらいで、まだまだ相当人手を掛けなければ、できるものもできないという状況です。私たちの畑は以前牧草地として使われていて、かなり化学肥料や農薬が撒かれていたようです。その後しばらくは放置されていましたが、初めはとても土壌が痩せていました。また、購入する種子にも問題があるようです。F1はもちろん使いません。しかし、現在市販されている種子は人工的に品種改良(私たちの考えから言えば、品種改悪?)されているために、生命力そのものがとても弱くなっているようです。このような悪条件が重なっていることと、その他いろいろな問題があり、私たちの目標から言えば、今ひとつ思うように行っていないことを率直に認めざるを得ません。これらの悪条件や問題をどう克服するかが、現在そして今後の課題となっています。

 しかし、私は「理想は信念と方法によって必ず実現できる」という強い信念を持っていますので、「この課題も必ず達成できる」と楽しみに研究と実践を進めています。現在は福岡式自然農法実現のための中間的な方法としてEM自然農法を実施しています。

農業と農
 こうして実践を重ね、研究を進めているうちに、「限りなく本当の自然農法の実現に向 かって、できるだけ化学肥料や農薬を使わない農業や農法の普及や研究が必要である」と いう確信がますます強くなってきました。と同時に、次のような考えが芽生え、だんだん 大きくなってきたのです。それは、「農業と農を区別すべきである。そして、むしろ農の 普及こそが大切なのだ」という考えです。

 簡単に言えば、空気と水は別として、すべての人間が毎日絶対的に必要とするものは食料です。現代では大部分の人は自分にとって一番必要な食料を金を払って間接的に手に入れています。古代の狩猟文明や農耕文明においては、ほとんどすべての人間が食料の獲得や生産に直接関わっていました。つまり、ほとんどの人がいわゆる生産者であり、同時に消費者でした。その後、分業文明が進み、生産者と消費者の分離が進みました。それでも、世界史的に見ても、わりに最近まで生産者であり同時に消費者である人々が全体の多数を 占めていたのです。生産者と消費者の分離が急速に大きく進んだのは、せいぜいここ40年ぐらいの間のことです。特に、戦後の日本においては工業立国の名のもとに、農村から都市へ大量の人口移動が進み、また、外国からの食料輸入が大幅に増え、生産者と消費者の分離が当たり前の姿になってしまったのは多くの方々もご承知の通りです。

 私は近代文明のすべてを否定するものでは決してありませんが、人間はもともと自然の 中で誕生し、気の遠くなるほどの年月自然の中で進化してきました。人間がいろいろな面 において自然から遊離しはじめたのは、人類の長い長い進化の歴史の中では、ごく最近の できごとであり、人間の体や心の仕組みは根本的には、まだまだ現代の非自然的生活環境 にほとんど適応できているとは言えません。

 そういうわけで、人間にとってもっとも大切なものは、自分の体と心の自然性を保ち、さらに、それを保つためにも、きれいな空気ときれいな水、そして、安全で健康な食料を得ることだと言えましょう。「これらのものを犠牲にする、あるいは、犠牲にさせるすべての個人的、家庭的、社会的生活や営み、そして社会政策等はすべて間違っている」と言っても決して過言ではないと思います。そういう意味でも、人間の本来あるべき生き方という観点から、社会的な意識を高める必要があると同時に、個人的に、あるいは、家庭的にせめて、安全で健康な食料を手に入れることが望ましいということになります。さらに、自分あるいは家族で食べる食料を自分たちでできるだけ生産することは、文明の非自然化がここまで進んできた今日においてこそ大変重要になってきているのではないでしょうか。

 簡単に言えば、今日の一般的常識とは大きく異なっていますが、素直に考えてみると、せめて自分の食べるものぐらい、できるだけ自分で作ろうということのほうが、人間にとって当然のことではないかと思われてくるのです。そういう意味で、食料はその他の生活用品や単なる商品とは根本的に性質が異なると思います。食料をただの商品としか認識しない多くの人達(消費者だけでなく生産者も含めて)に真実を見詰める目と自覚を持っていただきたいと切に望んでいます。

 私たちは天の恵みの中で生を受け、自然の恵みの中でこそ生きて生けるのです。食事の前にどんなに手を合わせ、「いただきます」と言っても、それが単なる空虚な形式や習慣になってしまっている人達が本当に多いようです。そういう人こそ、ぜひ心掛けて、家庭菜園にでも挑戦していただきたいと思います。そうすれば、私たちが考えていることを理屑抜きに理解していただけると思うのです。もし、私たちが考えていることが日本全国の多くの人達に理解され、実践されるようになれば、食糧問題などは必然的に解決され、人々は心身共に健康になり、この世界に生きる意味もより深く理解でき、人々はお互いに助け合うのが当たり前になり、派生発展的に、環境問題や教育問題など、現在深刻になっている種々の社会問題も大きく解決の方向に向かうことが予想されます。

 私たちが農業と農を区別し、農をもっともっと普及すべきだというのは、農業は現代社会のメカニズムに一つの産業として深く組み込まれており、それを正しい方向に直接的に変革していくことは、大変困難(不可能ではないでしょうが、今のところメドがいっさい立たないと言えます)であるからです。その点「農」は個人的、あるいは家庭的に、あるいは仲間同士で心掛けることによって、比較的に簡単に実現することができます。このような人々が増えていきさえすればいいのです。そうなれば、社会的な認識も高まり、結果的に、農業も本来あるべき姿が自然にはっきりしてきて、よりよい方向に変革されてくるでしょう。

 農は何よりまず楽しいものだと思います。この野菜がいくらに売れるかとか、姿形を気にする必要もないわけですから、農薬を使う必要もなく、気楽に、気持ちのいい汗を流し、みんなで協力し合い、成長する過程を楽しみ、出来たものを共に感謝して食べる。何より、心身が充実してきます。

真の世界平和に向けて
 これまで述べてきたことをまとめて、とりあえず「食の自立に向けて}と表現しておき ましょう。その視線は、とりあえず自分たちだけのための自給自足の実現ということを越 えて、日本の社会全体に向かっているということは理解していただけたと思います。

 しか し、同時に私たちは赤城山自然牧場の構想を立てたときから今日まで、常に真の世界平和の実現という目標を見据えながら活動してきました。現代の世界の困難な状況を根本的に克服するためには、どうしてもその根本原因である国家のエゴイズムを解消しなければなりません。そのためには、日本としては今後どのように世界の平和に貢献できるかということが問われなければなりません。

福岡式自然農法と野口整体
 近代文明が完全に行き詰まった根本原因は、一言で言えば、不完全な人智を頼りにして、自然からますます大きく離れる方向に進んできたということにあると思います。いたずらに、西欧式の文明にあこがれ、盲目的に追従するのではなく、海外への真の協力ということを考える際にも、それぞれの地域、地方の伝統と文化、独自の生き方を尊重し、活かしてゆくと同時に、本当の普遍的な道を伝えて行くこと、すなわち、真のグローバルな叡智と技術を伝えていくことが根本でなければなりません。

 私たちは福岡式自然農法と野口整体(野口整体については、別の機会に詳しく述べるつもりです。)の両者はまったく同じ原理に基づいているととらえています。すなわち、「自然をそのまま生き、活かす」という原理です。その意味で、日本が福岡式自然農法やEM自然農法、野日整体を海外に向けて発信していくことは人類史的な大きな意味と効果があると考えています。私たちのささやかな試みが将来大きな花を咲かせることを夢見ながら、赤城山自然牧場は今日も活動しています。

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