2010年12月20日月曜日

自分は存在するか?

自分は存在するか?

1 まず、「自分は存在する」と仮定してみよう。
 眼はいろいろなものを見ることができる。しかしながら、眼は眼自身を見ることはできない。それと同じように、自分は自分以外のものは見ることができるが、自分は自分自身を見ることはできない。

 つまり、「自分は自分以外のものは対象として認識できるが、自分は自分自身を対象として、これが自分自身だとは認識できない」のである。すなわち、「自分は何々である」と考えたとしたら、すでに、その何々は自分以外のもの、すなわち、自分ではない、ということである。これは自己矛盾そのものである。
たとえば、もし、「この体と心が自分である」と(自分が)考えるならば、すでに、この体と心を自分以外の対象物としている。すなわち、この体と心は自分ではない、ということである。したがって、「この体と心が自分である」ということ自体が間違いなのである。

 同じように、もし「自分は宇宙である」と考えるならば、宇宙は自分以外の存在、自分と宇宙は異なったもの、つまり、「宇宙は自分でない」と言っていることになる。体や心、宇宙だけでなく、この世界のすべてのものについて、同じことが言える。

 要するに、仮に、「自分は存在する」としても、自分は自分自身を認識できない、したがって、これを自分だ、と特定することはできない。したがって、「自分は存在するかどうか」は知りようがない、ということになる。

2 フランスの有名な哲学者デカルトは次のように言っている。「我思う、故に我在り」と。
 彼は正しいと言えるだろうか? 端的に言えば、まったくの間違いである。その根拠を書いてみよう。このテーマは「我は存在するか?」ということである。それにもかかわらず、彼はまず「我思う」と言っている。つまり、我の存在を最初から前提にしているのだ。そして、結論として「故に、我在り」と言っている。ということは、「我が在る、故に、我が在る」と、理屈にもならないことを言っているにすぎない。最初から論理に矛盾があるのだ。

 しかし、彼の本当に言いたいことを推察してみると、おそらく、それは、「考えが存在する。だとすれば、考えている主体があるはずだ。それが自分である」ということであろう。もし、この推察が正しければ、彼の考えは一見筋が通っているように思えるかもしれない。デカルトだけでなく、多くの人は哲学的には思考しなくとも、ほとんど無意識のうちに同じように考えているのではないだろうか。しかし、ここにいくつかの疑問が出てくる。

 まず第一に、「考え」は事実として存在する。ここまではその通りである。しかし、彼は次に、当然のこととして、「考えている主体がある」としている。しかしながら、「考えている主体」が本当に事実として存在するのか?ということはまったく問われていないのである。

 第二に、「考えている主体」というものがあるとして、それはどこにあるのであろうか? 多くの人は「それは脳である」というかもしれない。あるいは、脳は体の一部であるから、「それは体である」というかもしれない。確かに、科学的な研究によれば、考えている時には脳の特定の部分が活発に働いていると言われている。であれば、これは科学的事実と言ってよい。

 しかし、それ故に、「考えている主体は脳である」と言えるだろうか。考えることに脳が関与していることは事実としても、体や脳以外のどこかに存在する「何か」から何かの刺激を脳が受け取って働いているのかもしれない。だとすれば、脳がコンピューターのようなものとして働いている可能性もある。だとすれば、脳を動かせている「何か」こそが考えている主体と言えないだろうか。

 第三に、仮に、「考えている主体」が存在するとしても、あるいは、存在しないとしても、どこから「自分」というものを持ち出してきたのであろうか? そのどこに「自分」があるのか? 

3 仮に、「考える主体」が存在するとし、「考える主体が自分」であるとしよう。「考える主体」が、仮に、脳、あるいは体、あるいはその他の何であったとして、「これ」が自分だと考えたとする。しかし、前に述べたように、「これは自分ではない」。

 つまり、「これが自分である」と考えたものが「自分」であるはずだ。そうであるなら、「これは自分ではない」と考えるものが「自分」であると考えざるをえない。そうであるなら、さらに、「これは自分ではない、と考えるものが自分である」と考えるものが「自分」ということになる。

 この思考の連鎖はどこまでも続く。これではアタマの中だけで、自分は何か?と追い続けているだけで、いつまでも「自分は何か?自分はどこにあるのか?」という答えは見つからない。「自分というものは当然あるはずだ」という思い込みから、「自分」というラベルを何かに付けているだけである。それが何であれ、「自分」というラベルを付ければ、それが「自分」になるわけではないのだ。

 多くの人は「自分はある」という単純な思い込みから、知識や記憶、感覚、あるいは、考え(思い)、「生きている」というような意識を含めた心や脳や体、あるいは、アタマで想像した何か、例えば、宇宙、空など、何かに「自分」というラベルを勝手につけて、それを自分と思い込んでいるだけである。そして、多くの場合、「この体と心が自分である」と決め付けている。

 「自分はある」としたとしても、「自分は何か?」と問うもの自身がソレなのだから、「自分」以外の何かに「自分」というラベルをつけることは矛盾している。それだけでなく、そもそも、「自分」は自分自身に「自分」というラベルをつけることはできないのである。

4 要するに、「自分」というものは、いくら考えてみても、理屈では見つけることができないということだ。「自分というものがあるか?」「自分は何か?」「自分はどこにあるか?」などというものは、アタマで追い求めることから抜け出して、体験的事実を捉まえるしかないのである。「在るか?ないか?」は理屈ではない、事実はどうか?ということである。

 例えば、時計がテーブルの上にあるかどうか? ということを事実として確認するのと同じレベルである。「自分」があるかどうか?という事実を体験的に捉えることは実は決して難しいことではない。瞑想して、アタマのはたらきを静めて、「自分はあるか?」ということをただ確かめればよい。

 考え(思い)もある、意識もある、感覚もある、体もある、呼吸もある、どこからともなく、風の音や鳥の声が聴こえてくる、自動車の音も聞こえる、眼を開けば、木や花や、壁や、テーブルも見える。空の雲も見える、夜空の星や月も見える。それは事実である。しかし、どこにも考える主体というものはなく、どこにも「自分」はない。それが事実である。

 繰り返すが、たとえば、考え、あるいは、思いはどこからともなく現れ、そして、一時的に存在しているかのように見え、そして、消えていくものである。考え、あるいは、思いは(たとえ一時的にせよ)存在する。それは事実である。しかし、ただそれだけである。

 このように言っても分かりにくいかもしれない。しかし、正しく瞑想すれば、「自分というものがある」という思い込みに惑わされることなく、事実を体験的に捉まえることができるのだ。すなわち、無意識のうちに分別し、ラベルを貼ろうとするアタマのはたらきが、瞑想をすることによって静まれば、これはすぐに分かる事実である。デカルト流に表現すれば、「思う、されど我なし」である。
といっても、かならず瞑想しなければ分からないということではない。「自分はある」という思い込みを棚上げすることができれば、いつでも容易に確認できる事実である。

5 もう少し考えてみよう。あなたの友人が時計を買ったとしよう。もし、彼に、「その時計は誰のものか?」と問えば、彼は何も考えることなく、「この時計は自分のものである」と当然のこととして答えるであろう。「買った時計は当然自分のもの(所有物)である」と多くの人が決め付けている。

 多くの人は何についてであれ、「それは誰のものか?」と問われれば、「自分のもの」「誰々のもの」「みんなのもの」などと答える。それは所有観念を持っているためである。それでも、「あの星は誰のものか?」と問われれば、「あの星は誰のものでもない」と答えるであろう。

 しかしながら、物でも何でも、本来は誰のものでもない。「誰々のもの」というのは、社会において作られた概念、あるいは、個人的な観念にすぎない。したがって、同じ物であっても、社会のあり方によって、「自分のもの」、「国家のもの」、あるいは「みんなのもの」などと一応の約束ごととして規定されているだけなのだ。

 「所有」というものが本来的事実として存在しているわけではない。「所有」というものは人間が便宜的に作り出した概念にすぎない。その物自体はもともと「誰々のもの」ということとは関係なくただ存在しているだけである。

 時計はあの星と同じように、本来、「誰のものでもない」。ただ時計である。「所有」などない。すべてのものは、そのもの自体として、ただ存在しているだけである。同じように、考えや思いは、ただ考えや思いとして存在しているだけである。「所有」はもちろん、「その主体」もないのだ。所有という意味ではなく、主体という意味の「誰々の」ということはないのだ。

 同じように、この体は存在する。それは事実である。しかし、それだけである。「誰々の」ということはない。心についても同じである。すべてのものはただ存在している。それだけである。「自分」というものはどこにも存在しない。主体という意味では、「あなた」も「彼も」「彼女」もどこにも存在しない。誰も存在しないのだ。

6 体、心、感覚、意識、自然、風、雲、空、大地、海、山、川、太陽、星、木、花、ネコ、犬、家、テーブル、本などなど、すべては存在する。しかし、それらはバラバラ、つまり、互いに分離した存在ではない。それらは見えない、聞こえない、五感では捉えることのできない、名も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形で顕現した姿であり、すべての存在の真実は不可分一体である。

 「すべては不可分一体である」という存在の真実については、別の機会にあらためて詳しく述べたいと思うが、すべての存在はバラバラであるという思い込み、すなわち、バラバラ観を手放すことさえできれば、誰にでもすぐに分かる事実である。バラバラ観を手放すためには正しい瞑想をするのが近道である。しかし、瞑想しなくとも、日常の生活の中でバラバラ観をちょっと棚上げして、事実を見れば、不可分一体の存在の真実に気がつくことができるだろう。決して難しいことではないのだ。気がついてみれば、ごく当たり前の事実である。

7 例えば、庭に出てみる。そこに一匹の小さなアリが動いている。このアリはちっぽけな虫けらなのであろうか? たとえば、この小さなアリを消すことはできるだろうか? たとえこのアリを踏み潰してみても、姿が変わるだけで、アリを消すことは絶対にできない。このアリは厳然として眼の前に存在している。
このアリを宇宙のすべての存在が支えているのだ。そして、この小さなアリが宇宙のすべての存在を支えている。もし、このアリが消えれば、その瞬間にすべての存在が消えてしまうだろう。それどころか、宇宙そのものが消えてしまうのだ。このアリがすべての存在であり、宇宙そのものである。そのようなものとして、アリは厳然として存在している。

 このアリは肉眼で見れば小さな存在である、しかし、心の眼で見れば宇宙大である。このアリは小さくも大きくもない。大きい小さいというのは人間の近視眼的な勝手な分別でしかないのだ。

 「大小というものさし」で測って「大きい、小さい」というのは、我々の限界のある五感に映った事実の皮相な一面にすぎない。本質的には、大小というものはない。アリだけではない。一人ひとりの人間の存在についても同じである。すべての存在が不可分一体という絶対的な事実の中に存在しているのだから。しかし、そこにも「自分」というコロッとしたものがあるわけではない。

8 このように、すべての存在は不可分一体で、もともと一つのものではあるが、その不可分一体のこの部分、あの部分という意味で、例えば、「この木、あの木」、あるいは、「この身体、あの身体」と言うことはできる。そこにはバラバラであるという意味はない。

 しかしながら、「自分」という観念は、「自分はもともと他の人々や物から切り離された存在である」という意味を含んでいる。したがって、多くの場合、そこに「自分」あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言ったり、思った途端、無意識のうちに、「自分」は他から分離した存在であるという意識が生まれてくる。

 したがって、「自分というものはあるか?」ということは「他から分離した自分」というものはあるか?ということを確かめようとすることになる。しかし、「他から分離した自分」であろうと、「不可分一体の自分」であろうと、もともと「自分」というものは存在しない。

9 この宇宙のすべてが、五感では捉えられない、名前も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形やはたらきとして顕現した姿である。
どうしても「自分」という言葉を使いたければ、もともと「自分」といものはないのだから、すべてが「自分」であるということである。すなわち、「あなた」も「自分」、「彼」も「自分」、「彼女」も「自分」、みんな「自分」である。
そして、この花も、あの木も、山も川も、鳥の声も、自動車の音も、あの星も、目の前にある本も、テーブルも、この宇宙のすべてが「自分」である。すべてが一つのもの(Oneness)であり、その一つのもの(Oneness)が「自分」である。
出会うものすべてが「自分」である。他から切り離された「自分」などというものは存在しない。「自分」は宇宙とぶっ続きの生命である。これは理屈ではない、事実だ。

10 しかしながら、前述のように、「自分」という言葉は「他から切り離された自分」という意味を濃厚に持っているので、「本来、自分はすべてと不可分一体である」という意味では、「自分」と言うよりも、「自己」、あるいは「本来の自己」、あるいは「真実の自己」などと表現するほうが分かりやすいであろう。
もちろん、日常の生活においては、バラバラ観さえ持っていなければ、便宜上、「自分」、あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言う言葉を使うことは一向に差し支えない。要するに、不可分一体の存在の真実をどこまではっきりと体験的に自覚しているかが問題なのだ。     

11 禅の語録から。
 釈尊何日にもわたる瞑想の後、ふと明けの明星を見て、曰く。「奇なるかな、奇なるかな。我一切衆生(すべての存在)とともに成道す(悟った)」。

 白隠禅師曰く。「衆生本来仏なり」。

 達磨大師「そこにいる者は誰か?」と問われ、答えて曰く。「不識(知らない)」。

 南嶽懐譲禅師「ここに来たものは何か?」と問われ、答えて曰く。「説似一物即不中(何か一言でもこれだと言ったら、すでに当たらない)」。

趙州禅師「如何なるか祖師西来の意(達磨大師がわざわざインドから中国にやってきた真意は何か? すなわち、釈尊の発見した世界とはどんなものか?)と問われて、曰く。「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」。

南陽慧忠国師「何が仏心か?」と問われて、曰く。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく。土塀や瓦け)」。

 これ以上説明は必要ないだろう。しかし、最後に、少しだけ付け加えておこう。
 実は、釈尊も、白隠禅師も、誰も、今も昔もどこにもいないのだ。さらに言えば、柏樹子も障壁瓦礫もない。まさに、奇なるかな、奇なるかな。
 どこからともなく声が聞こえてくるようだ。「今そう言っているものは一体何ものなんだ?」。しかし、答えるものはどこにもいない。
どうやらこの辺で止めておいたほうが無難らしい。

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赤城山自然牧場は何を目指しているか

赤城山自然牧場は何を目指しているか

食の自立に向けて

 私たちは20数年来「赤城山自然牧場」(畑1町2反、田んぼ4反)で自然農法を目指して活動しています。

発足
 赤城山自然牧場というのは、今から20数年前に私の考えに共鳴した数名の若者たちと共に、畑も田んぼもなく、資金さえも全くないという文字通りゼロの状態から、それこそ、寝食さえも犠牲にするような状況の中で、いっさい他からの資金的援助を受けずに、汗水を垂らし、自らの労力で資金を稼ぎ、土地や農機具を購入し、ここまで築きあげてきたものです。しかしながら、これまでに達成できたことは、当初、私が掲げた目標のごく一部にしか過ぎなく、そういう意味で、まだまだ今も発展途上にあります。

地飼い養鶏法
 赤城山自然牧場の目標については、おいおい説明していきますが、最小限の土地を購入した後、最初に手掛けたことは素人にも金をかけずにできる地飼養鶏法のモデル作りでした。廃材や中古のトタンをあちこちから貰い受けて、鶏舎を建設し、廃鶏を安く譲ってもらって、2,3か月かけて、それらの廃鶏を蘇らせることから始めたのです。私自身農業の経験がなく、まったくの素人でしたが、私には素人だからこそプロにできないような考え方もできるはずだという確信めいたものがあったのです。無駄なことや失敗もありましたが、数年間でこれはというものができました。

 最初は10羽の廃鶏から始めましたが、徐々に食卵用のニワトリを増やし、1000羽ぐらい飼うようになりました。その結果わずか1年ほどで収入的にも十分採算が取れるようになりました。卵の品質や味も大変好評で、東京の有名寿司店へも出荷していました。独特のやり方と卵の品質が評判となり、新聞の記事になったり、ラジオの番組でインタビューを受けたり、他の市町村からも視察団が来るほどになりました。

 私は日本の将来を考えたときに、どうしても農業従事者がもっともっと増えていかなければならないとずっと考えてきました。そして、素人が農業者を目指すときに、どうしたら経済的にも労力的にもスムーズに転向できるか、農業者として一家の生活を維持し、発展させていけるかということを考えてきました。その結果、そのために最も良い方法は地飼いの養鶏からスタートすることではないかと思い至りました。野菜や米づくりなどはどうしても技術や経験がないと難しく、ましてやそれで十分な収入を得ることができるようになるまでには相当の年月が必要です。その点、地飼いの養鶏は正しい知識と簡単な技術がありさえすれば、2,3か月で一家を支えるに足る収入を得ることができるのではないか、その収入で生活を維持しながら、徐々に野菜や米づくりに手を広げて行けばよいのではないかと考えたのです。このような考えに基づいて、実験的にモデル作りをゼロからやってみたのです。

 このモデルを一応完成させるために、私たちは筆舌に尽くせないほどの苦労もしましたが、一方では希望に満ちた楽しい日々でもありました。モデルづくりが完成すれば、新しく農業者を目指す人は、資金がほとんどなくとも、土地さえ使えれば(借りてでも)、私たちの作りあげたモデルをそのままマネしてやってゆけば、農業者として充分生きて行ける。そうすれば、農業者を志す人達がどんどん増えてくるだろうという希望と祈りがあったからです。

無農薬イネづくりーー深水法
 地飼い養鶏法のモデルが一応完成して、ある程度の収入が入るようになってからも、できるだけ生活は質素にして切り詰め、収入の大部分を新しい土地の購入資金に回しました。そして、次に手掛けたことは、素人にも簡単にできる無農薬のイネづくりのモデル作りです。最初は、本を頼りにすべて人力で田を起こし、代かきをし、苗床で苗を育て、手植えで田植えをしました。もちろん、いっさいの農薬や除草剤は使いません。ところが、ヒエや雑草が大量に繁殖して、イネづくりをやっているのかヒエづくりをやっているのか、雑草を育てているのか分からないような状態になり、近くで田んぼをやっているお百姓さんたちもあきれていたようです。それでもその年どうにかそこそこ収穫することができました。

 それにしても、真夏の太陽の下での連日の雑草やヒエ取りには参りました。これではダメだということで本格的に研究を始めましたが、結局、これという解決策が出なくて、翌年も悲惨な結果となりました。そうこうしているうちに、不思議なご縁で、深水法の数少ない伝承者である松村平八郎さんと知り合い、早速翌年、平八郎さんの指導で深水法を実践することにしました。おかげでその年からは田植えの後イネ刈りまで、一度も田んぼに入る必要がなくなりました。深水法のおかげで、ほとんど完全に雑草やヒエが押えられるようになったのです。収量もこの地域ではほとんど一番というほどになりました。それ以来、毎年深水法でやっていますが、最初笑っていた近所のお百姓さんたちにも感心されるほどになりました。米の品質も、お世辞抜きで、魚沼産のコシヒカリよりもおいしいと数多くの人達から賞賛をいただいています。

 これで、素人にも簡単にできるイネづくりのモデルが一応できました。一応というのは、私にはプロの人達と張り合う気持ちはなく、ただ、素人であっても、それほど手をかけることもなく、ほどほどの結果が出れば大成功だと考えているからです。マニア的になれば、イネづくりにしても養鶏にしても完成度はもっともっと上げることができると思いますし、そのようにやっている人もいます。しかし、そのために費やす労力や費用を考え、トータルな視野に立って見ると、どうも帳尻が合わなくなってくるような感じがするのです。

 深水法はこのように簡単で素晴らしい方法なので、もっともっと普及することを心から望んでいます。深水法では長苗を使います。最近の田植え機は調整すれば長苗でも植えられるようになっており、除草剤を使わず、しかも丈夫なイネが育ち、農薬の量も減らせるわけですから、深水法は一般の農家でも歓迎されて、全国に広がって行く可能性があります。また、長苗専用の田植え機の開発は技術的にはそんなに難しくはないと思います。そうなれば、深水法が日本の自然環境を守るために大変効果的方法だと広く認識されるでしょう。多くの人達に深水法の素晴らしさを知っていただきたいと思います。

 将来的には直蒔き法と陸稲づくりの実験もやってみたいと考えています。というのは、手植えによる田植えも人手さえあれば何とかなりますが、一人や二人でやるとなると結構大変な作業となります。機械植えは簡単ですが、おカネがかかります。この問題をクリアーするために、ぜひ直蒔き法を完成させたいと思っているのです。

 直蒔き法は福岡正信先生の粘土ダンゴ法をはじめ、幾人かの先人の業績があります。それらの方法を実験的に研究して、一般に普及できるモデルができればと考えています。陸稲づくりも、ちょっとした空き地を活用して、イネ作りができる道が開けたら、とても素晴らしいことになると思うのです。

野菜づくり
 野菜作りは究極的には「種さえも蒔かなくてもよい野菜づくり」を目指しています。つ まり、野草や山菜は人問が種を蒔かなくても、毎年自然に生えて育ちます。このように必 要な野菜が庭や畑に毎年自然に生えて育ってゆけば、これが本当の自然農法だと思うので す。要するに、人間ができるだけ手をかけなくて済む農法のモデルができれば、日本、そ して、世界の食料問題(さらには地球の砂漠化防止)の解決にとても有効だと考えられるのです。前述の福岡先生はこのモデルを野菜づくりだけでなく、イネづくりや麦づくり、ミカンづくりなどでほとんど成功されているようです。

 その意味で、福岡先生の思想と業績は世界的に本当に偉大です。もっともっと多くの人が福岡先生の考えを知って欲しいと願っています。私たちは福岡先生の「エデンの園」を私たちの気象条件と地形条件の中で、追試的に実験して、一般に普及しやすいモデルを作りたいと思っています。

 しかしながら、現実はなかなか思うようには進んでいません。今の段階は有機農法に毛が生えたぐらいで、まだまだ相当人手を掛けなければ、できるものもできないという状況です。私たちの畑は以前牧草地として使われていて、かなり化学肥料や農薬が撒かれていたようです。その後しばらくは放置されていましたが、初めはとても土壌が痩せていました。また、購入する種子にも問題があるようです。F1はもちろん使いません。しかし、現在市販されている種子は人工的に品種改良(私たちの考えから言えば、品種改悪?)されているために、生命力そのものがとても弱くなっているようです。このような悪条件が重なっていることと、その他いろいろな問題があり、私たちの目標から言えば、今ひとつ思うように行っていないことを率直に認めざるを得ません。これらの悪条件や問題をどう克服するかが、現在そして今後の課題となっています。

 しかし、私は「理想は信念と方法によって必ず実現できる」という強い信念を持っていますので、「この課題も必ず達成できる」と楽しみに研究と実践を進めています。現在は福岡式自然農法実現のための中間的な方法としてEM自然農法を実施しています。

農業と農
 こうして実践を重ね、研究を進めているうちに、「限りなく本当の自然農法の実現に向 かって、できるだけ化学肥料や農薬を使わない農業や農法の普及や研究が必要である」と いう確信がますます強くなってきました。と同時に、次のような考えが芽生え、だんだん 大きくなってきたのです。それは、「農業と農を区別すべきである。そして、むしろ農の 普及こそが大切なのだ」という考えです。

 簡単に言えば、空気と水は別として、すべての人間が毎日絶対的に必要とするものは食料です。現代では大部分の人は自分にとって一番必要な食料を金を払って間接的に手に入れています。古代の狩猟文明や農耕文明においては、ほとんどすべての人間が食料の獲得や生産に直接関わっていました。つまり、ほとんどの人がいわゆる生産者であり、同時に消費者でした。その後、分業文明が進み、生産者と消費者の分離が進みました。それでも、世界史的に見ても、わりに最近まで生産者であり同時に消費者である人々が全体の多数を 占めていたのです。生産者と消費者の分離が急速に大きく進んだのは、せいぜいここ40年ぐらいの間のことです。特に、戦後の日本においては工業立国の名のもとに、農村から都市へ大量の人口移動が進み、また、外国からの食料輸入が大幅に増え、生産者と消費者の分離が当たり前の姿になってしまったのは多くの方々もご承知の通りです。

 私は近代文明のすべてを否定するものでは決してありませんが、人間はもともと自然の 中で誕生し、気の遠くなるほどの年月自然の中で進化してきました。人間がいろいろな面 において自然から遊離しはじめたのは、人類の長い長い進化の歴史の中では、ごく最近の できごとであり、人間の体や心の仕組みは根本的には、まだまだ現代の非自然的生活環境 にほとんど適応できているとは言えません。

 そういうわけで、人間にとってもっとも大切なものは、自分の体と心の自然性を保ち、さらに、それを保つためにも、きれいな空気ときれいな水、そして、安全で健康な食料を得ることだと言えましょう。「これらのものを犠牲にする、あるいは、犠牲にさせるすべての個人的、家庭的、社会的生活や営み、そして社会政策等はすべて間違っている」と言っても決して過言ではないと思います。そういう意味でも、人間の本来あるべき生き方という観点から、社会的な意識を高める必要があると同時に、個人的に、あるいは、家庭的にせめて、安全で健康な食料を手に入れることが望ましいということになります。さらに、自分あるいは家族で食べる食料を自分たちでできるだけ生産することは、文明の非自然化がここまで進んできた今日においてこそ大変重要になってきているのではないでしょうか。

 簡単に言えば、今日の一般的常識とは大きく異なっていますが、素直に考えてみると、せめて自分の食べるものぐらい、できるだけ自分で作ろうということのほうが、人間にとって当然のことではないかと思われてくるのです。そういう意味で、食料はその他の生活用品や単なる商品とは根本的に性質が異なると思います。食料をただの商品としか認識しない多くの人達(消費者だけでなく生産者も含めて)に真実を見詰める目と自覚を持っていただきたいと切に望んでいます。

 私たちは天の恵みの中で生を受け、自然の恵みの中でこそ生きて生けるのです。食事の前にどんなに手を合わせ、「いただきます」と言っても、それが単なる空虚な形式や習慣になってしまっている人達が本当に多いようです。そういう人こそ、ぜひ心掛けて、家庭菜園にでも挑戦していただきたいと思います。そうすれば、私たちが考えていることを理屑抜きに理解していただけると思うのです。もし、私たちが考えていることが日本全国の多くの人達に理解され、実践されるようになれば、食糧問題などは必然的に解決され、人々は心身共に健康になり、この世界に生きる意味もより深く理解でき、人々はお互いに助け合うのが当たり前になり、派生発展的に、環境問題や教育問題など、現在深刻になっている種々の社会問題も大きく解決の方向に向かうことが予想されます。

 私たちが農業と農を区別し、農をもっともっと普及すべきだというのは、農業は現代社会のメカニズムに一つの産業として深く組み込まれており、それを正しい方向に直接的に変革していくことは、大変困難(不可能ではないでしょうが、今のところメドがいっさい立たないと言えます)であるからです。その点「農」は個人的、あるいは家庭的に、あるいは仲間同士で心掛けることによって、比較的に簡単に実現することができます。このような人々が増えていきさえすればいいのです。そうなれば、社会的な認識も高まり、結果的に、農業も本来あるべき姿が自然にはっきりしてきて、よりよい方向に変革されてくるでしょう。

 農は何よりまず楽しいものだと思います。この野菜がいくらに売れるかとか、姿形を気にする必要もないわけですから、農薬を使う必要もなく、気楽に、気持ちのいい汗を流し、みんなで協力し合い、成長する過程を楽しみ、出来たものを共に感謝して食べる。何より、心身が充実してきます。

真の世界平和に向けて
 これまで述べてきたことをまとめて、とりあえず「食の自立に向けて}と表現しておき ましょう。その視線は、とりあえず自分たちだけのための自給自足の実現ということを越 えて、日本の社会全体に向かっているということは理解していただけたと思います。

 しか し、同時に私たちは赤城山自然牧場の構想を立てたときから今日まで、常に真の世界平和の実現という目標を見据えながら活動してきました。現代の世界の困難な状況を根本的に克服するためには、どうしてもその根本原因である国家のエゴイズムを解消しなければなりません。そのためには、日本としては今後どのように世界の平和に貢献できるかということが問われなければなりません。

福岡式自然農法と野口整体
 近代文明が完全に行き詰まった根本原因は、一言で言えば、不完全な人智を頼りにして、自然からますます大きく離れる方向に進んできたということにあると思います。いたずらに、西欧式の文明にあこがれ、盲目的に追従するのではなく、海外への真の協力ということを考える際にも、それぞれの地域、地方の伝統と文化、独自の生き方を尊重し、活かしてゆくと同時に、本当の普遍的な道を伝えて行くこと、すなわち、真のグローバルな叡智と技術を伝えていくことが根本でなければなりません。

 私たちは福岡式自然農法と野口整体(野口整体については、別の機会に詳しく述べるつもりです。)の両者はまったく同じ原理に基づいているととらえています。すなわち、「自然をそのまま生き、活かす」という原理です。その意味で、日本が福岡式自然農法やEM自然農法、野日整体を海外に向けて発信していくことは人類史的な大きな意味と効果があると考えています。私たちのささやかな試みが将来大きな花を咲かせることを夢見ながら、赤城山自然牧場は今日も活動しています。

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2009年7月2日木曜日

徒然抄 幸せの法則

本当に幸せになるためには、まず、

1 自分のよいところ(長所)だけを観る。
2 自分のよいところ(長所)を伸ばす。
3 相手のよいところ(長所)だけを観る。
4 相手のよいところ(長所)を伸ばす。
5 自分の悪い(短所・欠点)と思ってきたことはこの段階では一切気にしない。  短所・欠点と思ってきたことを直そうとはしなくてよい。1から4を心がければ自然に直る。
6 相手の悪い(短所・欠点)と思ってきたことは一切気にしない。
7 心を明るく保つ。
8 楽観主義を貫き、悲観主義に陥らない。
9 アタマは物事を陽に運ぶように使う。
10 個人的なことも社会的なことも、どんな状況でも状況は状況。状況は問題ではない。状況を問題にしてしまわない。どんな状況でも、心は常に明るく保ち的確に対処するのみ。
11 自分とも、人とも仲良く生きる。
12 物事はほどほどがよいということを知る。極端に走らない。

以上。

 幸せに生きることは簡単なことです。1から12までのことを常に心がけていると驚くほど短期間にそれを実感できます。

 以上のことが身についたら、その上で、徹底的にやるべきことがあります。それは次のことです。

1 本当の幸福は状況や条件には関係がないことを知る。
2 今の自分を100%肯定的に観る。
3 自分の過去を100%肯定的に受け止める。
4 その上で、時間をかけて、自分の過去を徹底的に反省する。間違いを発見すれば、今後2度と同じ間違いをしないことを自分に誓う。
5 自分の未来を100%肯定的に受け止める。
6 もっとも大切なことは、今ここを楽しく、人と仲良く全力で生きていくこと。すべてはそこから始まることを知る。


 今この瞬間から幸せになってください。誰にでも簡単にできることです。
 なお、すぐに自分はできないとならないこと。それが悲観主義です。仮にできなくても、楽しく生きられるではないですか。

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2009年5月30日土曜日

人間は万物の霊長か?

2つの原体験
 わたしは10歳のとき、ある日突然、あることをきっかけに、「なぜ、この世の中には貧しい人びとがいるのだろうか。こんな世の中は絶対に間違っている」という思いに強く打たれました。そして、14歳のときに修学旅行で、広島の原爆記念館を見学しました。そこに展示してある数々のものを見ている間ずっと、体が震えてしかたがありませんでした。それは恐怖や怒りではなく、ただただ、「人間はなんて馬鹿なんだ。こんな世の中は絶対に間違っている」という強い思いだけでした。

 この二つの原体験の記憶は、その後もずっとわたしのこころの奥にあり続けました。そして、22歳のとき、この提唱の原案者である和田重正氏の「みんなで国に理想を」という小冊子に出会いました。それを読んで、「これこそ、人びとが幸せになり、それぞれの国も、世界も救われる確かな道だ」と確信しました。こどものときから、ずっと持ち続けていた疑問に対する答えが見つかったのです。本当にこころの底から感動しました。

 そして、この考えを世界中の人びとに伝えていくことが、自分の使命だと思ったのです。それが、約40年の思索と実践を経て、『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』、そして、その英語版の『BEYOND NATIONAL EGOISM(国家エゴイズムを超えて)』として結実したというわけです。 

無限のいのちのリレーを経て
 140億年の宇宙の歴史の中で、この地球上に35億年前に最初の原始的単細胞生物が誕生し、そこから生物の進化の歴史が始まりました。その後も、次々に進化が起こり、さまざまな植物や動物が誕生しました。300万年ほど前に最初の人類である猿人が誕生し、人類進化の歴史が始まりました。そして、4万年ほど前に、現生人類が生まれ、今日のわたしたち=現代人に至っています。

 35億年前に地球に誕生した最初の生物から、今日のわたしたち一人ひとりに至るまで、無限とも言える世代を経て、「いのち」が一つの世代から次の世代へとバトンのようにリレーされてきました。もし、「いのちの鎖」の輪の一つでも切れていれば、あなたも、わたしも、この世には存在していないということになります。そういう事実からも、一人一人、また、すべての生物の生命は、かえがいのないもの、と言うことができるでしょう。

 また、そういう意味で、わたしたち一人一人、そして、地球上のすべての生物は、生物の歴史の最先端に立っている、と言ってもよいのです。
よく、「人間は万物の霊長である」と言われます。人間は動物の中でもっとも優れた存在である、という意味なのでしょう。確かに、人間は他の動物にはない発達した大脳を駆使して、輝かしい科学技術文明と物質文明を発達させてきました。その結果、人類は他の動物を圧倒して、この地球上で繁栄を謳歌しています。

人間は狂ったサル?
 ところが、その人類が、少なくとも有史以来今日まで、絶えず同じ人類同士で大規模な殺戮を繰り返しています。そして、同じ人類同士で差別や虐待をしています。そして、いまや、自分たちの食べ物や飲み水に毒を入れ、吸う空気を汚染し、そして、自分たちの生きている世界そのものを、破壊しようとしています。このような世の中で、多くの人びとが個人的にも社会的にも、不安を抱え、苦しみながら生きています。こんな世の中は絶対に間違っています。これでは、とても「人類は万物の霊長である」とは言えません。では、人間は「狂ったサル」なのでしょうか。

必ず平和は実現できる
 本来、人間はそんなに愚かしく無力な存在なのでしょうか。わたしは、そうは思いません。人間は数々の過ちを犯し、自他を苦しめてきました。しかし、自分たちで犯した間違いは、必ず自分たちの力で解決できるはずです。わたしたちは、自分自身の心の幸福と安らぎを得ることは勿論、わたしたち人間自身によって、諸々の社会的問題を解決し、世界の平和と人類の幸福を必ず実現できるのです。

 今日までそれが実現しなかったのは、無関心と無知と、そして何よりも、諦めにあったのではないでしょうか。「必ず実現できる」という信念を持って、間違いの根本原因を究明すれば、必ず解決への道を見付けることができる、とわたしは確信しています。そのとき初めて、「人間は万物の霊長である」と呼ばれるにふさわしい存在になるのではないでしょうか。

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2009年5月12日火曜日

開悟の大切さについて                  (ある講演のレジメ)

 私たちにとって「開悟の大切さ」ほど大切なものはない。なぜなら、生きているのは自分自身であるからである。その当の自分が何者であるのか、自分の生きるこの世界が何であるのかを本当には知らずに生きることは、自分の思いや気分で生きているにすぎない。

 本当に自分を知らず、本当に人生を知らず、本当の生き方をしないことほど愚かなことはなく、実に惜しい一生である。ましてや、人類社会がこのように急速に行き詰まりに向かっている現代、私たちはあらためて本当の自分、本当の世界をアタマでなく、はっきり体験的に捉えることが何よりも重要である。

 釈尊はすでに2500年前に大悟され、諸々の人間の苦しみ、社会の混乱の元は無明であり、存在の絶対的真実は不可分一体である、と喝破されている。

 では、無明とは何か?私たちは通常、物事をアタマによって認識・判断・思考する。しかし、アタマによる「思い」は相対的なものであり、自と他を別け、物事をバラバラの存在と誤って認識する。

 したがって、思いによって認識した事実は、所詮自分の都合で解釈した「事実まがい」でしかなく、「ありのままの事実」ではない。また、思いによって認識する「自分」は、所詮「他とのカネアイ」で自分で勝手に規定している自分でしかなく、真実の自己そのものではない。思いによっては、真実の自己、不可分一体という存在の絶対的真実は捉えることができないのである。

 存在の絶対的真実をアタマでなく直接的に捉えるためには、まず第一に、それを何が何でも体験的に捉えるのだという強い意欲が必要である。同時に、正しい瞑想や坐禅によってアタマの思いを鎮めることが肝要である。

 とは言っても、私たちの思いの壁は非常に厚く、真実を直接的に捉えることはなかなか難しいことも事実である。体験的に言えば、アタマではどうにもならない問題にぶつかり、もがきにもがいて、とことん行き詰った絶体絶命の状態において、突然アタマ(思い)を超えた意識が働き、不可分一体の存在の絶対的真実が直接的に捉えられるのである。

 私の主宰する「自覚のセミナー」も、このような原理に基づいているが、これまでも1週間という短期間で多くの参加者が真実の自己と真実の世界に目覚めている。

 いずれにしても、私たちはあらためて「生活する自分」だけでなく、「存在する自分」とは何か、ということを第一のテーマとしなければならないと思う。

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ワクワクするような国創りを目指して

ワクワクするような国創りを目指して、みんなで日本に理想をかかげよう
                   (ある講演のレジメ)
 
 現在の日本は、政治、経済、教育、福祉など深刻な行き詰りを見せています。また世界的にも、環境破壊や戦争などにより、人類社会は未曾有の危機に瀕しています。この危機を根本的に乗り越えるためには、これまでとはまったく異なる流れを創りださなければなりません。私は、その鍵が現行日本国憲法にあると考えています。

日本を含め、人類社会のかつてない行き詰まりの元凶は「自分の国さえよければ}という国家エゴイズムの対立にあります。この国家エゴイズムの対立が戦争を生み出し、科学技術を発展させ、企業間の競争を促進し、環境問題や貧困、飢餓などの問題を生み出してきました。

 現行日本国憲法は、前文において、日本は平和的な手段によって、世界の深刻な諸問題の解決に全力で貢献する。そうすることにより国の存立を図る、ということが高らかに宣言されています。これは、国家エゴイズムを自ら一方的に放棄するということです。そして、9条において、軍備の撤廃と自衛のための戦争を含めて、いかなる戦争をも放棄することを唱っています。

 私は一昨年、『国の理想と憲法―国際環境平和国家への道』という本を出版いたしました。その中で次のように提案しています。

「私たちは、行き詰った世界の中で、日本を真に再生し、世界の危機を根本的に乗り越えるさきがけとなるために、現行日本国憲法の平和精神をより積極的に活かし、日本に新たな「国際環境平和国家を目指す」という理想を掲げましょう。」

 日本ではここ数年、政治の混迷と、かつてない不況に陥っています。この間、憲法改正問題はどこかへ行ってしまったような雰囲気が漂っています。しかしながら、2010年5月18日には国民投票法を施行されることを考えると、いずれ再び憲法改正への動きが活発になることが予想されます。今、こういう時期だからこそ、私たちは真剣に考えていかなければならないと思います。

『国の理想と憲法ーー国際環境平和国家への道』
野村昇平著・七つ森書館出版

目次

Ⅰ 日本の将来を決める憲法問題
 第1章 武力がなくて平和は守れるか
 第2章 憲法改正の賛成・反対論
Ⅱ 地球環境と人類社会の今を知る
第1章 環境問題の実態を知る
 第2章 人口・食糧・水・エネルギー・原発の問題
 第3章 21世紀の紛争と戦争を考える
Ⅲ この危機をどう乗り越えるか
 第1章 行き詰まりの根本原因は何か
 第2章 この国の未来を考えるために
 第3章 国家エゴイズムを超えて
提唱 みんなで国に理想を掲げよう

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2009年3月2日月曜日

存在の真実についてー2

本能とは無数の成功体験の集積
 野生の動物は、すべて本能に従って動き、循環し、関連しあって自然と調和して生きています。それは本能によって自然の法則にしたがって生きているからです。本能は何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何億万年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、個と種の生き残りと繁栄のためのよりよい成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得・蓄積してきた最高の能力です。

 ですから、野性の動物は本能にしたがって行動し生活すれば、それがすべて自然の法則に沿った調和したものになるので、怪我や細菌による感染、あるいは食糧不足による身体の衰弱などを除いて、体の働きが異常になることがないのです。つまり、野生の動物は、基本的には、事故によるケガを除けば、病気にはなりません。

人間はアタマで生きる
 それに対して人間にはアタマ(発達した大脳)が備わっています。他の動物と異なって、人間の特性はアタマで考えることができるということです。しかしながら、アタマの判断能力は生きることの基本的な分野では本能に比べると非常に貧弱であると言えましょう。アタマによる判断能力にはせいぜい長くても数百万年の体験の蓄積しかありません。

 一方、前述のように、本能は地球上に生物が発生以来約10億年の成功体験が集積そして凝縮されたものです。例えば、動物の生存に不可欠な食物について考えてみましょう。野生の動物は本能にしたがって、好きなものを好きなだけ食べます。自分の体に合うものはよい味、好きなものと感じます。反対に体に合わないものはまずい味、嫌な臭いと感じます。それが本能の働きです。そして、本能の働きにより、必要量を食べると自然に満足して、それ以上食べるのをやめるのです。

野生動物に肥満はない
 したがって、野生の動物は体に合わないものを食べるということはなく、また、食べ過ぎということもありません。当然、野生の動物には肥満はありません。カバが太っていると思うのは、それを鹿などの別の種と比べるからそう思うのです。カバはその体つきが生存に適しているので、種として本来的に肥満しているのではありません。カバはその体つきがそのままで標準であり、同じ種の中に標準を超えて、異常に肥満したカバはいません。

人間に適した食べ物
 それに対して、人間は多くの場合何らかの知識や経験などに基づいて、食べ物の種類や量や食べる回数も、アタマで考えて決めることが多いのです。その結果、多くの場合食べ過ぎになっています。

 人間も本能にしたがえば、本来、肉や乳製品などはそれほど多くは食べないはずなのです。例えば、人間の歯は堅い生肉を噛み切るにはあまり適していません。人間が火を使用し、肉を焼いたり煮たりして軟らかくする技術を開発するまでの人間、あるいは、その先祖である類人猿の一種であった数百万年の間、他の動物の肉を食べることはあったとしても、主食は木の実や果物、木の葉のようなものだったと推測されます。

ネコと人間の違い
 また、本来は純然たる肉食動物であるネコなどを観察していると、チョコチョコ動く小動物が近くに来ると、本能的に彼らは興奮してその小動物の動きを眼で追いかけ、相手の隙をねらって飛び掛ろうとしています。

 それに対して、私たち人間は牧場の近くを散歩している時に、子ヤギなどが近づいてきても、一般には「可愛い」と思うことはあっても、「これは美味しそうだ」などと思うことはありません。ましてや、よほどの飢餓状態に直面しているのならともかく、通常の場合には、跳びかかって捕まえてやろうという衝動が本能的に湧き上がってくるようなことはないでしょう。

 これらは一例に過ぎません。もちろん、人間は肉を焼いたり、煮たりして軟らかくし、生肉のまずい味を隠すためによい香りや味を持つ野菜や果物のジュースや塩などの調味料を加え、肉を「美味しく」食べることはできます。それが、体に本当に適しているかどうかは別として、人間の食材の範囲を広め、食生活や食文化を豊かにし人間の生存を容易にし、その生息地域を飛躍的に拡大させたことは事実です。しかしながら、火に掛けたり、他の匂いや味のよい野菜や果物などと混ぜて調理しなければ、美味しく食べられないということは、肉は本来的には人間にはそれほど適した食べ物であるとは言えないということではないでしょうか。

ミルクはよい食べ物か
 乳製品はどうでしょう。動物のミルクはその種によって成分が異なります。人間の赤ちゃんには人間のお母さんのミルクが適しています。ウシの赤ちゃんにはウシのお母さんのミルクが適しているのです。
 その意味では、人間の赤ちゃんにウシのミルクを与えるのは問題があるといえるのではないでしょうか。ましてや、哺乳類は生まれてからある一定の年月が経過すると自然に離乳します。母親のミルクを必要としなくなるのです。

 哺乳類は大きくなれば自分で食べ物を捕って食べるようになります。ところが、多くの人間は大きくなってからもミルクを飲みます。それも自分のお母さんのミルクでなく、ウシのお母さんのミルクをです。何か変ではありませんか。

 ウシのミルクに人間にとっても栄養になるものが含まれているのは事実でしょうが、ウシのミルクには赤ちゃんウシにとって必要な成分が凝縮されています。ウシのミルクは人間の大人にとっても本当によい食べ物なのでしょうか。人間の大人はウシの赤ちゃん用のミルクを奪って飲んでいるわけですが、大人のウシでさえ牛乳なんか飲みません。

人間の体に適した食べ物
 では、人間の体にとってもっとも適した食べ物とはどんなものでしょうか。それは基本的には、焼いたり煮たりなどすることなく、生のままで、他のいかなるものとも混ぜないにもかかわらず、そのままで香りがよく、美味しいもの、ということになります。

 これは現代の多くの人びとの常識とはかなりかけ離れた考え方かもしれません。しかし、人間の体の自然とは何かという視点に立てば、決してとっぴな考えではありません。私たち人間の先祖は数百万年の長い年月、自然が与えてくれた最高の能力である本能に基づき、生のままで匂いがよく、味のよい食べ物を選んで食べてながら生き抜いてきたのです。
 したがって、人間の体の構造はそのような食べ物に適応するようにできています。その後人間はいろいろの調理法を開発し食材などの範囲を広げてはきましたが、その歴史はせいぜい数万年というところでしょう。人間の体が新しい食物に充分適応しているとは言えません。

なぜ食べ過ぎるか
 多くの場合、人間はアタマの判断や知識に基づいて食べ物を選び食べます。本能にしたがえば、体に合うものを食べるので、ちょうどいいところ(比較的に少量)で満足して、食べるのを止めるはずなのです。

 ところが、アタマの判断や知識で食べているために、体に本当に合うもの(好きなもの)を食べないことが多いので、いくら食べても、本当には満足できません。それで、満足を得ようとして、もっともっと食べないではいられないのです。そのために、ついつい食べすぎになってしまうのです。

体の異常は不自然な生活から
 また、現代の生活ではあまり歩いたりすることがなくなりました。歩くことによって人間の体は自然にバランスなどが調整されるのですが、その自然の調整がうまく出来ません。
 また、運動不足になるので、仕事の後運動ジムなどに通っている人も多いようです。野生の動物はジムなどに通わなくても運動不足になることはありません。

 このような例は人間の生活のあらゆる場面に見られるのではないでしょうか。つまり、人間はアタマで判断するため、自然の法則から外れ、生活が不自然になり、そのために体が異常になるのです。ということは、原則的には、体の異常は生活を自然の生活に即して正し、自然の生命力(本能)に任せれば治るということです。

人間の社会は一体の社会
 私たちの世の中、つまり、人間の社会も本来すべてが繋がった循環する一体の世界です。この社会は大人、子供、老人、赤ん坊、男、女、夫、妻、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、甥、姪などすべての人が繋がり合い、循環した関係にあります。
 それが家族、友人、知人などいろいろな関係と繋がりを持ち、また、それらの人々の有機的な集まりや結合により、店、工場、事務所、会社、役所、裁判所、学校などいろいろな組織や各種の機関が構成されます。
 そして、さらにそれらが集まって国家となり、さらに世界はこれらのすべての要素によって構成されています。
 国際社会の基本的単位は国家ということになります。すべての人やその他の構成要素は人体におけるすべての細胞や組織や器官と同様に、この一体の社会を構成するかけがえのない存在であると言えるでしょう。

私たちの社会は調和していない
 しかしながら、一体であるこの社会はすべてが正常で調和していると言えるでしょうか? 残念ながら、そうではありません。この社会における一つ一つの存在はかけがえのないものではあり、互いに密接に繋がっているとしても、それらの働きが正常に働き、調和した、平和で幸福な世界になってはいません。それはなぜでしょうか? 真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているのです。

 それは体の場合と同じように、アタマで間違った、つまり、真理(自然の法則)に沿わない考え方や観念、判断に従って、個人個人や各種の組織や機関が活動することにより、この社会に異常が生み出されるからです。
 それが、個人の心身の悩みや苦しみの原因、また、人と人の間の憎しみや争いの原因となり、さらに、紛争や戦争、貧困、飢餓、環境破壊などの原因ともなっているのです。

 要するに、私たちの社会も一体です。しかし調和していないのです。それは、存在の真実、すなわち、「すべての存在はバラバラではなく、不可分一体である」という真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているということです。

体の仕組みと社会の仕組み
 体は一体ですから、体のどこかに病気や怪我があればそれは体全体の不調和となります。また、その影響と反応はすべての細胞の末端まで及びます。また反対に、一個の細胞の病気や傷は一体である全心身の病気に繋がります。

 人間の社会は一体の世界という意味では、人の体とよく似ています。社会におけるいろいろな問題は人の体の病気と同じようなものです。つまり、体の一部の傷みが全身の傷みとなり、心の病となるのと同じように、世界のどこかに一人でも貧困や飢餓、あるいは戦争など、困ったりで苦しんでいる人があれば、自分自身の苦しみ、不幸と捉えるのが人間本来の正常な感覚であり、また正しい観方なのです。
 そして、それを一体の自分自身の苦しみや不幸であるとして、一刻も早く取り除き、正常に回復するように勤めるのが人間本来の姿だと思います。

 このように、もし、一人一人がこの存在の真実を自覚すれば、そこにはもはや争いなど起こりようもなく、「自分さえよかったら」あるいは、「自分達さえよかったら」というエゴイズムは生じるはずもないのです。

一体観とバラバラ観
 ここでもう一度、個と全体という観点から、一体観とバラバラ観について考えてみましょう。というのは、私たち人間一人一人には確かに「自分」という意識、すなわち「個」という意識があるからです。そして一人一人、あるいは、一つ一つの存在はバラバラであるというように見えているのも事実なのです。これはどのように考えたらいいでしょうか? 

 これは私たちの五感を通して見たり、感じるイメージとこの世界の本当の姿の違いであると考えられます。この違いを一つの例えで説明しましょう。
 太陽光線は無色であり、ひとつのものです。ところが、無色の太陽光線をプリズムに通すと虹のように七色に分かれます。実際は、七色ではなく、もっと多くの色に分かれるのだと思います。
 ちょうどこれと同じように、すべての存在は、元々は一つのものが、私たちの五感を通すと無数の「個」として見えていると考えられるのです。

人類はみな兄弟
 「個と全体」の関係をもう一つ例えを使って説明しましょう。
 一九八七年に発表されたハワイのカン博士らの研究によれば、アジア、ヨーロッパ。オーストラリア、ニューギニアなど世界各地からの新生児の遺伝子を比較研究したところ、現在地球上に生存するすべての人間は20万年前にアフリカに生きていた一人の黒人女性を共通の先祖として持つというのです。
 要するに、すべての人間はその女性の子孫であり、人類はみな兄弟というわけです。

 人類の共通の先祖が本当に特定されのかどうかは別として、すべての人類が、ある特定の共通の先祖を持ち、すべての人間がその特定の先祖の子孫であるということには異論はないと思います。

 それは「ある共通の先祖から分かれてきた」と表現することもできるでしょうが、「分かれた」子孫の男女がまた結びついて、共通の子孫が生まれるというようなことが無限大に近い回数繰り返し起こっており、それは、いわば、立体的網の目のような関係になっています。

 ということは、「分かれてバラバラになったかに見えて、それは新たな結びつきを有機的に形成することに繋がっていくことを考えれば、「バラバラで関係がなくなった」とは言えず、一見バラバラに見えるイメージも不可分一体の姿の一つであると言えます。

すべての存在は一体である
 「個と全体」の関係は、私たち人間の体について考えるとより明瞭になります。
 一人一人の人間の生命の元は一個の受精卵です。その受精卵がそのままではあまり精密な生命活動をすることができません。そこで、1個の受精卵が細胞分裂の結果2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、無限に近い回数細胞分裂を繰り返し、結局60兆以上の細胞が形成され、それらの細胞から、各種の機能を持つ組織、そして、器官が生み出され、それらが全体として一人の人間という生命体を構成しているのです。

 では、それぞれの細胞や、それぞれの組織、それぞれの器官はバラバラでしょうか? 無関係でしょうか? 「ただ繋がりがある」というだけでしょうか? 「密接な関係がある」という表現でお互いの関係を説明しきれるでしょうか?

個と全体
 いずれも間違っています。それぞれの関係は、互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係であり、それが互いに循環し、それぞれがそれぞれの特性や役割を果たすことによって全体である一つの生命体(いのち)が生きることができるのです。

 つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。

存在の真実の自覚が大切
 この「個と全体」の関係は、人間の体だけでなく、自然界においては当たり前の姿です。そして、人間の社会についても本来のあるべき姿なのです。
 確かに、私たちには「自分」という意識があり、「個」という意識もあります。しかしながら、だからといって、私たち一人一人の存在がバラバラであるということでは決してありません。
 私たち一人一人の人間は、本来は、お互いになくてはならない存在であり、互いに助け合い、補い合い、協力し合い自然と調和して生きていくのが、人類社会の真実の姿なのです。

 一人一人に「自分」という意識があり、「個」という意識があるのは、それによって、他をよりよく生かし、全体の生命をより発展させるという、この大宇宙にあまねく働いている「いのち」自体の内的要請により、進化の結果、そのような能力を人類は獲得してきたのだと思われます。
 それは、ちょうど単細胞生物から多細胞生物、さらには、複雑な組織や器官を持った各種の植物や動物に進化してきたのが、「いのち」自体の内的要請であると考えられることと同じです。

 いずれにしても、人間社会のすべての問題はバラバラ観に基づくエゴイズムにあります。ここまで人類社会が行き詰った現代において、今こそ、「すべての存在は一体である」という存在の真実を自覚しなければならないと思います。

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